いのちの水 2023年5月 第747号

あなた方の祈りとイエス・キリストの霊の助けによって、

このことが私の救いになると知っているからです。

(フィリピ書1の19

 

もくじ

 

・新緑の季節

・神の愛ー旧約聖書において

     どのように記されているか

・来るべき永遠の都を求めつつー

イースターでの証し  KT 北海道

神の霊が自分たちの内に   K.K

・鍛練の実    T.Y

・故西川徳雄氏の祈りの課題

お知らせ

集会案内

 

 

リストボタン新緑の季節

 

 5月となると、野山は到る所、初々しい緑で覆われてくる。

 つい数カ月前までは、枯れ木のような状態であったものが、たちまち黄緑色の新緑となっていく。

 それはその無数にある草木の葉の一枚一枚のなかで、常温において、なんの機械も電気も使うことなく、大規模工場でも到底できない複雑な化学反応を生じさせ、大気中の二酸化炭素、酸素、また地中の窒素化合物やリンやカリウムなどの化合物とその他のミネラル類を水とともに吸い上げて、それらをもとにして太陽エネルギーによって、デンプン、セルロース、タンパク質、脂質、その他ビタミンや種々の香料、さまざまの色素、ポリフェノール類…驚くべき複雑な化学構造をした物質が作られていく。

 それらの反応の元になる原子、分子なども神の創造によってなされたものであり、植物体の内なる反応なども、それを支えるエネルギーもまたそれらの葉や茎、幹、そして花々などの驚くべき多様性を生み出す叡智もみな、創造主たる神からきている。

 神は、ありとあらゆる植物たちの内で行なわれる複雑で無限の多様性をもつ化学反応の総指揮者である。

 そして、それらは全体として、神のはかり知れない命の創造の力を証ししている。

 それら全体が、私たち人間も、神の命の力を受けて、何か命にかかわる良きものを生み出すことができるのだと、それらの新緑たちは語りかけている。

 植物たちが、この世の素材を用いて、多種多様な新たな物質を絶えず造り出していくように、人間も、そうした物質的なものを食物として取り入れつつ、神の霊的な養分、命の水、命の言葉をうけつつ、絶えず、何か命あるものを生み出すよう、うながされている。

 そこから、生みだされるものの根底にあるものが祈りである。

 太陽のエネルギーは、人間の思いをはるかに超えて、常に私たちにそそがれ、取り囲んでいる。

 同様に、神の力やその愛のまなざしもまた、常に私たちの思いを超えて注がれ、私たちを包んでいる。

 そして、祈りによってその力、エネルギーを受け取り、私たちも受けとったエネルギーによって新たな祈りを続け、さらに各人に固有のなすべきことへの道へと導かれていく。

 そして、その祈りが真実なものであれば、必ず神が何らかのかたちで用いてくださる。神は、小さきものをも深く目にとめてくださる御方、愛そのものであるゆえに、いかに私たちが罪深きものであり、小さき者にすぎないものであっても、その小さき祈りをも大切に受けとってくださる。

 私たちの祈り、それは目で見えるような結果をもたらすこともあるが、多くは私たちの感知できないところで何かよきものとして用いてくださっている。

 私自身、かつては自分も含め、人間とこの世の前途に何ら希望も持てなかった闇にあったが、キリストのこと、聖書の世界を知らされて初めて、新たな命が魂のうちに発芽したのを感じてきた。

 そして、そのように導かれた背後には、数々のひとたち、すでにキリスト者となって新しく生まれたひとたちの祈りが捧げられてきたのを思う。

  植物たちは、神の力を受けて沈黙のうちに、新緑、そして花々、果実、樹木の成長…といういのちに満ちたものを生み出すように、人間にあっても、真実な祈りは、どこかで何かよきものを生み出していく。

 人間世界には、ありとあらゆる悲惨や悪がありつつも、キリストを救い主として信じて新たな命を与えられ、絶望からよみがえって新緑のような命を与えられてきたひとたちは、過去二千年間、絶えることなく続いてきた。

 それも、神の多いなる御計画であるとともに、その神の導きと力を受けてなされてきた人々の祈りの実でもある。

 


 

リストボタン旧約聖書と神の愛

 

