福音 №409 20206

「人知を超える神の平和」

『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(帚木蓬生著)

 この「ネガティブ・ケイバビリティ」という言葉によって、私の中で、聖書の言葉が次々と開かれていくのに驚いている。

本の帯に「早急な結論、過激な意見にとびつかず、すぐに解決できないことには、『急がず、焦らず、耐えていく』力=ネガティブ・ケイバビリティが必要です。」とあるのに、この言葉一つで分かったように思う自分にあきれるけれど、ともかく気づかされたことをいくつか書こう。

 

昨年から学んでいる「ヨブ記」がぐっと分かりやすくなった。

ひどい災難にあっているヨブを慰めようと見舞いにきた3人の友人は、ヨブの激しい苦痛を見ると77晩、共に地面に座り話しかけることさえできなかった。ところがヨブが

「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか」3:11

と否定的な叫びをあげはじめると、途端にヨブを戒めようとやっきになる。15章まで読み進め、仮借ない苦痛の中でのヨブの叫び

「わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。

なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか」6:11

には、どこまでも神に向かい、神に聞いてもらいたいというヨブの真実がにじみ出ている。

それに対して、「神は罪人を罰し、善人には報いてくださる」という従来の応報思想でヨブの苦しみを解決しようとする友人たちは、ヨブの神へのしつこさに耐えられない。

「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれることがあるかどうか」4:7

「なぜ、あなたは取り乱すのか。なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか」15:12と慰めるどころか、しだいに攻撃的になっていく。

 

 ヨブの友人だけではない。私だって、「あなたがそんなに苦しいのは、あなたが間違っているから。神を信じて、正しく生きればいいのよ」と、結論ありきで相手の話を聞いたことはなかったか。相手が変らないことに付き合いきれず、変わらないあなたが悪いと片づけてしまったことはなかったか。

そうか、なるほど、だから聖書には「愛は忍耐強い」とあるのだ。

「愛の賛歌」コリントの信徒への手紙1・13章で、愛の働きの最初にあるのが「忍耐強い」だ。「寛容である」「じっと辛抱する」「耐え忍ぶ」とも訳されているが、愛とは、相手の悩みを解決してあげようと尽力する以上に(だいたい悩みが深ければ深いほど簡単な解決などないのだから)、相手と一緒に「じっと辛抱する」、その人の悩みをわが悩みとして「耐え忍ぶ」ことなのだ。

そうだ、キリストの十字架の姿は、私の罪をじっと耐え忍ばれるお姿、これこそ「愛」なのだと、ハッと気づかされた。

愛とは何と残酷なものだろう。いや、愛が残酷なのではない、このような愛によらなければ赦されない、私の罪が残酷なのだ。「罪に対する死」の描かれた、グリューネバルトのイエス像に見入る。

私たちは背負いきれない借金()を、神の愛(キリストの十字架)で赦されて、今日を生きている。(マタイ福音書18:21-27) たとえ世界中が、戦い、不和、弾圧、恐怖、飢餓、病におおわれようと、この神様を信頼して「最善はこれからだ」と信じて、焦らず、あきらめず祈りの仲間と共に祈り続けよう。

 

ネガティブ・ケイパビリティについていろいろ検索していると、吉村博明宣教師「ネガティブ・ケイパビリティと神の平和」の中に、フィリピ書4章6-7節の聖句について「ルターの解説」が紹介されていて、くり返し読んでいる。

 

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピ4:6-7

 

「この聖句を開いて、そんな平和を感じたり、見つけることなんかできないなどと考えてはいけない。われわれは主イエスの十字架の犠牲の上に、神との平和な関係を築けているのだから、心も良心もその平和を感じとっていなければならない。

一方で、祈りの中で神のもとに身をよせることを知らない者たちがいる。彼らは心配事や反対者に出くわすと、彼らなりに平和を探し求めるが、それは理性でとらえたり、理性で獲得できるたぐいの平和である。理性で獲得できる平和とは、不幸がなくなった時に現れてくる平和である。この平和は人知を超えるものではない。それと同じレベルのものである。

他方で、神との結びつきの中で喜びをもてる者たちがいる。彼らは神との間に平和な関係が築かれていることで十分とする。彼らは心配事の渦中にあっても堂々としていられる。彼らは理性と同じレベルの平和、すなわち不幸がなくなった時に現れてくる平和を追い求めたりはしない。彼らはしっかりと立ち、イエス様を救い主と信じる信仰から、内面の強さが備えられていくのを待つ。そして彼らは、不幸が短い期間のものか、長い期間のものか、全く意に介さない。いつ終わるのか、いつ終わるのか、とばかり考えて取り乱すこともない。

なぜなら、すべてのことを神の取り仕切りに委ねているからだ。神がいつどんな仕方で助けてくれるか、どんな助け人を送ってくれるかということを、自分から知ろうとはせず、すべてを神にまかせる。それゆえ神はその者たちに大いなる憐れみを示されて、彼らの不幸に対して彼らにとっての最良の終わり方を準備してくださるのだ。その終わり方は、誰一人として予想も期待もしていなかったものになるのだ。」

 

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」ルカ福音書11:13

と、イエスさまが言われたのは、このことだと気づく。私たちが思い煩うのをやめて、イエス・キリストの父なる神に祈り求めるなら、

「まったく思いも及ばぬ神の平和が、あなたたちの心と思いをキリスト・イエスにおいて守るであろう」

この平和こそ、聖霊のしるしに違いない。