福音 №415 202212

「永遠の生命を求めて・杣友豊市」 2「祝クリスマス」

〇杣友豊市さんの「永遠の生命を求めて」、私には最高のクリスマスプレゼントです。お届けします。

 

永遠の生命を求めて               杣友豊市

    回心するまで

 「君はどんな動機からキリストを信じるようになったのか」と尋ねる人が居たとしたら、私はただ一言「死ぬのがいであったから」と答えたい。

死ぬのがいやであったのは私の生れながらの性質なのか、十歳頃からそのことを気にしだした。

私はなにも病気であったわけではなく、両親も兄や姉も元気であったけれども、そして父母からはこよなく愛されていながら、ただ一つ解けないのは、人間が死なねばならないということであった。

天地に充つるものみなは、驚くばかり巧妙に造られているのに、こればかりは何という不自然なことであろう。慈愛にみちた父も母もやがては去り逝くであろう。七、八十年後にはわが身さえもこの地上に居ないのだと知ったとき、前途はばったり行きつまってしまった。これでは人生とは断崖に向って全速力で車を走らせているようなものではないか。大金持ちになり、あるいは歴史に残る偉人になったとて何の甲斐があろう。「すべてが墓に終るとならば人の世にある何ゆえぞ無限に吸われ死に呑まれ故なき過去と消えんためにか」(テニスン)

まったくその通りである。「これはどうにもならない宿命だ。それを思い煩ったところでどうなるというのか。前途に眼を閉じて今日をのんきに暮せ」と人は言うであろう。だが、こんな一時逃れでごまかすことのできない大きな問題である。どうにもならないものなら、犬や、ねこのように無知の方がどれだけか幸福であろう。人間はなまじっか知恵知識がある。 死を予知している。そのため前途を真暗にぬりつぶす。

だが、人が死を恐れると言うこと、これには何か深い大きい理由がなければならない。いい加減にごまかして逃げてばかり居ないで、真正面から取り組もう。 死なない世界、永遠の生命!これこそ凡ての人が魂の奥深くで求めているものではないか。 人間は来世に関心を持つ。 追善を営むのも、香華をたむけるのも、その心の現われてはないか。

 

宗教によって

宗教によってこの大問題を解いてもらおう。宗教とはこんな事のためにあるのであろう。世界的大宗教たる仏教かキリスト教かによって教えてもらおう。 運が開けるの、金がもうかるの、病気が直るのと御利益を看板にするものから得られようとは思えない。それは天来のものでなければならない。その頃、私は青雲の志をいだいて韓国に渡り、帰国して再び韓国へ・・・そうした間にも永遠の生命を求めるおもいは変らず、寺を訪い、レンガ造りの教会堂の前をうろつき、古本屋で聖書を求め、キリスト信者を訪ねて質問し、などの数年が過ぎた。

 

聖書によって

「求めよ、 さらば与えられん。 長い間探していたものの得られる時がついに来た。 二十五歳の冬、私の住んでいた統営から海上三時間の孤島欲知に、建築工事に行き、五十日ばかり滞在した。 妻やその妹たちとにぎやかに暮していたわが家を離れて、一冊の書物も新聞、雑誌もない漁場の冬の長い夜を私はもてあました。 手持ちの書物も読み尽した。 残るは新約聖書が一冊ばかり、そこで時間をつぶそうとその第一ページから念を入れて読み始めた。 数年前買って読み始めたものの、その第一ページの味気なさにうんざりして、しまっておいたものであった。よくもそれを忘れずに持って来たものだ。 今度はちがう。 時間をつぶすことが出来ればよい。この荒野にも等しい夜を過ごすことが出来ればよい。 すると奇妙なことに、第一ページの終り頃から分り出したではないか。どうやらこれはイエス伝らしい。 念仏よりは分り易い。 アクマが出てくる奇妙な所もあるが掛軸の十三仏の像ほどではない。これが宗教なのだろう。 ところが第五章に入ると場面は大きく変わり、けだかくて、清くて、深い真理が、高い道徳が、第七章まですきまなく詰っている。 それを権威をもって語るイエス、天国の消息を慈愛と真実をもって伝えるこの方は神なのか人なのか。これを「世界一の偉人」と言おうにも「偉人」と呼ぶにふさわしくなく、「聖人」と呼ぼうにも聖人臭くない。そのような人間離れした方のあるのを知った。と同時に自分の心のみにくさにただただ恥じ入るばかりであった。

「聖書は迷信の書ではない。また文学書のように人の頭でデッチあげた書ではない」と直感し、そのため次章に出てくる奇跡を集めて記したところもあり直ちに信じ得られないながら、迷信として退けることはできなくなった。

イエスは王者の如く我がままに行動し、時には、神の権威をもって、ひとに犠牲を要求する。 彼が人ならば暴君であり狂人でなければならないと思われるほどに。 私はただ一人で、毎夜聖書の福音書と呼ばれるところをむさぼるように読んだ。 ここ二~三年間の折々に聞きかじった知識の断片をもとにして。 かたわらに導いてくれる伝道師もなく、反面また、これを妨げるラジオ、週刊誌の類もなく、話し相手も娯楽道具もないのが幸いして、 次から次へと処女地を開いてくれる。理解されたといっても、もとより千万分の一でしかなかったであろう。けれども、もの心がついてからこの日まで、探し求めていたものに初めて出会った。イエスは、人に永遠の生命を与えるために来られたのだ。 聖書とは、その道を伝えるために書かれたのだ!今こそ永遠の生命を授けて頂きたい。

「そうだ、だまされよう。 心を決めて。 イエスは素顔である。 その言に行いに少しの策略も化粧もない。 この素朴な方をわが主と仰いで仕えよう。そのお命を張って開いて下さった道、これを真にうけてだまされ、たとえそれが方便であったとしても悔いはない。」

私は大望を抱いて韓国まで出かけて来たが、主イエスの教をきいていると、この世の人々から賞賛されることは大抵の場合賤しいことであり、貧しく乏しくても、迫害されても聖なる愛に生きることが生甲斐のあるもののように思われてきた。

 

回心

聖書読みは毎夜続いて、ヨハネ福音書に入り、一層深い優雅さが加わり、心の底を何か強く打つものがある。その後半に入ったあたりから感極まってもう黙って居られなくなった。

「神さま、おゆるし下さい。 お救い下さい。 いのちをお与え下さい。 生涯苦労しても良いから従います。」と真剣に祈ってこの世の栄達と別れる覚悟をし、わが主イエスと共に苦労しようと決心した。

 

新生

それから私の信仰生活は始まった。神は私の祈りを嘉納せられたのであろう、幾日かの後、主によって私の心の中がすっかり改革されている事を知った。 利己から解放された自由、腹の底にどっしりと宿る平安、潮の満ちてくるような感激に、外の天地が変ったようにさえ見えるのであった。そしてこの幸福を、他の人々に分配せねばならないと思うようになった。

 

(あとがき)

私はこれまで幾回も同じことを語り、また書いた。にもかかわらずまたやむをえぬ事情にうながされてこれを書いた。あたかもパウロがダマスコ途上の出来事をいつも語ったように。 (一九八五年三月三〇〇号)