福音2013年


福音 307 201312

「平和の主」「エマオへの道」

 今朝の朝日新聞、一面の見出しは「秘密保護法案 強行可決」「武器の原則禁輸撤廃へ」。政治にも歴史にも疎くぼんやりの私でも、これには身震いがした。国会前で反対を叫ぶ声、それもテロだと押しつぶさんばかりの強行採決。これからいったいどうなっていくのだろう・・・。iPS細胞で様々な病気や障害が治っても、ロケットで宇宙旅行ができるようになっても、人間はちっとも変わらない。人間そのものは進歩も進化もしない。子供には「ケンカをしてはいけないよ。たたいたり、けったりして、ケガをさせたら大変だもの」と教えながら、人間を殺すための武器を作り続ける人間って、いったい何なのだろう。

 

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」


 先日水曜集会で学んだロマ書7章の御言葉が、全人類の慟哭のように聞こえる。

 

 平和を願わない人などいないはずなのに、愛し合って、許しあって、助け合って、みんな仲良く過ごせたらいいなって、誰だって願っているはずなのに、なぜ人は、嫌ったり恨んだり、冷淡になったり争ったり、不和の中で生きねばならないのだろう。

  「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」ヤコブ4:1

 「あなたがた自身の内部で争い合う欲望」って、私の内にいろいろな欲望があって争い合うというのもよく分からないなあと、塚本訳を調べてみると

 「君達の間の戦いは何処から(来る)か、また争いは何処からか。君達の五体の中で(いつも良心と)戦っている快楽(の慾)、其処から(来るの)ではないか。」とある。

なるほどこれなら良くわかる。私自身の中に快楽の欲、すなわち自己中心のむさぼりがあり、それが正しくあろうとする私の良心と戦っているというのだ。快楽の欲とは享楽的なものだけとは限らない。人から褒められたい、自分の思い通りにしたいなど、なるほど、私の内で良心に戦いを挑むこのような貪欲が幅をきかせている限り、私は「平和の人」ではなく「戦いの人」なのだ。それが、他の人との争いを引き起こし、ひいては戦争の原因ともなるのなら、何をおいてもまず、私自身が平和の人とされねばならない。ほんのささいなことで心の平和が壊れてしまう弱さは、誰から言われなくても自分が知っている。

 このように思いを巡らせていると、夕暮れ時、西の空に輝きはじめる金星のように、御言葉が浮びあがる。

  「実に、キリストはわたしたちの平和であります」エペソ2:14

 生まれながらに争いの人である私も、心に平和の主であるイエス・キリストをいただいてはじめて、平和の担い手となることができる。「あなたがたに平和があるように」と近づいてくださる復活のキリストだけが、どんなに努力しても得ることのできなかった平和を与えてくださるのだ。


 


 この世がすべてだと信じて励んできて、行き詰まったとき、この世ならざる天の扉が開いていることに気づいてほしい。自分が、自分で、どうにかしなければという苦しみは、「神を信じ、神に祈る」という幸いな道を忘れてしまった人間の悲惨から来るのだから。


自分の弱々しい良心ではどうしようもない現実の中で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と呻くとき、「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫ぶとき、その苦難のただ中に、キリストがいてくださる。「安心しなさい。わたしだ。恐ることはない」と言ってくださる。私たちの希望はここにある。

***************************************:


 「エマオへの道」(ルカ福音書24:1335)の続きを書こうと思っても、読めば読むほどこの箇所は、そのままを自分で読むのが一番いいのだとわかってくる。素読するのにこれほどふさわしい箇所はないように思う。


 エマオに向かって話しながら歩く二人に近づいて、「その話は何のことですか」と問われたイエス様。その問いに答えた二人の話に耳を傾けると、当時の状況、弟子たちの心の動きが手に取るようにわかる。そして、キリスト教〈キリストの福音〉とは、人がどう思うとか感じるとか、どのように考えるとか、人間の側の思想や観念ではなく、具体的な出来事なのだとはっきりわかる。「ナザレで育ったイエスという人は、行いにも言葉にも力があったが、十字架に付けられて死んでしまった。ところが三日目の朝、墓に行った婦人たちは、遺体を見つけることができず、『イエスは生きておられる』と告げる天使たちを見た。」人間がどう思うかなど全く問題にせず、ただ具体的な事実だけが言われている。後はこの事実を虚心坦懐に信じるかどうか、それは私たち一人ひとりに任されているのだ。

 イエス様は二人と一緒に歩きながら、聖書全体にわたり説明されたとあるが、「聖書」と言ってもこの当時は安息日に会堂で聞いて覚えた聖書であり、イスラエル民族だけに開かれたものだった。それが今では、創世記から黙示録まで全巻そろった聖書を世界中の人たちが読むことができるとは何という恵だろうと、それこそ胸が熱くなってきた。罪に囚われた人間は、進歩も進化もしなくても、神の歴史は確実に前進している。「御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。それから、終が来る」と言われたイエス様のお言葉が、何ともリアルに迫ってくる。


