いのちの水 2023年9月号 751 

あなたにも わたしにも すべての人に

与えあい 分かちあおう すべての人と

(「つかわしてくださいー世界の讃美(1)の27より)

目次

・聞いてくださる神

・彼こそ平和だ

・イエスが大声で叫ぶとき

・死の力に勝利するイエス

・武力による解決を目指すことの誤り

・休憩室 金彩、木星、土星

 ・お知らせ

「祈りの友」合同集会

「主の平和」CDの紹介

北田康広の歌、ピアノ他  リコーダー

・集会案内

 

リストボタン聞いてくださる神

 

 ヨハネ福音書に、ラザロとその姉妹マルタとマリアの詳しい記述がある。(11章)

 

 ラザロは、重い病の末に死んだ。そして4日も経っていた。

 そのような状況であれば、科学的に考えると復活などあり得ないと誰しも考えるであろう。

 しかし、その科学のもとになっている自然法則や、原子、分子なども、さらに、それらを用いていろいろと考えていく能力もそれら全てを創造されたのは全能の神である。

 神が全能であることを信じ、そしてその神が愛であるなら、ものの見方が大きく変わってくる。

 神を信じるなら、神の栄光(*)が見られると主イエスは言われた。

             (ヨハネ1140

 *)神の栄光とは、神の本質である愛や真実の力、永遠性などを言う言葉。

 

 悪人であっても神の目的があって造られたと信じて、その人がよくなるように祈る。まず、信じるということが必要である。

 イエスは石が取り除けられたラザロの墓に向かい言われた。

「父よ、私に耳を傾けてくださったことを感謝します。」

(岩波書店刊 新約聖書 ヨハネ1141後半)

  新共同訳では「私の願いを聞き入れて下さって感謝します。」となっているが、原文では、次のように「私の願い」 という言葉はなく、「私のことを聞いてくださって感謝します」 となっている。(*

それゆえ、主要な英訳もそのように訳されている。

 

*)原文 ε?χαριστ?  σοι  ?τι

?κουσ??  μου. ユウカリストー感謝する、  ソイ あなたに、ホティ ということを  エークーサス 聞いた  ムー 私に

         (ヨハネ1141

Father,I thank thee that thou hast heard me                     (KJV)

Father, I thank you for having heard me. (NRS)

Father, I thank you that you have heard me.                     (NIV)

------------

「願い」という訳になると、特定の願いを、聞き入れて下さるということである。このヨハネ福音書の個所では、直接的には、ラザロを復活させるという願いを聞いてくださいという意味だとして、原文にない、「願い」を入れて訳している。

 しかし、そのような具体的な願いをもふくめ、心の苦しみ、悲しみ…あらゆる叫びを聞いてくださっているのが神である。

 それは、神が愛であるからである。

 神は、常に私たちの思い、叫びを聞いてくださっている。人間は利害関係や好みによって、聞く耳をもたないことがいくらでもある。

 しかし、イエスは聞いてくださっている。聞いてくださらないと思うのは、私たちが、神とキリストの愛と全能を信じていないからである。

 神の愛を信じるならば、私たちの日々のさまざまの重荷からくる叫びもまた聞いてくださっていることも信じることができる。

 今も、じっと聞いて下さっているのである。

 このことを、信じるかどうかで、毎日の生活が変わってくる。

 それは、多くの詩編に示されている。詩編とは、神への深い祈りであり、叫びであり、また神の何にも代えがたい恵みについての感謝であり、万物が神を讃美しているという霊的な体験をしるした書でもあるゆえに。

 神が愛であるゆえに、苦しみのなかからの切実な祈り、叫びは必ず聞いてくださっている

 詩編によって私たちは、はるか二五〇〇年から三千年ほども昔からの人々の心の深い世界を実感することができるし、それが私たちの大きな励ましとなってくる。

 神が私たちに聞いてくださらないのであれば、それは愛なる神とはいえない。

「神は愛なり」ということばは、また「神は聞いてくださる神、私たちに耳を傾けてくださる神」をも意味している。

 

・私の王、私の神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。

 あなたに向かって祈ります。           (詩編 53

 

・主よ、朝ごとに、私の声を聞いてください。

 朝ごとに、私は御前に訴え出てあなたを仰ぎ望みます。            (詩編5の4)

 

・あなたを呼び求めます、神よ、私に答えてください。

私に耳を向け、この訴えを聞いて下さい。(詩編17の6)

 

・主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。

 御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。  (詩編2225

 

 聞いてくださるか、聞いてくださらないか。それは、まず、信じることである。そこから、神が与えて下さるのである。生きた神だからである。叫びを聞いてくださる。  

 そのような方がじっさいにいてくださる、それは、万人に告げられているよき知らせ(福音)である。

 

 イエスは、神が聞いてくださっていることをまず感謝して、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

この大声で叫ぶ、という原語は特別に強調されたことばである。

 このイエスの大声については、別項に記した。

 そして神は、つねに聞いてくださる存在であるとともに、常に見守っていてくださる御方でもある。

…見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。

 主はあなたを見守る方、あなたを覆う影、あなたの右にいます方。

 主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守りあなたの魂を見守ってくださる。

 あなたの行くも帰るのも主が見守ってくださる。今も、そしてとこしえに。

          (詩編121より)