「光あれ」と神の愛

 聖書の巻頭に、闇の深淵があり、空しさ、荒涼とした世界であったが、そのただなかに、神が「光あれ!」と言葉を出された。

 それによって、深い闇の中に光が現れ、神の言葉に従って混乱の極みであった暗黒世界が秩序あるものとして整えられていった。

 これは人間の心の状態を映し出している。私自身、この箇所はキリスト者となる前には、現在の自分とか世界とは何の関係もない古代の話だと聞き流していたであろう。

 実際、私の大学時代、キリスト者となって間もない頃、親しかった理学部の友人にこの創世記の話を少ししたが、彼は「古代の神話だね!」といって笑って聞き流したのみであった。

 しかし、この創世記の最初に実は聖書全体のメッセージが凝縮されているのである。この世は闇であり、何が正しくて歩むべき道なのか、まるで分からなくなった無数の人たちの群れがある。そうした闇と混乱のただなかに光が差し込むとき、まったくそれまでと異なる状況が訪れる。

 私自身、精神的に闇にあるときにはどう考えたらいいのか、この深い悩みと苦しみからいかにして脱することができるのか全く分からなかった。

 そして周囲の友人や親、大学の教師たちもそのような答えはまるで持っていなかった。そこから私は引き出されたのであった。

 それは光が闇に閃光のように差し込んだのであり、この世を貫いている真理の流れが初めて感じられるようになった。

 そこに深い神の愛を実感した。それまではどんなにしてもその恐ろしい闇から抜け出すことができず、どんな人間もどうすることもできなかった闇から救い出して下さったのは、人間の愛でなく、神の愛そのものであった。

 キリストの働きもまさにそのような闇から救いだすことであったし、そのためにこの世に遣わされたのである。

 このように、聖書の冒頭にある有名な言葉、闇と深い淵、あらゆる混乱のただなかに「光あれ!」と言われて、そこに光が存在しはじめた、という記述は、聖書全巻を貫く神の愛を宣言しているものなのである。

 人間の苦しみや悲しみはいろいろな場合に生じるからだれでも何らかの形で持っている。愛する者が奪われた、人から認められず、愛されず無視されたり見下される、差別される、貧困や病気、物質的には豊かであってもなすべきことが分からない、希望がない、生きる支えがない…等々。そのようなときには心に闇があり、考えるべきこと、生きるべき道が混乱して分からない、ということである。生きていく力もなく、そのような気持ちにもなれない、という状況である。

「光あれ!」という聖書の最初に出てくる言葉は、そのようなあらゆる状況から導き出すものと言えよう。

 愛とは苦しみや悲しみの中においてこそ、いっそう深く感じるものであり、そのように光を与える神の愛が全巻の最初のところに与えられるところに、聖書が愛をメッセージとしているのが浮かび上がってくる。

 導きの愛

 次に、旧約聖書における神の愛は、導く愛というかたちではっきりと示されている。

 創世記で重要な人物は、アブラハム、ヤコブ、ヨセフたちである。これらの人物はさまざまの困難を経て、すべてよりよきところへと導かれていったのであり、その導きのなかで、神の愛を深く知らされていった人たちであるが、 そのような、神の生きた導きによって神の愛を知らされていくということは、現代の私たちにも常に経験されることである。

 アブラハムは最初は現在のイラクの南部地方に住んでいた。そこから導き出されて、遠いカナンの地へと旅立った。

 それは、その長い旅路を導かれる過程で、当時は誰も知らなかった唯一の神を知らされ、その目的地においての生活において深く神を知らされて生活するためであった。

 これは私たちにおいても、自然のままの状況においては神も知らず、歩むべき道や目的地も分からないままであったのを、唯一の正しい道へと導かれることの重要性を示している。

 周囲の人々は唯一の神がおられるなどと全く知らなかったのに、アブラハムはとくに選び出されて唯一の神を知らされた。彼にとって、それは驚くべきことであったし、そのことに深い神の愛を知らされたのである。

 愛というのは、長い期間にわたって持続しているものほど真実な愛である。というのは、神の愛こそ真実であるが、神は永遠の存在であり、その愛も必然的に永遠の愛である。どこまでも消えることはない。

