福音 №404 20221

「心を合わせて 阿南慈子さん」

 

1月4日、朝930分、電話が鳴った。えっ、誰から?と思って画面を見ると水曜集会の仲間の名、そうか明日何かあって水曜集会をお休みしますということだな・・と思いながら電話に出ると、「あのう、今日の集会お休みですか」「今日は火曜日じゃない?ええっ、今日水曜日?」、どうしようと私の方がうろたえた。私の家の隣りが集会所になっていて、来てみたら閉まっているのに驚いて電話をしているのだと分かって、あわてて外に出てみたが、彼女は駐車場にいるようで「間違えました。すみません、また明日来ます」と電話が切れた。

 しばらくして、うれしくて涙がでた。こんな仲間がいてくれるから、水曜集会が40年も続いてきたのだ。ただただ聖書を読み、担当者が調べてきたことを話し、それぞれ御言葉から受けた恵みを語り合い、ある時は悔い改め、ある時は感謝に溢れ、最後にはみんなで祈る。新約は少しずつ詳しく学び、旧約は一章ずつ通読を続けている。

 牧師も特別な先生の講話もないのに、なぜそんなことで続くのかと思いめぐらして、「主が望まれるから」と、ともし火がともるように心の真ん中が明るくなった。

そうだ、イエス様は言われたではないか、「貧しい者は幸いである」と。神様を知りたい、イエス様に出会いたい、聖書を学びたい、あるのはそんな思いだけ。他には誇るべきものの何もない私たちの貧しさを、主は憐れんでくださる。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの父の御心ではない」と、ただそのことの故に、主はいつもいつも思いにまさって恵んでくださる。貧しいことを恐れまい、力なきことを恥じまい。これからもただ御言葉を求めて、備えられた道を歩ませていただこう。

 

神の前に静まって、神に感謝する者、

すべてのことについて感謝する者でありたい。

そして、神がわれわれとわれわれの教会に備えられる道がいかなる道であろうとも、

神に希望をおく者でありたいと思う。

神は、今日に至るまで、われわれに良いことをしてくださった。

そして、最後の最後には、すべてのことを見事に完成してくださるであろう!

 

説教集より

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「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」これは確か羽仁もと子さんの言葉だったと思うが、ちょっと高尚だから、私はもっと安直に、「聖書を読むこと、祈ること、主イエスと共に歩むこと」を心がけてきた。そしてこの頃、特に、この歩みは始めは一人でも、いつの間にか少しずつ広がっていくものだとわからされている。イエス様のたった一つの戒めは「愛し合いなさい」であって、人は、自分一人で愛し合うことはできない。愛し合うには仲間がいる。だから、必要な仲間は主が備えてくださるのだと。

しかしそれは必ずしも、この時この場に仲間がいるということではない。先月「二人が、地上で心を一つにして求める」マタイ18:19について書いたが、その時のバルトの説教には続きがあって、次のように結ばれている。

「ただ二人の人間だけでも互いに本当に一つとなって祈ろうとつとめるかぎり」・・・

「小さな部屋での祈りも、その点で妨げにはならない。親しい人を持たぬ一人の孤独な人の祈りも、妨げにならない。君が誰かのことを考える。そしてわれわれは一緒に祈ることができるであろうか、われわれは私が今祈ろうとしていることについて一致することができるだろうかと、自分に聞いてみさえすれば、それで十分なのである。その時、心と心の通い合う他人が近くにいなくても、全生活が神の御心と一致し、また調和しうるであろう。われわれがわれわれの祈りとわれわれの生活においてのみ正しく共同的であるならば、われわれは外的には隠修士(砂漠などで孤独な修道生活をおくる者)でありうる。」

 

心を一つにして祈るとは、必ずしも集まって祈ることではない。誰かと心を合わせて祈ること、たとえその誰かが側にいなくても、今祈ろうとしていることがその人の求めと一致するかどうか問うてみることである。御心にかなうことは私たちを一致させ、かなわないことは私たちを分けてしまう。だから共に祈ろうとすると、自己追求的なものや俗っぽいことは切り離さねばならなくなり、自ずと祈りは神の御意志を祈るように正しく導かれる。そして、祈りと生活を切り離すことはできないのだから、正しい祈りは正しい生活へと私たちを導いてくれるというのである。

「人は、彼が祈るように生き、また歩み、また生活するものだからである。」

 

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人から見たら私 生きていないように見えるかもしれない

ただ翠い海の底に じっと動かずにいるの

人から見ると私 死んでいるように見えるかもしれない

ただ広い海の底に じっと身をよこたえているの

それでも私の命は生きている こんなにも生きている 本当に

歩いて行くことはできないし 泳いでいくこともできない

ただ翠い海の底に じっと動かずにいるの

瞼をあけても何も見えないし 体は何も感じない

ただ広い海の底に じっと身をよこたえているの

それでも私の魂は感じている こんなにも感じている 本当に

阿南慈子さんの「ありがとう、あなたへ」という本を開いて最初のページ、こんなにも清かに、こんなにも確かに「キリストの命」が描かれていることに驚いた。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とイエスさまの言われた「命の光」がここにはあった。