 私はかつて、大きな苦しみと悲しみに打ちのめされたようになったことがある。そのとき、室内での祈りでは何かと中断されるので、わが家のある山の谷川沿いから登り、その谷間にある杉の大木のところで、毎日のようにそこにきて、その大木に寄り掛かり、また手を幹にあてて祈り続けたことを、思いだす。

 そのとき、確かに主はその祈り、心の叫びを聞いてくださった。それが10年以上を経た現在でも思いだされる。

 私たちの周囲の自然もまた、神の愛の御手による被造物であるゆえに、すでに述べた主イエスの霊的な大声が虫の音、小鳥の歌声、あるいは風にそよぐ樹木の響き、海の波の姿…等々に託されて私たちに語りかけてくるし、私たちがそれらに語りかけるときには、応えてくれる。

(2023年9月3日(日)

 主日礼拝講話 参加者 会場8名 スカイプ(一部の電話での接続含む)47名 合計55名)

 


リストボタン彼こそ、平和だ

 

 この世において、いったい何者が、「彼こそ、平和だ!」(旧約聖書 ミカ書5の4)と言えるだろうか。

 ここで言う平和とは、単に「戦争がない」ということではない。平和とは、聖書の原語のヘブル語では Shalom(シャーローム)(*)というが、この動詞形は、「完成された」という意味を持つゆえに、神の完全な愛や真実で満たされたという内容がある

 

*)世界的に知られてきた  ヘブル語辞典(Brown Driver Briggs HEBREW AND ENGLISH LEXIKON」)では シャーロームについて次のように記述されている。 completeness(完全な状態、完成した、成就された状態)、 soundness(健全、完全)、 welfare(幸福、福利、繁栄、福祉)、 peace(平和)

 はるか、今から2700年ほども昔、旧約聖書のミカ書という書において、すでにキリストの誕生が次のように神から啓示されていた。

 

… ベツレヘムよ、お前はユダの中で小さき者、

お前の中から私のために、イエスを治める者が出る。

彼の出生は、古く、永遠の昔にさかのぼる。

 彼は、群れを養う。

主の力、神である主の御名の威厳をもって。…

今や、彼は大いなる者となり、

その力が地の果てまで及ぶ。

彼こそ、まさしく平和である。(ミカ書5の1〜4より)

 

 実際に、その預言から700年ほども後になって、ユダヤの国のベツレヘムでイエスが誕生した。そして、その存在は、二千年前に初めて存在したのでなく、永遠の昔から存在していたという、普通の人間とはまったく異なる存在であるということが預言されていた。

 そして、神の力をもって、その力は、地の果てー全世界にまで及ぶということが現実の歴史のなかで、生じていった。

 そして、そのような存在が、「彼こそ平和だ」と言われている。

 この地上世界には、数千年前から、現代まで続いている武力によるさまざまの戦いがある。

 しかし、そうしたあらゆる混乱のただなかにて、キリストこそ平和そのものだという天からの声が一人の預言者に与えられ、それが現在までその真理は途絶えることなく続いている。

 キリストは、単に世の人と異なる働きをした偉大な人間、というのとは根本的に異なる存在だということが、この預言で示されている。

 永遠の昔から存在する、それは神のみであり、そのことは、キリスト教信仰にとって基礎となる重要なことであるからこそ、その生まれる前の永遠の存在者としてのキリストをロゴス(言葉)(*)というギリシャ語によって示し、ヨハネ福音書の冒頭に記されている。

 

…初めに言があった。言は神であった。万物は言によって成った。

…言は肉体をもって(人となって)私たちの間に宿った。

私たちはその栄光を見た。

それは、父(なる神)の独り子としての栄光であって

恵みと真実に満ちていた。…

私たちはこの方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に恵みを受けた。

(ヨハネ福音書1の1〜16より)

 

*)ロゴス(logos)というギリシャ語は、普通の「言葉」をも意味するが、他方、古代ギリシャの哲人によって、世界の根源にある目に見えないもの という意味でも用いられてきた重要な言葉であり、それと 旧約聖書にあるように、神の言葉によって宇宙、地上の万物が創造されたという言葉の重要な意味を合わせて持つ存在だという意味で、ヨハネ福音書では、万物の根源であり、創造者でもある神と同じ存在だとして記されている。

 

 シャーロームというヘブル語が、すでに述べたように、満たされる、全うされる という意味をもっていて、それは、神の満ちあふれる豊かさー真実と愛(愛)の豊かさによって満たされた状態こそ、聖書でいう平安、平和の内容なのである。

 その豊かさ、真実、愛に満ちみちた存在だからこそ、愛する兄弟の死に悲しむ姉妹たちを思って涙を流し、また、生まれつき全盲の人が路傍で物乞いをしていた際にも、深い愛をもって近づき癒し、墓場で大声をあげてわめく精神の病の人をも癒し、中風のために寝たきりとなっている人を友人たちがイエスの前に運び込めば、そのような弱い者のためにも罪の赦しと体の回復をも与えた。