 人生の数々の波の中、嵐が吹きつける中で一貫して自分に注がれている愛を受けていくときに、その深い愛をいっそう感じるようになる。

 導きのうちに実感する愛はそのようなものである。それはこの世でふつうに言われている 男女や親子、友人同士の愛のように一時的なものと本質的に異なるものだ。

 アブラハムは文字通り全く未知の世界へと導かれ、距離的にいっても、はじめに住んでいたカルデヤのウル(現在のイラク地方で、ユーフラテス川の河口に近い所)から、目的地のカナンまで千五百キロ以上あり、さらにエジプトまでも飢饉のときには旅立っていったが、それは全体では二千キロを越えるような距離である。砂漠のような乾燥地帯においてこのような長い距離を移動し、さまざまの困難に直面しつつ、アブラハムは神の導きを実感していった。

 その長い歩みのなかで神が個人的に親しく語りかけ、本当の歩むべき道を指し示したのであった。

 アブラハムの孫にあたるヤコブにしても、兄からいのちを狙われるといった危機的状況のなかで、遠くへ親もとを離れて旅立っていった。

 その過程で、彼は自分自身の欠点にもかかわらず、神が現れ、天に通じる階段が現れ、天使が上り下りしているのを見るという得難い経験を与えられた。

 ここにも一人で未知の土地へと歩むものを、愛をもって見守り導く神の姿がはっきりと表されている。

 そして目的地に着いたのちにさまざまの苦労を経て、妻にも恵まれ子供も次々と与えられて、それが結果的に神を信じる大きな民族のもとになったのである。

 その後、ヤコブの子供のヨセフが兄弟たちの悪意により、隊商に売られ、遠くエジプトに連れ去られた。

 彼は、家族から引き離され、ただ一人エジプトで生活することになった。彼は勤勉で英知に富んだ人間であったが、悪しき女に謀られて牢獄に入ることになった。

 そのような苦境にあっても神は一貫してヨセフを導き、その苦しみのただなかに大いなる業をなし、ヨセフはただ神からの啓示によって、隣人の悩みを解決し、牢獄から出ることができた。その後もやはり神の英知を受けていたので、エジプト王にも認められるようになり、政治の最高の地位にまで上ることになった。しかしヨセフはそのようなことによっても傲慢になることもなく、神のしもべとして歩んだ。

 そのとき、かつて自分を殺そうとまでし、外国の商人に売り渡してしまった兄弟たちが飢饉のために食物を求めてエジプトにやってきた。そして、弟のヨセフに出会った。兄弟たちはかつての弟がそのような高い地位にあるとは夢にも思わなかった。ヨセフは兄弟たちが悔い改めているかどうかを調べようと考え、彼らを試みた。

 そうした過程で、兄弟たちのなかのユダは深く悔い改め、自分がどんなに苦しむことになっても、末っ子や年老いた父のことを考えるという姿勢があるのがはっきりとし、かつそのような苦しみに遭うのはかつての自分たちのヨセフへの罪のゆえだと気づいたのであった。

 このようにして、兄弟たちはかつての罪を悔い改め、和解も与えられ、長い間会うこともできなかった父との再会をも果たすことができたのである。

創世記の最後の部分で、ヤコブは次のようにヨセフを祝福して言っている。

 

…わたしの生涯を今日まで

導かれた牧者なる神よ。(*

私をあらゆる苦しみから

贖われた御使いよ。

どうか、この子供達の上に

祝福をお与えください。

    (創世記四八・1516より)

 

*)「導かれた牧者(なる神)」の原文は、「養う、草を与える、飼う」といった意味の動詞の分詞形が使われている。参考のため、英語訳のいくつかをあげておく。(なお、詩編二三編の、有名な、「主はわが牧者」という箇所にもこの箇所と同じ動詞の分詞形が使われている。)

 

The God who has been my shepherd all my life to this day,NIVNRS

The God who has led me all my life long to this day,RSV

The God which fed me all my life long unto this day,KJV

 

 このように、私たちを長い人生を通して一貫して導き、生かし、霊的な養分を与え、導いていくところにヤコブは生涯を通して働く神の愛を感じ取っていたのである。

 ここから、私たちは詩編二三編の有名な詩が実はそのような導く神の愛を内容としていたのに気づくのである。

 

主は羊飼い、私には何も欠けることがない。

主は私を青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく

私を正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときも

私は災いを恐れない。

あなたが私と共にいてくださる。(詩編二三編より)

 