1954年生まれ、31才で多発性硬化症発病、失明、首から下の感覚をすべて無くし、人工呼吸器を使用しながら、口述筆記で綴られた詩やエッセイ。46才で天に召され、その後まもなく出版されたこの本を、私は今までなぜ知らなかったのだろうと不思議に思うけれど、ともかく驚いた。フランクルの「それでも人生にイエスと言う」に、心からアーメンとあるが、これ以上ポジティブな生き方を知らない。ともかく、人の思いをはるかに超える愛と喜びに満ちたこの本を、あの人にも、あの人にも読んでもらいたいと余分に取り寄せました。まだ読まれていない方、読んでみようと思われる方はお知らせください。

 

私が文章を書く理由  阿南慈子 (「神様への手紙」より)

 

 私がエッセイを書いたり、文集や童話を出したりするのは、私のことをもっと知ってほしいから。いつまでも覚えておいてほしいから・・・・・。

 これらは、家族や多くの友達の協力のおかげでできあがる。

 三年前の十月ごろから、不思議な感じで、詩や文章、童話や物語が生まれ、まとめたのだけれど、私はいったい何のためにこのようにしてまで、「読んでください」と言うのだろうか。

 毎日ただ自室のベッドに横たわり、二週間に一度、近くの府立医大病院で受診する。

 車椅子というより移動ベッドに見えるものに乗り、私の主治医がいらっしゃる神経内科と、泌尿器科で診てもらう。

そのあと地下の食堂で主人とデート。

「今日はモーニング・サービスにしようか、ハヤシライスにしようかな?」

 さらに毎週一回、呼吸器の主治医が往診してくださり、これらが私の生活のリズムになっている。そして毎日何人もの看護師さんが来て私を助けてくださる。

こんな私を見て他の人はどう思うだろう。ただ可哀そうと思うかも知れない。どう声をかけたらよいのか、わからないかも知れない。たとえ声をかけてもらっても、「ありあがとう。がんばるね」

と応える私の声は、小さくて聞き取れないにちがいない。

 そんな状態でも、人の心を阻むものは何一つないのだと私は思う。病気の人はもちろん病気に悩むけれど、病気のことだけを考えているわけではない。健康な人と同じように、いろいろなことを思い、たくさんの夢があり、希望があり、また喜びがある。そのことを知ってほしい。

 神様は、私をこんなにも幸せに生かしてくださっている。

 人の目には価値なき者に見えるかもしれない私でも、神様に愛されていることを知っているから、こんなにも幸せ。神様がすべての人をどんなに愛し、一人残らずみんなの真の幸せを望んでおられるかを伝えたい。神は存在そのものであり、生命そのもの、愛そのもの。

 だから人間はみんな一人ひとり、その神の愛に応えなければならない。真剣に愛をもって生きぬくことによって。

 そのことを伝えられたら、私は生まれてきた甲斐がある。

生きてきた甲斐がある。

病気を受けとった甲斐がある。

そして、阿南慈子である甲斐がある・・・・・。

もし病気が治ったら  阿南慈子 (「神様への手紙」より)

 

 

もし病気が治ったら、私はしたい仕事が二つある。それまでのように自分の家をきちんと片づけ、家族を守るだけの生き方はしたくない。人の役に立つ生き方がしたいから。

 

 1,「病院の掃除係り」━入院しているころ、いつも「おはよう」と元気よく声をかけ、モップを片手に来てくれた。「気分はどうや、夕べはよく眠れたか」と話しながら、掃除できない私に代わって部屋をきれいにしてくれる。「神の毛いっぱ抜けて汚いでしょう。ごめんね」と言うと、「何言うてんの。これが私の仕事や。気にせんとき」とやさしい。彼女たちのこの言葉に、入院中の私はどれほど励まされたことか。

 掃除できない患者さんに代わって、病室やトイレ、浴室の掃除をして、時にやさしく声をかける。なんて素敵な仕事だろう。きれい好きで、お掃除上手な私にはぴったりの仕事。

 2,「特別養護老人ホームの雑用係り」━老人であるというだけで孤独で不安であるだろうに、そのうえ病気だったり、障害があったら、どんな思いだろう。そう思うだけで胸が痛くなる。すぐにでも飛んでいきたい。

 まずはお食事の介助。「おいしい?」とか「この味付けはどう?」とか楽しく話しながら、ゆっくりとお食事していただこう。食べることは人間にとって大切な、そしてうれしいことだから。次は体を拭いて、着替えをして、排泄のお手伝いは何よりも一生懸命してあげたい。恥ずかしい思いをしないように、すまない思いをしないように、さりげなく、すばやく、そして丁寧に。年老いた人を尊敬し、大切に大切に接したい。

 でもこの近くには特別養護老人ホームがない。だから私はさしあたり、病気が治ったら、近くでもありお世話にもなった府立医大病院に、掃除係りとして使ってもらおうと決めている。この夢のために病気が治ればよいのになぁ。