 また、イエスが3年間も愛をもって導いたにもかかわらず、イエスが捕らえられたときには、主を見捨てて逃げ去り、見つかって、お前もイエスの仲間だったと言われると、必死になってそうでないと三度も否定した者にも、愛のまなざしを送り続け、回心に導き、人間として新たな命を与えられたのだった。

 さらに、ハンセン病のように病気の進行とともに、手足のマヒ、切断、顔などの変形、失明…等々恐るべき状況となって死んで行く人たちにも近づき、手を触れて癒されたのだった。

 そのようなキリストであったからこそ、その死後も復活し、いまは目に見えない存在ー聖霊として世界でそのはたらきを続けておられる。 私自身も21歳の5月末に、その生きて働いておられるキリストによって決定的な魂の再生を与えられたのだった。

 このようなキリストの本質は今も世界中でその影響を及ぼし続けている。あるいは働きざかりの人、学者にも、また死に瀕した病人、寝たきりで動けない重度の障がい者、また恐ろしい孤独と圧迫の中に独房などで生きる政治犯にも、また、音楽や美術など、また文学などの芸術においても、医者、看護師、またその他あらゆる職業や病気の人たち、またかつて重大な犯罪を犯して長く刑務所で収容されていた人…どのような年齢や健康状態、また貧富の差や国、民族の違いなく、キリストの愛と真実を受けつつ再生されて生きている人は無数に存在する。

 そうした社会から見捨てられたような人であっても、元気一杯の人であっても、キリストの力は働いている。

そのような存在こそ、「平和」の人である。そのような平和は神に根ざし、神から生まれているゆえに、その力は不滅である。

 そしてそれを受けた人は、まず、他者への憎しみという魂の毒というべきものが除かれ、その平和は何らかの形で伝わっていく。

 

 それに対して、軍事力による抑止による平和などというものには、到底こうした魂の豊かさや弱きものへの愛が存在しない。昔は刀剣、いまは破壊力のある爆弾ーそれは核兵器という恐るべきものも含み、戦闘機、戦車、さらには射程が6千`をも超える大陸間弾道弾、ドローンなどによって限りなく進展している。

 そうしたものは、重要な人間の住居、施設を破壊し、そこに住む人々を殺害、また重傷とさせ、発電施設などの破壊は生活を危険として、多くの人々はそれによってもとくに弱い人たちは病状の悪化となって死に至る。

 このような、無差別的に大量に人間を殺害し、苦しめ、逃れた人も多数が障がい者や病人となるようなことは、いかにして、キリストの平和と合致することができようか。

 軍事力、多種多様な兵器を競い整備することが戦争を抑止するなどということが間違っているのは、現実を見てもわかる。

 飢えている人々が8億人も存在するなかで、巨額の費用を投入しての兵器拡大競争はますます世界を危険な状況へと進ませているだけである。

 2700年も昔から預言され、実際にキリストによって実現されてきた キリストの平和(「主の平和」)こそが平和の根源だということに立ち帰らねば、ますます人類の未来は危うい。

 神、そして活けるキリストは、前途にたちこめる暗雲の中からつねに語りかけ、その光を投げかけている。

 いかに現在は、そうした力ある神を信じる人たちが少ないように見えても、時至れば、その神の力ある姿は現される。

 

…今、人々には光は見えない。

しかし、光は雲のかなたで輝いている。

風が吹き渡り、雲を拭いさって清めるとき

北から金色の輝きが現れ

おそるべき威厳に包まれて神が来られる。

       (ヨブ記372122

 この記述は、いかに暗い時代であって、光は見えないようであっても、その時がくれば、いっさいのこの世を覆う暗雲がぬぐい去られ、清められて、神が現れるということであり、その神は、いかなる悪の力も滅ぼしていく力に包まれ、かつ、黄金の輝きのようにどんな闇にも輝いている永遠の光が存在するのを預言したものとなっている。

 このことは、聖書巻頭にある、闇と空しさがたちこめている中にあって、神が光あれ!との一声で、たちまち光が存在した(創世記1の3)と呼応するものである。




リストボタンイエスが大声で叫ぶとき

 

 新約聖書のなかに、よく知られているマリアとマルタの姉妹、その兄弟のラザロの記述がある。そのラザロは、病気で亡くなり、死んで四日経って、イエスがその家に来られた。

 もう死臭が生じているという状態のラザローそれはもう絶望であるということである。しかし、そのラザロに対してイエスは、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

 もはや生き返るなど考えられない死人に対して、大声で叫んで命じた。このようなことは、だれもがおよそ、無意味なことと思うであろう。

 なぜ、そんな死臭の生じているような死人に、「大声で、しかも叫んで…」 とあるほどに強調して言われているのか。

 初めて読む場合にはこんなことは、あるはずのないことだ、と読みとばしていく可能性が高い。

 しかし、聖書においては、人間そのものがそもそも霊的には死んだ状態だという驚くべき見方をしている。

 

…、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。…

罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし…(エフェソ書2の1、5)

 

 罪とは、聖書に記されている永遠の真理を知らず、この世の悪の霊の働き、自分中心の考えや欲望によって生きていたことを指している。生きる目的も自分中心の利益、安楽であり、何かよいことをするときでも、そうしておけば自分のためになる、というような万事が自分のためにという考えが根底にある。愛するといっても自分の好む人に対してだけであり、正義といってもつねに周囲を見渡して自分に不利益が生じないことをみながら、表面的に正しいことをする…。