 神の愛の内に置かれている人であっても、苦しみや死に瀕するような艱難に直面することもある。その点で、安楽や苦痛のないものを与えようとする人間の愛と大きく違っている。

 しかし、そうしたすべてを通して神は導かれる。敵対するものが周囲にいて苦しめることもある。しかしそのような状況にあってもなお、霊的には満たし、力を与えて下さる。

そしてよきものであふれさせて下さるという。生涯自分に恵みを与え、慈しみを注いで下さる。そこに確かな愛がある。

 こうした導きの愛は、旧約聖書の預言書である、ホセア書にも、

 

「私は愛のきずなで彼らを導き…」(ホセア114

  と記されている。

(参考 I drove with a harness of love, Moffat訳)

 

 このような導きの愛こそ、出エジプト記や、サムエル記などの歴史書にはっきりと記されている。出エジプト記は、エジプトの奴隷となっていた民がいかにして神の導きの愛を受けて、エジプトから脱出し、砂漠地帯をいかにして、神が導き、助けたかが記されている。

 また、旧約聖書の後半部を占める預言書はどうか。それは、間違った道を歩もうとする人々に対して、預言者を遣わし、何とかして正しい道に引き戻そうとする、神の愛の現れと言える。

 ユダの国の人々は神の言葉を知らされているにもかかわらず、神に背きまちがった道を歩もうとした。

 それゆえ、神は預言者エレミヤを遣わし、人々の間違いを指摘し、神に立ち返るように繰り返し教えた。

 しかし人々はまったくそれを意に留めず、背き続けたためについに、エルサレムは焼かれ、略奪され、多くの人たちが殺され、多くが遠く離れたバビロンへと捕囚となって連れて行かれた。

しかし、そのような悲惨な事態となっても、なお、神は人々を愛して、その捕囚も永続的なものではないと言われた。

 

…それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。

私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会う、

と主は言われる。

私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

    (エレミヤ二九・1114より)

 

 このように、数々の困難や危険な状況に陥ったのは、決して単なる裁きではない。そうした厳しい状況を通って罪を知り、本当の悔い改めに至るようにとの神の愛が背後にある。

 預言書というと、正義の神が人々の現状を見て警告し、厳しく裁くことを書いてあると思われていることが多い。しかし、エレミヤは神の深い愛を一貫して告げたのであった。

 

…しかし、見よ、私はこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。

 そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。

私に対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。(エレミヤ書三十三・6〜8)

 

 かつての背信行為にもかかわらず、時がくれば、神は彼らを赦し、繁栄を回復させる、そしてすべての罪に赦しを与えるという。 このような神は愛の神であって、決して単なる裁きの神ではない。

 次に、神の愛は、旧約聖書の詩編にしばしば表されている。

 

 詩編の最初に置かれている詩は、つぎのような内容である。

 

ああ、幸いだ

悪しき者のはかりごとに従って歩まず…

主の教えを喜び

その教えを昼も夜も心に留める人…

そのような人は、流れのほとりに植えられた木のようだ。

時が来れば実を結び、その葉もしおれることがない。         (詩編第一編より)

 これは、悪に従うのでなく、真実の神に従うときに豊かな恵みが約束されていることが全体の詩編の総括のようにして語られている。

 一見したところでは、神の愛がここに言われているとは感じられないという人もあるだろう。

 しかし、本当の幸い、心の深い満足や喜びが、生まれつきの健康や能力、あるいは境遇や血筋といったことでなく、ただ「主の教え(神の言葉)を喜び、それを絶えず心に持つ」ところにある、ということは、万人にとって、特に弱い立場に置かれている者にとっては大きな福音である。

 というのは、このようなことは、本来だれでもできることである。 大きな会社の経営とかスポーツで優勝、音楽で演奏会をする、学者になる…等々は、だれでもができるわけでは決してない。ごく一部であるし、生まれつきの知能、能力とか天分、さらには家庭がある程度経済的に豊かである…等々が大きく影響する。

 それらができるものほど幸いだ、というのなら、生まれつき、幸いな者とそうでない者が決まっていることになる。それではそのような能力のない者は幸いから見捨られたようなものである。

