福音 №412  20229

「ネガティブ・ケイバビリティ」

恐怖に襲われて、わたしは言いました。

   「御目の前から断たれた」と。

それでもなお、あなたに向かう叫びを

嘆き祈るわたしの声を

   あなたは聞いてくださいました。詩編31-23

 

「ネガティブケイパビリティ」                高橋 望

宮田咲子さんの『福音』には、いつも励ましをいただいていますが、『福音』にこの言葉が出てきたときは、とてもビックリしました。私にとってこの概念(?)は、重大な局面で私を開放し、救ってくれたものだったからです。そこで、拙いながら自分の経験に絡めて少し語らせていただきたいと思います。

 

自閉症スペクトラムの息子のことでひどく奮闘する日々が長く続き、疲れ果てていました。入り込んでしまった暗いトンネルの先が見えない。頑張っても頑張ってもうまくいかない。それは何十年も続いていました。これまでいくつもの危機的状況を何とかしのいできたけれど、「解決」がない。むしろ更に壊れていく(ように思える)。最大限の努力をしているにもかかわらず。

親仲間を見回すと、どんなに困難でも10年頑張れば何かしらの落ち着きどころがある(ように当時の愚かな私には見えた)のに、私にはそれがいつまでたっても訪れない。

そんな時に読んだのが『ネガティブ・ケイパビリティ― 答えの出ない事態に耐える力』(帚木蓬生著)でした。「答えの出ない事態に耐える」まさにその時の私の課題でした。え!答えが出ない状態でいいの?とても驚きでした。

障害は支援によって必ずよい方向へ向かう、という思いが強かった当時、問題解決しないのは自分のやり方が悪いからではないのか、自分と他の人の何が違うのかと悩んでいました。自分だけが見捨てられたようでもありました。

 

ところが、ネガティブ・ケイパビリティとは、逃げ出さずにその場に居続ける能力、

結論を棚上げする能力、宙ぶらりんを耐え抜く能力、それは「能力」だというのです。

しかもこれが「対象の本質に深く迫る方法」「相手を本当に思いやる共感に至る手立て」

だというのです。合理的に解決して結果を出し、次に進む。それこそが唯一の正しい生き方だと思いがちです。でも違うというのです。

どうして状況がマシにならないのか、なぜいつまでたっても道は緩やかになっていかないのか、いい加減にひと息つきたい!と思っていた私にとって、目からウロコのようでした。

凌ぐ、耐えるということの積極的な意味に客観的に気づかされたのでした。

と同時に、これまで凌ぎ耐えてきた道のりには、いつも神さまのまなざしがあったことにも思い至りました。やっと一山越えたと思うとすぐに次の試練が押し寄せてくる。神さまに向かって、なぜですか、もういい加減にしてください!と嘆きや怒り悲しみを祈りにしつつ歩んできました。というより、そのようにして神さまにしがみついていなくては、その時を耐え凌げなかったということだと思います。しがみつく相手として、いつも神さまはそこに居てくださったわけです。不思議なことに本の中で著者は、そこにとどまり続けるためには、「目」が必要だといいます。見守っている眼があることが大事だと。人は誰も見ていないところでは苦しみに耐えられず、ちゃんと見守っている眼があると耐えられると言います。精神科医の役割は、長期にわたって患者さんを見守り続ける眼となることだと言います。宗教の本ではないのに、語られていることはとても宗教的で、私には著者が語る「目」がまさに神さまのまなざしとリンクしたのでした。

 

 あの「時」にこの本と出合ったのは、実に神さまのまなざしが私を捉えてくださっていた証拠なのだと確信しています。神さまのまなざしは、いろんな形で私たちを励まし、支え、力づけ、癒してくださる。そのことを知っているだけで、元気が出てくるようです。

今では親仲間が耐え難い困難に見舞われてしまうとき、「とにかく凌ごう!」と声を掛け合います。私はその背景に神さまがいらっしゃることを、ひそかに強く思っています。

 

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「福音」6月号に「ネガティブ・ケイバビリティ」について書いた時、高橋望さんからとても心に迫る返信をいただきました。私自身は中途半端な理解だと分かっていたので、この望さんの実感あふれる「ネガティブ・ケイバビリティ」を紹介したいと思い、お願いして少し詳しく書いていただいたものです。読む度に、吹き始めた秋風のように清かな希望が伝わってきます。ありがとうございます。

 

 文中の、苦しみに耐えている者を「見守っている目」、望さんにとっては「神さまのまなざし」という言葉を読んだとき、若き日に読んだフランクルの「夜と霧」の一節が浮かんできました。アウシュビッツ収容所でのフランクルの体験から。

 

「私は彼女()の励まし勇気づける眼差しを見る―そしてたとえそこにいなくても―彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。・・・・収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態―このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、・・・・自らを充たすことができるのである。」 「夜と霧」124

 

やさしい目が、きよらかな目が

きょうもわたしを、見ていてくださる。

「まっすぐに あるきなさい」と

見ていてくださる。   (ともにうたおう8)