 これはキリストの精神、聖書の真理を知らなければ、だれでも同様である。そのような状態を 完全な清い愛や真実からみれば、死んでいた というのであり、このような厳しい見方は、聖書以外には接したことはない。

 それゆえに、この死して四日も経つような人に向って、大声で、言うなど、何の意味もないのでなく、私たちそのものが、霊的には死んで絶望的状態だということを深く知るとき、このイエスのことばは、人間全体に向って、歴史を超え、時代を超えて叫んだのだとわかる。

 それは、「死んだ世界から出てきなさい、そして神の永遠の命、真実で愛に満ちた命に生きなさい!」という深い愛に満ちた叫びなのである。

 このような絶望的状況にある人間、言い換えると真理の水を飲むことを知らないゆえに、渇き、死に瀕している人たちの魂に向っての深い語りかけはすでに旧約聖書にみられる。

 

…渇きを覚えている者は皆、水のところに来たれ!

来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。          (イザヤ書55の1)

 これは、すべての人が魂の渇きをもっていて、この世のものではいかにしても満たされない。そこからさまざまの苦しみや悩みも生じ、この世の悪事はもともとはそのような魂の渇きに原因がある。

 それゆえに、神は世のすべての人たちに向ってこのように強く語りかけておられる。

 銀や代価を払わずに穀物、ぶどう酒、ミルクを得るーこれは、神の豊かな恵み、心の再生、力、真実…等々は、みな何もカネは必要ない、ただで与えられるのだと強調している。

 この世のすべてのもの、とくにその品質、性能が高いものほどその価格は高い。

 しかし、そうしたいかなるこの世のものより比較にならない永遠的に価値の高いものは、実はただで与えられるというのである。

 ここに、不正や差別に満ちたこの世の深い平等性がある。いかに差別されようとも貧しくとも、また苦しいときであっても、ただこの神からの呼びかけに応じて、主のもと、現在では霊的存在となっているキリストのもとに行って求めるときには、必ずそうした弱さや苦しみに絶える力、平安、喜びが与えられるという約束である。

 キリストは、復活したときに二人の弟子たちに現れ、10キロ余りの道のりをずっと、旧約聖書に記されているご自身のことを詳しく解きあかされたと記されている。

  このイザヤ書の個所もまた、キリストを指し示す内容である。

 イザヤが、穀物とかぶどう酒、ミルクなどでたとえている神からの良きものとは、その完全なものは、聖なる霊のことである。

 キリストは、「求めよ、そうすれば与えられる。…天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」

      (ルカ11の9〜11より)

 主は、「あなた方は(つねに神のご意志に背いているような)悪しき者であるがそれでも、魚を求める子供に蛇を与えたりしない。まして完全な愛と真実である神は、必ずあなた方に最善のものー聖霊を与えてくださるのだ」とわかりやすいたとえで語りかけている。

 

 ヨハネ福音書において このような大声で言う、というときは、ほかにも記されている。

 

…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。

 私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

            (ヨハネ7の37

 このときも、祭の最高潮のとき、人々がたくさん集っているそのただ中で、王とか大いなる権力者でもなく、ごく普通の身なりをした若い青年が、突然大声で叫ぶなどすれば、異様な感じとして受けとってだれもまともに相手にせずーということになっただろう。

 しかし、この大声で、叫ぶとは、単にそのあたりの人たちに大きな声で言ったというだけでない。

 それは、霊的な大声なのである。霊的とは、時間と空間を超えている状態を意味していて、このキリストの大声は、昔イエスという特別な人について生じたことだけでなく、現代の私たちに対しても、ずっとその霊的大声で言われ続けている。

 それゆえに、その声を聞いた者は、生涯が変えられて主イエスに従って生きるようになる。それは現在に至るも無数の人々によってなされてきた。

 私自身も、二千年にわたって響き続けてきたそのイエスの霊的な大声を、ある一冊の本の立ち読みというごく些細なことによって聞き取るという恵みを受けたのだった。

 ほかのいかなる大声が、二千年の歳月をも超えて響いていくであろうか。

 キリストの真理の響きのみである。

 すでにこうした物理的な波動、音声と異なる響きが存在することは、すでにイエスよりはるか千年も昔のダビデが作ったと伝えられている旧約聖書の詩に見られる。

 

…話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、

その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩編19の3〜4)

 

 これは、物理的な波動でないゆえに、いかなる計測器にても測ることはできない。

 唯一 その霊的な波動ともいうべきものを受け取り、実感して認識できるのは、人間の霊的部分、心とか魂ともいわれるものによってである。

 静かなる細き声 と言われているものもこれである。

 神の声は、静かな細き声でもあり、また大いなる声でもある。二千年も衰えないということからは地上の普通のいかなる音声にもあまして力ある大声といえるし、またその声はたいてい心を静め祈りの雰囲気とならなかったら聞き取ることができないという意味で 静かなる細き声ともいえる。