 私たちの幸いは、神の言葉への心の態度によって決まる、という、本来なら考えたこともないようなところに、幸いの中心を置くということは驚くべきことである。

 人間の社会ではどんなに真実にしていたからといって報われるとは限らない。不信実なものがかえって多くの報酬を受けたり、もてはやされたりすることも多い。

 ただ、神の言葉を喜び、それをいつも心にかけているだけで、私たちは魂がうるおされ、よきものがそこから生れる、それは神が私たちを愛して下さっているからであり、ここに神の愛がある。

 神に従わない、言い換えると不信実で悪に加わるなら、当然よきことはない。これは聖書にかぎらず、常識的にも当然のことである。しかし、神の言葉を心にいつも愛し、喜んでいるだけで、金では買うことのできない良きものが与えられる、心がうるおされるといったことは、この世では考えられないことである。

 それは神からくる祝福であり、神の「いのちの水」が与えられることであるから、神などないという人には、経験できないことになる。

 また、詩編においては、次のように、非常な苦しみにある状況から救い出されたという経験が多く記されている。

 

…主よ、憐れんで下さい。

私は嘆き悲しむ。

主よ、癒して下さい。

私は恐れおののく。

主よ、いつまでなのか。

主よ私を助けて下さい。

私は嘆き疲れ、夜ごとに涙はあふれる…。

苦しみのゆえに私の目は衰え、

私を苦しめる者のゆえに、老いてしまった。

主は私の泣く声を聞き、

私の嘆きを聞き、

主は私の祈りを受け入れて下さる。(詩編六編より)

 

 この詩に表されているような耐えがたいと思われるような苦しみや悲しみから救い出されるという経験、それが詩編の中心にある。そのような苦しみは人間によっては救われない。

 それができるのは、神であり、神の愛である。

 人間が協力して一つの仕事をなし遂げるということはよくみられる。一般的に会社などでの仕事とは大体そのようなものであるし、チームで力を合わせて行なうスポーツとか器楽演奏、演劇なども同様である。

 しかしそこには互いに愛があるかというと、そのような仕事と個々の人間への愛ということとは別であって何の関係もないということが多いだろう。

 医者や看護師にしても、病人の苦しみや悲しみをいやすことも部分的、あるいは表面的にしかできない。

 ガンの重度の患者の痛みや苦しみを薬で一時的に弱めてもその患者や家族を包む絶望や不安や悲しみといったものはどうすることもできない。

 苦しみや悲しみが大きいほど、人間はますますどうすることもできなくなっていく。しかし、神はまさにそのような人間が手を触れることのできないような深い苦しみや悲しみに御手を差しのべて下さる。

 それが神の愛である。

 この詩においても、ある人が自分の深い悲しみや苦しみを聞いてくれた、人間がいやしてくれた、というのでなく、神だけがその祈りを聞いて下さり、その深い悲しみのもとをいやして下さるという経験がある。

 この「いのちの水」誌にも何度か取り上げてきた、次の有名な詩はどうであろうか。

 

天は神の栄光を物語り

大空は御手の業を示す。

(詩編十九・23より)

 

 これは、一読しただけでは、神の愛とはとくに関係がないと思う人が多いだろう。

しかし、これは星や月など天体や大空のさまざまの雄大で美しい姿が神の御手のはたらきを示している、というだけではない。

 星や、夕焼けや白い雲、青い空といったものだけでなく、野草の清い美しさやとくに大きい樹木の祈るような姿、それらは神がいかに絶大な力を持った存在であるかを示すとともに、神の人間への愛をも示しているのである。

 私たちが、闇に苦しみ、人間の汚れに心が痛むとき、「人間から離れよ、ここに神の国の広大無辺や、完全な美や清さがある、それに接して心を癒されるように」と私たちを導こうとされているのが自然の美や力なのである。

 私自身、かつて人間の罪や汚れのなかでどうにもならないとき、しばしば山を歩いた。山の世界のもつ清さと揺るぐことのない姿、ところどころの野草などにどれほど心が癒されたことであろうか。

 山々の連なりのただなかに身を置くとき、大きな見えざる手に包まれるような、人間世界の汚れがすべて洗い流されるような気持ちになったことは幾度あっただろう。

 物言わずただ沈黙をもって、その存在を続けている山々が実は目には見えない神の大きな愛の表現であると感じたのであった。

 

