福音 №405 20222

「信じなさい」と主は言われる

 

「恐れることはない。ただ信じなさい」マルコ5:36 ヤイロに

「神を信じなさい」マルコ11:22 弟子に

「わたしを信じなさい」ヨハネ4:21サマリアの女に

「光を信じなさい」ヨハネ12:36群衆に

「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」ヨハネ14:1弟子に

 

あまり難しく考えないで、イエス様のお言葉にまっすぐ心を向ける。

イエス様は「信じなさい」と言われる。神を、イエスご自身を、光なるイエスを、神の国・神の愛と救いの良き知らせを、ただ「信じなさい」と言われる。イエス様のお言葉には「敵を愛しなさい」マタイ5:43とか、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」マタイ10:28など、それは難しいよ・・と思うこともある。でも、それらの原点はみな「神を信じなさい」にあるのだから、ともかく、神様を信じなければ聖書の世界は開かれてこない。

しかし確かに、「信じる」というのは命がけである。ヨハネ福音書を読めば、「信じること」と「永遠の命」は一つであることが良く分かる。「信じる者は永遠の命を得ている。」ヨハネ6:47この世だけではない、来世の命がかかっているのだから、信じることが命がけであるのは当然だ。

イエス様は、神を信じることが安楽なことだとは、決して言われなかった。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」マタイ6:24と言われた。神様も大事だけれどお金も大事ですよと言ってくれれば、誰でも納得がいく。その上、信じれば健康で家族円満、お金持ちにもなりますよと言ってくれれば、初詣の神社みたいに大入り満員にもなるだろう。

しかし、聖書はどこを読んでも、この世は神とサタン(この世の富と権力に象徴される勢力)とのせめぎ合いであって、神につくか、サタンにつくか二択なのだ。私は神にも従わないけれど、サタンの言いなりにもならない、私はわたしの道を行くという(聖書ではそれを罪という)人も多いだろが、 それはきっと広い門。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」マタイ7:13-14とイエス様は言われる。狭い門から入るとは、広い道を行く人に組みしなことである。この世を敵にまわすことになるかもしれない。

バニヤンの「天路歴程」で、わが家にもどるようにと呼びかける妻や子の声に、「指を耳に入れて、命、命、とこしえの命と呼びながら走り続けた」キリスト者の姿が思い浮かぶ。神を信じて生きるとは、確かに日々戦いである。誰と戦う?この世と?いえいえ、まずは自分自身と。怠惰、高ぶり、偽善、いつでも落とし穴は目の前にある。

もちろんそれだけではない。この世の破壊や悲惨をじっと見つめていると、神を信じてもどうにもならないように思えてくる。どんなに祈ったって、殺人事件も、虐待も、戦争もなくならないではないか。コロナは蔓延し、災害は後を絶たず、どう生きようと人は皆、老いて病んで死んでいくではないか。神を信じようと信じまいと、この世の現実は変わらない。

だからこそ、この現実を前にして、神を信じることは戦いとなる。見えるものをじっと見つめて嘆くだけなら、信仰はいらない。人間的英知を結集してこの世の罪や悪、災害に対抗できるなら、信仰はいらない。人は死んでお終いなら、信仰はいらない。

この世の現実を超える神の現実を見るために、「神を信じなさい。またわたしをも信じなさい」と主イエスは言われる。

聖書を読んでいくと、この世の破壊と悲惨のただ中に、イエス様の絶対的な憐みが立ち上がってくる。イエス様の愛に、自己追求に明け暮れる自分の罪が見えてきて、絶望的に思えたこの世の悲惨とはわが罪であったと分かってくる。

「無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷となり、悪意と妬みのうちに日々と過ごし、人に嫌われ、互いに憎み合う」(テトス3:3)こんな世(世とは人である、自分である)を、キリストの十字架と復活、やがて再臨によって見事に完成してくださるという神の現実。その神の現実を信じさせる力が聖書にはある。

〇「まず、新約聖書を最初から読む。分からなくても読んで、一つでも分かる言葉があれば、その日はそこまで。次の日も、分かったと思える言葉に出合えばそこまで。そんなふうに読み続けていくと、分かるようになります」と聞いたことがある。ぜひ、どうぞ。

 

福音№403の『心を一つにして』とは、イエスの心をいただいてということでしょう。

『私はもはや生きない。キリストがわが内にあって生きておられるのである』これでこの世の一切は耐え忍ぶことができます。」

熊本のMさんからいただいたお葉書のこの一文が、胸の奥にまで響いてくる。

以前いただいたお葉書にも、「20才で挫折して、すべてを失ったときに、キリストが来てくださいました。『私はもはや生きない。キリストが私の中にあって生き給うのである』という聖句がそのまま私のものとなりました。」と、ガラテヤ書220節が記されていた。

いつだったか、「夜眠る前には、電気を消して点字聖書を少しずつ読みます。今はヨハネを読んでいます」というようなことが書かれていたのには驚いた。目が見える人には点字は読めないと聞いていた。盲学校で教師をされて、御自分も指で読まれるほど教え子たちと心を一つにされていたのだと、今にして思う。

「心を一つにしてとは、イエスの心をいただいてということでしょう。」

確かに、生まれも育ちも違い、与えられた能力も境遇も違う人間が「心を一つにする」には、一人一人の事情を超える指標がなくてはならない。それが「イエスの心」という永遠の愛なら、いやが上にも一つにされるだろう。恵みの仲間と御言葉を分かち合い、祈り合う時、「イエスの心を慕い求める」心によって一つとされる喜びは、日々実感している。

 聖書をくり返し読むのは、「イエスの心」が分かるようになりたいから。

 朝に夕に祈るのは、「イエスの心」をいただき、「イエスの心」を生きるため。