 神の重要なものは、みなこのようなさまざまの本性を同時に併せ持っているといえよう。人間はどんな人でもごく一部の能力しか与えられていない。

 天才といえども、例えばモーツァルトにしても、科学や政治や社会、またキリスト教の真理に関する深い読み方などは知らなかったと思われるし、政治で有名なリンカンとか、ガンジーにしても それぞれ、彼らが設定したのではない歴史状況において、神から与えられた信仰に由来する決断と実行力を発揮したのであって、彼らが自然科学や芸術の世界、また語学の世界において卓越した能力を持っていたということでもない。

 自然界にしても、獣のうちで百獣の王といわれるライオンにしても、ひとたび足を怪我したら生きていけなくなる。獲物を追跡して高速で走れなくなったら、獲物はとれず、たちまち衰弱して死んでいくという弱さをもった存在でしかない。

 しかし、永遠の昔から存在し、神とともにあり、神と同じ本質を持っていたキリストは、二千年前に地上に現れ、33年間人間の苦しみや悲しみをも直接に接しつつ生き、当時は最も悲惨な運命となっていたハンセン病や全盲、ろう、重度の精神障害等々の人たちに愛を注ぎ、いやし、力づける歩みをされた。しかし、当時の権力者や宗教指導者たちの憎しみを受けて十字架で処刑された。

 しかし、その後は復活して神と同じ存在である聖霊となっていまも働いておられるキリストだけは、あらゆることが可能という驚くべき存在であり、かつ私たちのあらゆる時代や状況に応じて最善の道を示してくださる存在となっている。

 神は愛であり、万人を見守り、救いへと導こうとされている。人間であっても、その愛する幼な子をたえず見守り、慈しんで育てようとする。神が完全な愛ならば、その見守りも完全であるゆえに、つねに私たちに霊的に力ある声をもって語りかけておられる。

 他方、この世は、そうした神からの語りかけを聞こえなくするほどに、多種多様な雑多な声が、ラジオ、テレビ、ネットにあふれている。

 それでもなお、私たちがつねに主に立ち帰り、主を仰ぎ歩むときには、そのような闇の世界からの声のただ中にあっても、主のみ声を聞き取ることができる。

 神であるからこそ、そうしたことができるように、されている。それゆえに、主は言われたのであった。

「神の国はあなた方のただ中にある」(ルカ 1721)と。

 


リストボタン死の力に勝利するイエス

 

  マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」       (ヨハネ112122

 マルタは、イエスは死に打ち勝つ力を与えられていると信じていた。

 イエスを救い主として信じるなどできない、という人々が日本では圧倒的に多い。

 他方では、「信じる」ということは、誰にでも日常に行われていることである。例えば、まだ今日、明日などには、巨大地震はない、とはほとんどの人が信じていることであろうし、今日自分には交通事故も起こらない、倒れたりもしない…日々の食物も毒は入っていない…等々。

 もし本当に今日明日のうちに大地震が生じると信じるなら、会社出勤もしない。車や飛行機での通勤や旅行もしない。日常のたいていの活動が停止し、さらに高層階のマンション住まいの人も逃げていくであろう。

 また、乱暴狼藉をはたらいたスサノヲノミコトをも神として信じたり、特別な大木や山、また狐や狸、蛇などの一部さえ、神として信じ、あるいは、太平洋戦争で多くの中国人をはじめ東南アジアの多数の人々を殺傷した人などもみな靖国神社では、英霊(すぐれた神)として信じて拝んでいる。

 このような状況がみられるが、聖書では天地万物を創造した神とキリストを信じるということの重要性が随所で記されている。

 創世記から、信仰の重要性が記され、それは「アブラハムは神を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と記され、そのことは、新約聖書の中心的な文書である、ローマの信徒への手紙にて、その4章全体を用いて、使徒パウロが、ただ信仰によって救われるという福音の真理を語るときに引用して彼の受けた啓示を詳しく語っている。

 ヨハネ福音書の最後の個所には以下のように記されている。

「私がこれらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子であると信じるためであり、信じて命を得るためである。(ヨハネ2031

 イエスを神の子ーすなわち神と同じ本質を与えられている存在であることを信じることこそ、最重要なこととして最後に記されている。

 そのゆえにこそ、万人の罪をあがない、また死からの復活も与えることができるからである。

 私たちの人生において、しばしばいくつかの道の岐路に立たされることがある。しかも、その決断によって生涯の方向が変わってしまうというようなこともある。そのとき、何をもって複数ある道から一つを選ぶのか、それは神とキリストを信じるときには、つねに主イエスの「まず神の国と神の義を求めよ」という言葉、そして、「主の祈り」にも、「御国がきますように」との祈りからも、神中心に決断をすることが求められているし、それこそが、最善の道なのである。

 こうした岐路に経つとき、明白に神が語りかけて、この道を取れ、と実感することもあるが、他方では、いくら考えてもいずれがよいのか、そのことの重要性ゆえにわからないこともしばしばである。

 そうしたとき、思い切っていずれか一つを神が求められていると信じて選ぶという決断が必要となる。毎日曜日の主日礼拝についても、参加するか、それともこの世の仕事や娯楽、集まりなどを優先するか、どちらにするかは、私たち自身の決断にかかっている。そのとき、まず神の国を求めるか、まずこの世のことを求めるのかが常に問われてくる。