… 昼は昼に語り伝え

夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく

声は聞こえなくても

その響きは全地に

その言葉は世界の果てに向かう。(同35

 

 このような表現も、神がさまざまの手段を用いて、その真理を人間に伝えようとされていることが暗示されている。

 このように真理が絶えず世界に伝えられようとするのも、人間が闇のなかにあり、真理を知らず歩んでいる状態であり、そのような人間の現実に向かって心を注ぎだそうとする神の愛の表れなのである。

 

 主イエスも言われた、

 

…あなたがたの天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、

正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる…。(マタイ福音書5の45より)

 

 この言葉には、敵対するものも、神に従おうとする者にも同じように包み込む神の愛を指して言われている。主イエスは神がそのような御方であり、ご自身もその神のお心をそのままに行なう御方であった。

 そして太陽が万人を照らし、雨がすべての人に同様に降るのも、神の愛を指し示すものだと言われた。

 このように、自然の現象のなかにも、よく見つめるときにはそこに神の人間への愛が込められており、神の愛を何らかのかたちで指し示すものとなっている。

 これが旧約聖書に収められた詩集(詩編)と他の国々の詩集との大きな違いである。他の詩集、中国や日本、あるいはギリシャなどの古代の詩集は、自然を歌うものや、苦しみや悲しみを歌うもの、男女の普通の愛情の歌、戦いを主題としたものなどいろいろあるが、どれにおいても、神という永遠の存在からの人間への愛などというものを見出すことはできない。

 それはそのような神がおられることを知らないのであるから、当然だと言える。

 神が人間を愛してくださる愛の神であること、それは旧約聖書のイザヤ書やホセア書に、ほかの書ではみられないような深い啓示が記されている。

 

…そしてこのように愛によって導く神は、人々を最終的に神の国に導くためには、まったくそれまでの方法とは異なる道を新たに導入して下さった。それが、イザヤ書の53章にある。

 神が特別な人をこの世に遣わし、その者に他の人間の罪を担わせ、そしてそれらをすべて担って誤解と中傷のただなかで殺されていくという、かつてない道がそれであった。そこにはいかなる方法をもってしても、人間を救い出そうとされる神の愛がある。

 そのイザヤ書53章に続いて、次のような記述がある。

 

…恐れるな…

あなたの造り主が

あなたの夫となられる。

その御名は万軍の主。

あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神

全地の神と呼ばれる方。

  (イザヤ書54の4〜5より)

 

 このように、万物創造の神が (霊的な)夫となるのだと。

 旧約聖書の厳しい裁きの神としか思っていない人達に対して、それは大きな誤解なのだ、神はあなた方、とくに人々から見捨てられたような人達に愛を持って語りかけ、それだけでなく、霊的にふかく結びついた夫となるのだと言われている。

 旧約聖書の人達も、天地創造の神様を、「わが夫」などと思った人がいただろうか。あるいは時が来れば わが夫となってくださるなど だれがいったいそんな観念を抱くことができようか。

 人間の醜く、かぎりなく小さい現実を思えば、考えられない空想夢想のようにさえ感じられることである。

 それが、真実なる神の愛の語りかけなのであって、これこそ、人間の思想や理性の判断、あるいは多くの知識等々では決してわからないことー啓示そのものである。

 このような啓示が、イザヤ53章の、万人の罪のあがないのために、十字架についてくださるメシアの預言が示されたあとで記されていることにも注目したい。

 罪あがなわれるとき、私たちはこのような驚くべき世界へ歩んでいく道を示され「求めよ、さらば与えられる」の約束にしたがって、一人一人が真実に求めることによって与えられるのだという約束なのである。

 そして、この神様が神を信じる人々の夫となる、という一般的には考えられたことのない預言は、ホセア書にもみられる。

 

…その日が来ればと

主は言われる。

あなたは私を、「わが夫」と呼び…

私は、あなたととこしえの契りを結ぶ。

私は、あなたと契りを結び

正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

私はあなたとまことの契りを結ぶ。

あなたは主を知るようになる。(ホセア書21822より)

 

 このように闇に光を与える神は、またいかに歩むべきか分からない人間を導き、その罪を赦し清めつつ、導いていかれる神である。そしてその愛に応えることなく背き続ける人間に対してさえも滅ぼしてしまうことをせず、さらに全くあらたな道を備えて下さったのであった。