 28節〜35節まで、復活のイエス様をこれほど見事に描いた記事は他にはないだろうと思う。復活の主は、今ここにおられる。今宵も言おう。「主よ、一緒にお泊りください」



福音bR06 201311


リストマークわたしはある」「エマオへの道」


 


「わたしはある。わたしはあるという者だ」出エジプト記3:14


 モーセが神様の名を問うた時、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになった。この一言だけで、聖書ってすごい本だと思う。これは、本気で読まないといけないと身が引き締まる。神様が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたのである。「ある」というほど重要なことはない。あるかないか、それがすべてだ。


 神様がない、いない、おらないと思うと、まず頭の中がこんがらがって、何が何だか分からなくなる。何が善いことで、何が悪いか、何を求めて、どのように生きればいいのか、さっぱり分からなくなって、薄暗がりの中に放り出されたような気がする。想像するだけでぞっとする。大変だ、神様がいなくて人間だけの世の中。それがどんなに大変か!こう書きながら、思わず頷いてしまった。その大変さは想像するまでもない、この現実を見れば良い。毎日の新聞を読めば良い。文明が進めば進むほど増す人類の苦悩。一人一人の内にある恐れや不安、イラ立ち、虚しさ。神がいないから、全て人間が解決しなければならない。でも、何をやっても人間には限界があるから、どうしようもなくなると、助けてくれるはずの神(偶像)を造って拝むか、絶望して死ぬか。


 


 こんな世に、神様は救い主を与えてくださった。救い主イエス。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言って、言葉どおり病気で苦しむ人をいやし、罪に泣く人をゆるし、道端でうずくまる人に目を留め、そっと立たせてくださったイエス。出会う一人ひとりに愛の限りを尽くし、教え、導き、その後「十字架につけろ、十字架につけろ」と群衆の叫びの中で、人を罪から救うためにその命さえ捨てられたイエス。


 人はみな、このイエス様に出会うために生きているのだ。


 「わたしはある」と言われる神様が、神を「ない」として滅び行く人間に、「わたしはあるのだ」と告げるため、「わたしはあなたを愛しているのだ」と告げるため、送ってくださったイエス様。このお方に出会うために私たちは今日も生かされている。


 


 


 東京で開催された「無教会全国集会」の帰り道、新幹線の中で聖書のどこか一箇所をくり返し読もうと決めた。どこでも良かったのだが、その時はなぜか「エマオへの道」が思われて、ルカ福音書2413節〜35節を読んでは黙想し、黙想しては読み、2時間近くくり返した。他の本も持っていないわけではなかったが、その時私のうちに静かなる決意のようなものがあり、聖書を素読して、その記事の中でイエス様と出会えるか、実験してみようと思ったのだ。というのは、「伝道と家庭集会」という分科会でみんなと話し合ううち、「集会に来た人に聖書の講話をしてもなかなか解ってもらえない」という悩みを話される方あり、「イザヤ書のように難しいものをどのようにして学んだのか」と問われる方あり、一方「聖書は学者や専門家のために書かれたものじゃない。ごく普通の人が読めるものだ。聖書の言葉に聞くのだから」と言われる方あり。また「主題講演」で「聖書の言葉こそイエスと出会うためのコンタクトポイント、イエスの霊的実在を感じるための場所である」と言われたのが印象的で、もし私がこの拙い「福音」を書き続けようとするなら、そこしかない、聖書の言葉で出会ったイエス様を書くしかないと分かったからだ。


  新幹線の中、注解書も聖書講話も、読み比べる数々の聖書もない。あるのは新共同訳聖書だけ。


 


 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」ルカ24:1314


 まず、「ちょうどこの日」とあるが、すぐ前の記事を少し読めば、イエス様が十字架で死なれて三日目。六十スタディオンというのは、聖書についている付録の換算表からすれば約11キロ。エマオも、付録の聖書地図を見ればエルサレムとの位置関係もだいたいわかる。聖書って、ちゃんと付録まで付けてくれて、親切だなあと思う。「この一切の出来事」とは、19節〜24節に詳しく書かれているが、次になんと


 


 「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」24:15


とある。ずっと以前テレビで、独立学園の紹介番組だったろうか、司会者が「聖書は誰が読んでもわかりますか」と問うたとき、鈴木弼美氏が「はい、キョシンタンカイな心で読めば誰にでもわかります」と答えたのがとても心に残っていた。キョシンタンカイって、心を虚しくして淡々と読んでいけばいいんだって独り合点していたが、今辞典を調べてみると「虚心坦懐」とは「先入観を持たず、広く平らな心」とある。なるほど、聖書の言葉は先入観を持たず、素直な広やかな心で読むとわかるのだ。新幹線の中で、私の心が虚心坦懐であったかどうかは知らないが、「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」という言葉に聴き入っていると、イエス様が近づいて来て、二人と一緒に歩いておられるのが目に浮かぶようだった。