 信仰は、その出発点において、一方的な恵みである。まわりのほとんどの人たちが唯一の神様の愛とかキリストのことを救い主と信じない中から、信じるように導かれたのは、神が選んでくださったからだと実感する。

 それは私自身、過去を思い起こすたびに、そのことを感じる。大学四年の5月末に、古書店での一冊の何気なくとった本の1頁によってキリストの十字架によるあがないを信じることに導かれて、今日に至っているからである。

 しかし、ひとたび信仰を与えられて以降は、毎日の生活がまず「神の国」(神の愛と真実による支配、導き)を求め、神からの語りかけ、あるいは聖書に記されている道を取るのか、それとも人間的な考えや感情、自分の欲望などを求め、あるいは周囲の人々の評価を優先していくのか、常に問われてくる。その際に、いずれを取るのか、それは信仰による決断である。

 その意味で、信仰に生きるとは決断である。このことを信じるか、神の導きがあると、信じるか、と問われているのである。

 次の復活に関する重要なイエスの問いかけもまた、信じるかどうかの決断を問うている。マルタという女性はすでに、終わりのときに復活することは信じていた。その上にさらに、今、キリストを信じるだけで、永遠の命(神の命)を与えられるということを信じるのかどうか、その決断を迫られた。

…「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」

        (ヨハネ112627

 ここにマルタの信仰的決断があった。

続いてきょうの箇所のマリアである。

「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」とある。(ヨハネ 1129)マリアは、イエスが来たと聞いて、すぐに立ち上がって、イエスの所に行った。このすぐに立ってイエスのもとに行く姿勢が示されている。

 また、その姿勢は、使徒ペテロについても記されている。弟子たちは、イエスが復活したのち、ガリラヤ湖で漁師の生活をはじめていた。夜明けまで漁をしたが何もとれなかった。そのとき復活した主が湖岸に現れて、再度網を打ってみよ、そうすれば魚がとれると言った。弟子たちはそれがイエスとはわからなかった。

 しかし、まもなく、そばにいた別の弟子が、「主だ」と言うのを聞いて、ペテロは直ちに海に飛び込んでイエスのもとに行った。

ここに主がいる、主のご意志はここだ、と示されたとき、ただちにそちらに向って飛び込むという決断の姿勢で、福音は世界に伝わっていったのである。

 イエスはマルタに個別に話したように、マリアにも、個人的に話した。

マリアは「もし、ここにイエスがいたら死ななかったのに」とマルタと同じことを言った。

マリアもイエスがいたら死ななかった、とイエスに与えられている神の力を信じていた。

イエスの力を信じる、ということが特に重要である。

 

…イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。

(ヨハネ 113335

この「心に憤りを覚えて」「興奮した」という訳語のままでは、不可解だと感じられる人が多いであろう。、何を憤って、涙を流してマリアやマルタ、また周囲の人々とともに悲しんだのだろうか、また、イエスが興奮したとあるが、一般的には、興奮という言葉は深い意味を持たない。気に食わないことを言われて興奮したとか何かを得意になって興奮して話しだす…等々。

 愛するラザロが死んだので、深く悲しんでいるマリアとマルタ、そして人々の姿に接してのイエスの反応は、エンブリマオマイ(?μβριμ?ομαι)という語で、これは、「憤る」(ダニエル書1130のギリシャ語訳)、「厳しく戒める」(マルコ1の43)などと訳される。

そのため、ここでも、憤ると訳されているが、これはイエスを信じている二人の姉妹マリアとマルタや周囲の人々の深い悲しみに接して、人をこのように悲しませる死の力そのものに対して深い憤りを感じたのであった。死の力こそ、闇の力であって、それは万人を滅ぼし、愛するものや人間のよき関係を断ち切っていく。

 イエスが神によって直接に地上に遣わされたのは、そうした死の力、闇の力、罪を犯させる力から救いだし、復活させて永遠の命に至らせるためであった。

 その使命ゆえに、とくに死の力に対して憤ったのである。そしてその力に勝利する存在であることを、はっきりと示すために、ラザロを復活させたのだった。

 英訳の一つはそのことを次のように訳している。

a deep anger welled up within him, and he was deeply troubled.(深い怒りが彼(イエス)の内にわき上がってきた。そして彼は深く心を動かされた)                     NLT

 死の力に対して憤るほどに心を深く動かされたということでもあるので、英語訳では以下のようにも訳されている。

He was deeply moved in spirit and troubled. (心を深く動かされ、苦しむほどだった)(NIV)

He was greatly disturbed in spirit and deeply moved. (ひどく心をゆり動かされ、深く感動した)(NRS)

 

 イエスは、マリアやマルタの悲しみを、深く受け止めた。それは単に目の前にいる二人の姉妹たちの悲しみだけの問題でなく、人類最大の問題たる、死の力がすべてを滅ぼしていくというそのことに深く心を動かされたのだった。