 そしてこの愛が実際に歴史のなかで現れたのが、イエス・キリストであり、その十字架による罪のあがないであり、復活であった。

 そして、再臨のときに、キリストの花嫁として迎えられるのは、油を壺に入れて持っていた人達だったという。油とは聖霊を表している。 キリストの十字架のあがないを信じ、日頃から祈りのなかで聖霊を求め、求めよ、そうすれば与えられる、との主イエスの約束のとおり、聖霊が与えられていた者たちは救いに至ると言われた。

      (マタイ25の1〜13

 このようにして旧約聖書における神の愛は、はじめはイスラエル民族に示されたのであったが、そのまま新約聖書のキリストにおける神の大いなる愛、全世界をうるおす愛へと流れていくのである。

 


 

リストボタン来るべき永遠の都を求めて

ーイースター特別集会の証 

   (北海道KT・医師)


 私の最も心にしばしば浮かんでくる御言葉というのは、ヘブライ人への手紙13章の14節「わたしたちは、この地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです。」 このみことばです。

 4月2日の聖日礼拝でヨハネ伝の8章を、私たちは共に読み学びました。

 

…イエスは「真実を言う。アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』

          (ヨハネ8の58

 

 「私はある(存在する)」と言われたことの重要な意味が語られ、私は本当にイエス様が昨日も今日も永遠に変わらない方であるということを、先週は心に刻みました。

 その後、私は、この御言葉とヘブライ人への手紙13章の8節「イエスキリストは、昨日も今日もまた永遠に変わることのない方です。」この言葉を、もう一度、先週読みました。

 そしてその時、この13章から「わたしたちは、この地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです」という御言葉を読みました。

 私の弟は6歳年下なんですけれども、30代の頃からずっと病気のために入退院を繰り返し、検査、手術の若い時代を過ごしてきました。

 私は医療従事に関係しているということで、毎晩のように弟から電話がかかってきます。こんなことが苦しい、痛いのだ、つらいのだ。症状のつらさもさながら、自分はいったいいつまで生きられるのか。というふうに問いかけてきます。

 私は苦しんでいる様子を聞くと、自分の弟ですので、私も同じように苦しみました。家族は患者さんと同じくらい苦しみます。

 また、このヘブライ人への手紙の13章にあるように、「兄弟としていつも愛し合いなさい」という御言葉にあるように、主にある兄弟姉妹も、本当にその苦しんでいる兄弟のために祈り、また苦しみます。

 この特に13章の3節に「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」

 私たちは、自分自身の家族、兄弟の苦しみに対して本当に夜な夜な苦しい電話を受けた時に、神様に一生懸命お祈りします。一緒に苦しませていただいている。そういう思いです。

 それは自分の肉親の兄弟だけでなく、主にある兄弟姉妹、隣人。そのことを思う、一緒に苦しみを思いやるということがここで語られていると思いました。

 弟は今、小康を得ているんですけれども、これからまたいろんな薬を飲んでようやく安定しているので、またいつそのような苦しみがまた来るか知れません。  私たちは自分自身の肉体を持って生きている時には、必ずいろいろな苦しみがあって、お腹も空きますし、いろいろなイライラしたり、心の不安もあります。

 しかし、私たちは主イエスキリストによって平安を与えられている。そのことは非常に大きなことです。

 弟も私が信仰を勧めてはいるのですが、なかなか教会につながってくれません。  しかし、私の信仰を尊重してくれていることは、会話の中でよくわかります。

 私たちが一番大切なのは、その自分の信仰を無理強いして兄弟に伝えるとか、そういうことではなくて、今どんなことで苦しんでいるのか、どんなことで悩んでいるのかを共に苦しみながら祈りつつ、イエス・キリストにある救い、今日のイースターの喜びのような、そのような本当の平和があるということを伝えていくことだと思います。

 


 

リストボタン「神の霊が自分たちの内に」

       K.K(徳島)

 

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」

     (Tコリント3の16

 教会に通っていたわたしは、ある日、徳島聖書キリスト集会の夕拝に参加しました。そのときエゼキエル書の神殿建築の箇所を学んでいて、わたしには難しい箇所でした。

 そのとき、メッセージで「神殿のことは新約聖書ではどのように記されているか」といわれ、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」という箇所を話されました。

