福音 №414 202211

「イエスよ、憐れんでください」

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。(ルカ8:35-43)

 

この頃日曜礼拝で「ルカによる福音書」を学んでいるが、もうその記事の一つ一つの重みに圧倒されて、どの箇所を読んでも、ここにすべてがあると思ってしまう。昨日の聖書箇所がこの「エリコの近くで盲人をいやす」だったが、学んでいる途中に「これが福音だ」「これが神の国」「これがキリストの救いだ」と心が燃えて、もうすべてが分かったように(超傲慢にも)思ってしまった。その時の喜びを思い出して、書こう。

 

3人での聖書の学びを終えて「感話」のときKさんが言った。

「この盲人の人、ずっと前から、ずっと見えなくて物乞いしてたんですよね。そんな自分が変れるなんて、普通なかなか思えないですよ。この人、『イエスよ、わたしを憐れんでください』って、どうして叫べたんでしょうか。」

この言葉にあっと驚いた。本当だ、人はみな自分に与えられた境遇や状態を生きている。自分の努力で変えられないことは、これは運命だ、仕方がない、と大方あきらめて生きている。聖書に「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」とあるのだから、何があっても黙って耐えるのがキリスト信者だとさえ思っている。なのになぜ、この盲人は「ダビデの子イエスよ」と叫んだのだろう。

 

この「エリコで盲人をいやす」記事に聴き入っていると、この世の定めの中で生きている私たちの日常が見えてくる。

「明日のことなんか分からないよね」「いつまで生きるか分からないからお金だけは稼がなくては」「死んだ後のことなんか考えたって仕方がない。今を一生けん命、精いっぱい生きれば、それでいいんじゃない」・・・何も分からないまま、本当のことは何も見えないまま運命に身を任せている私たち。世から生きるすべを学び、目に見えるこの世がすべてだと思い込んでいる私たち。

そんな群衆の中に「イエスよ、憐れんでください」と叫ぶ人がいる。

「何を言っているんだ。運命に逆らってはいけない。すべては神の思召しなんだから、叫ぶのは止めなさい」と叱られても叫び続ける人がいる。

そうか、この人は自分を憐れんでくださる方に出会ったのだ。

この世の定め、運命だと諦めていた人生を新しくしてくださるお方、真の命を与えてくださるお方に出会って、このお方、イエスさまこそ救い主だと信じたのだ。

「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただいたのは、この人だった。

 

この盲人の「わたしを憐れんでください」との叫びに、先々週学んだ「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」が重なった。

 

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 ルカ福音書18:9-14

 

「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈って義(正しい、信心深い)とされたことの人は何をしたのだろうか。この人はただ一つのことをした。

この人は自分の人生の災いや悲しみを自分で引き受けた。社会の仕組みが悪い、運が悪いと、何かのせいにせず「私の中に悪があるのです。私は罪人です」と告白し、自分や子供の健康も幸福も願わず、罪の赦しや安らかな死も願わず、戦争が早く終わりますようにとも願わなかった。

しかし、この人は、自分の引き受けた境遇、状態、自分の罪、それだけでなく世界のあらゆる問題も「これは運命だ、仕方がない、苦しみは耐えるだけだ」とは信じなかった。

こんな自分を、罪人を憐れんで新しくしてくださる神がいると信じた。

そしてただ一つのことを祈った。

「罪人のわたしを憐れんでください」

「あなたがわたしの神であってください」

「わたしを運命に任せず、あなたが支配してください」

この人は、この世の運命を神だとは信じず、生けるまことの神を信じた。

「人にはできないことも神にはできる」ルカ18:27、救いの神(イエス・キリスト)を信じた。

「義とされて家に帰った」のは、この人であった。