 愛する者の死に、心を打ちのめされる。死の力が最も激しい苦しみである。その死の悲しみに、たった一人のために、これほど、心を動かされるイエス。

これに反して、敵国とされた何万、何十万という人たちが殺されても、悲しむどころかそれを国全体で喜ぶほどに異常とさせる戦争である。

 戦争は、人の心を悪の支配にさせる。戦争は人を多量に殺すことである。そのことを深く思うとき、そのような大量殺人をする戦争そのものに反対する者となる。

 イエスは、たった一人の人の悲しみに対して深く共感し、さらに万人の根本問題である死の力を、神の力によって滅ぼし、ただイエスを信じるだけでその人を復活させて神の命―永遠の命を与えてくださる方なのである。

 このイエスの霊、聖霊の風があれば、この世の悪の風がいかに吹き荒れるようになっても、その主の力によって勝利していくことができる。

 


リストボタン武力による解決を目指すことの誤り

 

 次に引用する記事にあるように、去年2月にロシアの侵攻によって始まったウクライナでの戦争は、突然ロシアがウクライナを攻撃してきたように思われていることが多いが、その二年ほど前には、両国の大統領とドイツのメルケル首相とフランスの大統領の四者会談が行なわれていて、そこに全面的な戦争に至ることのないような道も残されていた。(以下はCNNによる)

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 ウクライナ東部で続く紛争の解決に向け、同国のゼレンスキー大統領とロシアの プーチン大統領が 2019年12月9日、パリで会談した。マクロン仏大統領とメルケル独首相も仲介役として参加した。

 首脳らは5時間半に及んだ会談の後、年内に「全面的かつ包括的」な停戦を履行するとの共同声明を発表した。

 2014年にロシアがウクライナ南部クリミア半島を併合した後、ウクライナ東部では親ロシア派の分離主義勢力がドンバス地方を実効支配し、政府軍と衝突を繰り返してきた。過去5年間の死者は約1万3000人に上る。

 ウクライナ側はロシアが兵器や顧問チーム、さらには通常部隊も送り込んで親ロシア派を支援していると主張するが、ロシア側は紛争当事者ではないとの立場を貫いてきた。

 2019年5月に就任したゼレンスキー氏がプーチン氏と会談したのは初めて。両首脳は会談に先立ち、互いの拘束者を釈放する捕虜交換で合意に達していた。

 この4者会談が行なわれた12月9日はドンバス地方での選挙実施を目指すことでも合意したが、選挙の具体的な時期に関しては溝が埋まらなかった。

 ゼレンスキーは会談後の記者会見で、選挙前にドンバスの返還を求める立場を改めて強調。プーチンはまず選挙を実施するべきだとの主張を繰り返した。

 会談ではさまざまな場面で、百戦錬磨のプーチン氏と新人ゼレンスキー氏の対比が際立った。だが少なくとも、両首脳の間で対話が成立することが分かったのは成果のひとつといえる。

2019.12.10 CNN(*)の日本語サイトより)

*)CNNは、アメリカ合衆国のケーブルテレビおよび衛星放送向けのニュースチャンネル。1980年に世界初の24時間放送するニュース専門のチャンネルとして設立された。

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 この4か国による会談は、NHKでも以前に、その様子が放映され、ゼレンスキーもスーツを着用して参加者の表情には笑顔も見られたり、現在の険悪な状況とは大きな相違があった。

 メルケルは後に、何としても この会談の際に、ウクライナ東部のドンバス地方で続いていたロシアとウクライナとの戦闘状況を停止させるべきであったと、深い悲しみを吐露していた姿が印象的であった。

 実際、そのクリミアの侵攻以来、6年間もその地域での戦闘状態は続いていて、それを決着させるために、プーチンは、ウクライナとの戦争を始め、ウクライナ側もアメリカとヨーロッパの多数の国々による、巨額の軍事費や兵器によって戦争が続いてきた。日本もウクライナ側にその難民やインフラ修復、復興などに多額の支援をしてきた。(今年5月の時点で1兆円を超えている)

 そして、ロシアとその協力国と、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの国々の世界的な規模での戦争の様相を呈しつつある。

 メルケル元ドイツ首相が嘆いたように、現在のウクライナでの戦争開始の二年前の4か国首脳での会談で、すでに6年ほども続いていたウクライナ東部での戦闘状態を停止して何らかの和解をしていれば、今日のような世界的な対立や軍事増強、そしてアフリカなどに食料危機を起こし、多くの人たちを苦しめて病気や死に至らしめるということにならなかった。

 それを、双方がまったく譲歩せず、決裂してしまい、その戦闘状況が続くことになったゆえに今日の事態がある。

 武力闘争によっての解決を考えることは、現在のウクライナでの戦争においても見られるように、おびただしい人々が殺し合うという悲劇を生じさせることである。このことは、今回の戦争に限らず、人類のはるかな昔からずっと続いてきたことであった。

 日本も戦前は、紛争を武力で解決しようとして数千万の人々の命を滅ぼし、また生涯癒えることなき苦しみを戦傷者やその家族に与えてきた。

 それは、一人一人の命、ことにさまざまの病気や障がいをもったような弱い立場の人々を大切にするというキリストの示した真理には大きく背くことになる。

 たった一人の命をも大切にする、弱い死にかかった人をも重んじるというキリストの平和の精神に照らすならば、戦争は、それが拡大すればするほど、双方が一万二万人の死をも単なる数字とみなし、弱者や現地住民の虐待、強奪、殺人、物質的、また精神的な破壊、拷問、性的暴力、自然破壊…等々、あらゆる悪の巨大な総合体となっていく。