 このみ言葉が、わたしの心に刺さりました。キリストを信じ教会に通いながら、道を見失ったわたしに神様から「キリストが住んでいる神殿をお前はなんということをしているのか」と示されました。

 しかし、それは、裁きではなく、わたしのつらさもすべてわかっている、そして赦している、という語りかけでした。心をしばる鎖が外されていくように感じました。

聖書を読みます。

…神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいる。

 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているならキリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる。(ローマ8の9、11

 


 イエス様はわたしを見捨てることなく、心配し、そして導き立ちかえらせてくださったのです。

 心の神殿に宿ってくださっている霊によって死ぬはずの体を生かしてくださいました。

…この方は、真理の霊である。

 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。  しかし、 あなたがたはこの霊を知っている。

 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。         (ヨハネ1417

 真理の霊、神、キリスト、それはひとつの同じ霊です。このキリストの霊が私たちの内にいてくださっています。

 パウロがエフェソ信徒のために祈りました。

… 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。            (エフェソ3の17

 わたしたちは、神の神殿であり、キリストに住んでいただいていますから、罪と弱さの中にあっても、キリストによって、愛に根ざし愛に立つものとされますようにと願います。



リストボタン鍛練の実

 ー心に残っている御言葉 

         T.Y.(徳島)

 

 …およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる。(ヘブル書1211

 

 今回、取り上げる方は石鹸や歯磨き粉では非常に有名なメーカーである、「ライオン」の創業者である小林富次郎(1852 1910年)です。

 この方は36歳の時に、演説会を通じてキリスト教と出会う事となります。この後、実業家への道を歩むこととなり、全財産をはたいて、フランスのマッチ製造用の機械を輸入したのであります。ところがこの後、洪水が襲ってきて、すべての原料から機械すべてを失うこととなります。

 一時は北上川へ身を投げ出そうとして自殺を思ったのでありますが、神戸のある教会の牧師からの一枚の葉書に先ほどの御言葉が書かれていたのを思い起こし、ついに思い留まることとなります。

 この後、東京に工場を構え、牧師から歯磨き粉の製造方法を聞き、得たヒントで、新たにこの「ライオン歯磨」を発売したというエピソードが書かれています。

 私は、この会社の創業者がクリスチャンであるということを、これまでは知らずに、最近までこの会社の商品を使っていたということに気づかされました。


 

 

リストボタン〇「祈りの友」の方々へ

 先日お送りした「祈りの課題集」に掲載できなかったのでここに追加しておきます。

「祈りの友」西川徳雄さんは、今年2月に召されました。 西川さんは、ご父君は、西川 賤(しずか)で、「祈の友」を、30年という長期にわたってその主幹として支えられた方でした。

 その養子として、西川徳雄さんは育てられ、のちに牧師となり、その後、晩年はふるさとの山梨市にての生活でした。私は、2014年夏とその後の二回お訪ねして祈りをあわせたことが思いだされます。

 最初の訪問のときは奥様もお元気で、帰り際に、手作りの野菜の漬け物などくださり、帰宅後にいただきましたがその味わいがいまも思いだされます。

 この「祈りの課題集」に書かれたことは、人生の最後の祈りの課題であったのがわかります。

 西川さんは、私が新しく代表となった新たな「祈りの友」にもすぐに参加され、最晩年までお便りや献金、電話などを折々にくださり、「祈りの友」のことを心にいつも留めて祈りをされているのを感じていました。

 父子二代にわたって、「祈りの友」として、会員の方々の祈りのために真実な祈りを捧げてこられたこと、主の特別な導きと祝福のゆえであったと深く感じています。

 

西川徳雄(山梨市)

@昨年の夏に、介護施設に入所しました。施設での生活が守られますように御加祷ください。

A大国が覇権争いをし軍事衝突を起こさないよう外交努力を続けることを祈りたい。

 世の人々が神を畏れ、悔い改めに導かれることを心をこめて祈りたい。

 新型コロナウィルスの感染拡大の終息を祈りたい。

B一月七日で、満九十三歳になりました。歩く事が難しくなり、寝たきりの時が増え、食欲もなくなってきました。

……………

・特にAの「世の人々が神を畏れ、悔い改めに導かれること」を私たちも祈り続けたいとねがいます。(吉村)

 


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