福音 №407 20224

「永遠の来世」

 

恋人よ、美しいひとよ。

さあ、立って出ておいで。

ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。

花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。

この里にも山鳩の声が聞こえる。 雅歌2:10-12

 

こんな歌が天から聞こえてきそうな日、庭に出てみると春の花が咲いている。古いマンションだけど一階なので小さな庭があり、でもほとんど手入れもせず、ここ数年は花を植えた記憶もない。なのに、端から見ていくと、白いクリスマスローズ、ウツギも白いつぼみがいっぱい、アロエの赤い花と、バイモの花、黄色いリュウキンカは「また来年」と手をふっているようで、紫蘭のつぼみはまっすぐ天に向かって伸び、その横には黄色いフリージャの花がひとつ。あるのも忘れて歩いて踏みつけ、それでもフリージャは何のうらみごとも言わないで首をあげるようにひっそりと咲いている。「ごめんね、ありがとう」。ベランダ策の前にはシクラメンが紅色の小さな花を一輪、よく見るとつぼみも一つ。青紫のムスカリ、これもどうにか一つだけ。その横には、これは元気よく、みんなで歌うがごとくキズイセンとスノーフレイク。スノーフレイクはスズランズイセンと呼ぶ方がイメージしやすいが、よく見ると、どうしてこんなかわいい花が咲くのだろうと見とれてしまう。その花たちのまわりには、ナズナや、スズメノエンドウもほんの小さな花をつけ、塀のそばにはオニタビラコやハルノノゲシも健在だ。

「味わい、見よ、主の恵み深さを」詩編34:9a

ほったらかしの庭も春の陽を浴びて、御言葉のタクトで花たちが一斉に歌っているようだ。

しかし、こののどかな春の日はまた、破壊と悲惨しか生まない戦争終結を願い、「平和を来たらせてください」と、友と心合わせて祈る日である。

 

私たちに明日は見えない。いつ何が起こるかは誰にも分からない。しかし、穏やかな日も、戦いの日も、天変地異が起こる日も、喜びの朝も苦しみの夜も、御言葉(聖書に記された神の言葉・キリストの言葉)は変わらない。

「味わい、見よ、主の恵み深さを」と詠う声は、

「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」詩編34:9bと続く。

「御もとに身を寄せる人」は、「主に逃れる人」「彼に身を避ける人」「主に寄り頼む人」とも訳されているが、私たちにはいついかなる時も、身を寄せ、逃れ、身を避け、寄り頼むことのできるお方がいるのだと、聖書は告げる。

戦争の悲惨や破壊にのみ込まれ、人間の罪がすべてを滅びへと追いやるとき、人と人が殺し合う姿に自分の罪を見、絶望するときも

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」ヨハネ12:32と言われたイエス様の十字架のもとに、ただ、逃れていくことが許されている。

 

 今朝も水曜集会で学んだが、福音書には

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」マタイ4:23とある。

 罪のこの世に来られ、その愛と憐みによって「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」イエス様は、今も生きて、この世で苦労する者と共にいて、共に歩んでくださる。

 それだけではない、イエス様は私たちに、何よりも御国の福音を宣べ伝えてくださった。目に見えるこの世をはるかに超える天の国、永遠の神の国について教えてくださった。人は死後の世界をあれこれと空想するが、イエス様のお言葉を素直に聞くと、そこで語られる天の国は空想ではない。「わたしは父のもとで見たことを話している」ヨハネ8:38とあるように、ご自身が見た神の国を、父なる神さまから直接聞いたことを話してくださった。

「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。」ロマ書8:24

私たちの真の希望はこの世ではない。イエス様の話された天の国こそすべての者の希望である。たとえ幼くして死んでも、志半ばでこの世の命が絶たれても、いわゆる天寿を全うしても、それがその人のすべてではない。人はみな、永遠の天の国に招かれている。イエス様はその天の国を宣べ伝えられただけでなく、何と、ご自身の命をもって、十字架の死と復活によって、私たちが歩むべき御国への「道」となってくださった。

 

 

赤ちゃんが生まれることは「おめでた」と言う。そして、死ぬことを「ご不幸」という。生まれることはうれしいから「おめでた」で、死ぬことは辛く悲しいことだから「ご不幸」というのは当たり前と言われれば、それはそうだけれど、でも「おめでた」で始まって「ご不幸」で終わる人生って何なのだろう。

「そんなことは考えないで、今日をいかに生きるか、それが大切なのよね」と言われても、何の実感にもならない。若い日に読んだ「人の幸や不幸は問題ではない。人は生きたということに満足すべきなのだ」という言葉も、今となっては観念にすぎない。

そんなことを思いながら久しぶりに内村鑑三の「一日一生」を開いたら、ちょうどそのことが書かれていたので、ここに書き写します。

 

永遠の来世が確実になりますと、価値のない今世に本当の価値がついてくるのであります。まず第一に私どもは世をいとわなくなるのであります。この世の苦痛は来世の希望をもって慰めることができてあまりあるのであります。今世はまた来世にはいる準備の場所として無上の価値をもつようになります。そのもの自身のためには何の価値もないこの世は、来世に関連して必要欠くべからざるものとなるのであります。日々の生活の業のようなものは心思を労するほどの価値もないように思われますが、しかしこれによって来世獲得の道が開かれることを知って、小事が小事でなくなるのであります。実に来世に存在の根底をおかなければ今世は全然無意味であります。来世を握る特権を賦与されて、この無意味な今世が意味深長のものとなるのであります。 「一日一生」823日