 それはつい80年ほど前には、日本が深く体験したことであったはずであり、そのような悪の深みに入らないように、憲法9条も作られたのだった。

 しかし、そのようなことはまったく忘れ去ったかのように、軍備増強を一挙に進めていこうとしている。

 また、原発事故としては世界最大級の事故が発生し、もう原発は止めて、太陽光、風力、地熱、あるいは各地のさまざまの河川を用いての水力発電…等々が言われていたが、現在、原発を再稼働とか、何十年でも使えるようにしようとかいう機運が国全体で強くなっている。

 このように、この世の移り変わりとともに、国や人々の方針、考え方も大きく揺れ動く。

 そして、何が本当なのか、わからなくなっていく。ある全国紙の記者が、ウクライナを戦争に勝てるように援助することが必要だ、しかし、限りなく拡大したときどうなるのか考えるとどうすべきなのかわからなくなるーと正直に書いていた。

 しかし、このような動揺は、数千年にわたって、生じてきた。そうしたあらゆる混乱や動揺のただなかにあって、星の光のように動くことなく、輝いているのが、聖書の真理である。

 ただ万物を創造した愛の神に立ち帰ることによって、ヨブ記の引用の記述にあるように、私たち一人一人の心を覆っていた雲が晴れて、その魂の奥深くに、光に満ちた神とキリストの光が射してくるのを祈り願っている。

 この点においては、すでに神やキリストを信じている人であっても、時代の動揺と変化に捕らわれてこの世の流れに巻き込まれることも生じていく。

 それゆえに、たえず、立ち帰れ、という数千年昔の預言者の言葉は、何人にとっても、現代にいっそう光をもって迫ってくる。

 

…神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。

      (ホセア書12の7)

…私は生きている、と主なる神は言われる。

 私は悪人が死ぬのを喜ばない。

 むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。

 立ち帰れ、立ち帰れ、

あなた方の悪しき道から。

どうしてあなた方は死んでよいだろうか。

     (エゼキエル書3311


 

 リストボタンお知らせ

〇「祈りの友 合同集会」

・日時…2023年10月9日(月)(休日)

午前11時〜午後4時(途中 12時〜13時まで、昼食休憩 1時間)

・場所…徳島聖書キリスト集会場と、オンライン(スカイプ)

・内容…礼拝(複数の人による祈りに関してのメッセージ)、昼食と交流、自己紹介と各自の祈りの課題、午後三時の祈り。

 申込締切は、930日です。 

 参加希望の方は、申込受付担当の左記宛てにメール、はがき、封書などで左記の必要事項を記入して送付してください。

 

参加申込書には次の項目の記入をお願いします。

・名前、・住所、・電話、メールアドレス、FAX

・参加の場合は、いずれかに〇を付けてください。(会場に参加   オンラインで参加)

・参加の時間帯 〇を付けてください

 (全日程  午前のみ  午後のみ  参加時間帯(   時 〜   時)

・昼食の希望 (有  無)(県外からの参加者のみ)

・持参するもの…聖書、「祈りの課題集」(会員のみ)、昼食(県内参加者)

なお、歩く距離が長いなどで聖書が重いと感じる方は、集会場の聖書、讃美歌を使うことができます。

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〇「主の平和」のCD

 北田 康広さんの「主の平和」CDが完成しました。現在は、世界の人々が平和を求めている状況で、いかなる状況にあっても、こわされず、続いていく「主の平和」の重要性を思います。北田さんが、ピアノ、歌、リコーダー演奏を担当。

 このCDには以前から愛唱されていた讃美歌なども多く、最後に「主の平和」という清い流れのような気品あるメロディーのアルゼンチンの讃美(スペイン語)が置かれています。主要な曲を次に記します。

 「主よ終わりまで」 讃美歌338、「ナルドの壺」 391、「主にまかせよ」 291、「神はわがやぐら」 267、「主よみもとに」 、「十字架のもとぞ」以上讃美歌、「キリストにはかえられません」「鳥の歌」 新聖歌94、「慈しみ深き」、エジプトよ(讃美歌第2編175)「深い川」同175、「悲しみよ」水野源三作詞、「永遠の神の都」(聖楽独唱名曲集第一巻)他。 すでに手許にある方々もおられると思いますが、追加枚数希望の方、まだ聞いてないが聞きたい方は、吉村孝雄まで、申込ください。このCDは、自由協力費となっています。

 北田康広さんは、徳島県立盲学校出身。武蔵野音楽大学ピアノ専攻、東京バプテスト神学校神学科卒業。CDは、「ことりがそらを」「アメイジング・グレイス」「聖夜」など、11枚。

  


リストボタン休憩室

〇土星、木星、金星、

 夜現在夜10時頃には、土星が南天に、木星の強い輝きが東の空に見えてきます。

 早朝4時くらいからは、金星(宵の明星)が見えてきます。5時頃では、南西の高いところに木星、東に金星とすばらしい輝きの二つの星が見えて、静かに見守りつつ語りかける神様のまなざしのようです。

 


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