 


 「しかし、二人の目は遮られれていて、イエスだとは分からなかった」24:16


これだ、これがいい。人は何でも直ぐに分かりたい。でも、本当に分かるために、分からない時が必要なのだ。


 


 「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。」24:17


このイエス様のお言葉を思っていると、胸が熱くなってくる。イエス様って何というお方だろう。決して一方的にご自身を宣言されるのでなく、近づいて来て「その話は何のことですか」と問われ、暗い顔をした二人の話にまず耳を傾けられた。語るより先に、耳を傾けて聞こうとされるイエス様を思っていると、♪いつくしみ深き友なるイエスは♪と、なつかしい思いがこみ上げてくる。


 エマオへの道は後半が圧巻!それは来月に。



福音 bR05 201310


リストマーク信仰・希望・愛


「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」1コリント13:13


 


 心を静めてこの聖句に聴き入っていると、世界が明るくなってくるようです。こんなちっぽけな、明日の命も分からない無力な人間が、永遠なる神様を信じることができるなんて。これが奇跡というものだ、信仰とは神様が与えてくださるものなのだと、心底思います。


 


 与えられるものなら、求める他ありません。どんなに頑張っても自分の力で信仰を持つことはできないから、「神様、あなたを信じる信仰をください」と祈り求めます。イエス様が「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさい、と教えてくださったように、そして今日の糧を今日いただくように、今日生きるための信仰を今日いただいて生きていく。それでいいのだと思うと心が軽くなって、明るくなってきます。これからどうなるのだろう、自分にも、日本にも、世界にも暗い悲惨なことが待ち受けている、食べ物もなくなるかも知れない、私の信仰だってどうなるか分からないなど考えていると、心は暗く沈むばかり。でも、イエス様が言われるのです。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と。今日生きるための信仰を今日いただいて、神様の御愛を信じて、すべて必ず善くなると信じて生きていく。そのような信仰は決してなくならない、いつまでも残るとあるのです。天から喜びの風が吹いてくるようです。


 


 「神は愛です」とよく言われますが、その御言葉はヨハネの手紙1の4章にあります。7節〜21節「神は愛」という箇所を読んでみました。


 


  愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。


 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。


わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。


 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


 


 この箇所をくり返し読んでいると、愛についておぼろげにわかってきます。


 神は、私たちが生きるためにイエス様を与えてくださった、それが愛だとあります。美しい草花も、秋の訪れも、輝く星も、神様の創られたものはみな、神の愛を語っています。でも、それ以上の愛があることを、イエス様のご生涯が語ってくれます。私たちに代わって十字架につき、罪をあがなってくださったイエス様こそ、神の愛の結晶なのだと知らされるのです。


 


 神の愛の内にあるなら、「裁きの日に確信を持つことできます」とあります。「愛には恐れがない」とは印象的な言葉ですが、恐れるのは神の愛を知らないからだと言うのです。 


   ♪恵は わが身の 恐れを消し 


     任する心を 起させたり


とアメイジング・グレイスの歌詞にもあるように、神の愛、恵そのものであるイエス様を一心に思っていると、いつしか恐れも消えて、すべてをお任せする心が与えられるのだから不思議です。


 


 「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」


 と、最後にあります。この言葉が、一切の愛の幻想を壊してくれます。いくら愛について考えたり理想を語ったりしても、自分の具体的な心の動きを見ればその醜さ、汚さに呻くことが度々です。でも、そんな現実の自分、愛の戒めなどとても守れない自分を知らされるからこそ、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」というイエス様のお言葉が骨身にしみて、「愛は神から出るもの」という御言葉に救われるのです。


 「神様、あなたの戒めに背いてやまない私を赦しくてください。そして、あなたの愛をください」と祈ります。この祈りが退けられたことは、ただの一度もありません。



福音 bR04   2013年9月

                    リストマーク神の戒め

 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も 広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。 マタイ福音書7:13.14

 イエス様ってすごいなあ・・・と感嘆する。こんな言葉が語れるのは、ご自身が命そのものであられるイエス様をおいて他にない。

 門、道、命、これら三つとも「わたしは門である」「わたしは道である」「わたしは命である」とイエス様ご自身が(ヨハネ福音書で)言われているが、ここではそれをあえて「狭い門」「細い道」と言われたのは、自然のままの人間は命への道を避けようとするからだろう。「それを見いだす者は少ない」とあるから、人には命への道は隠されていて探さないと見いだせないと言うことかも知れない。どちらにしても、人がイエス様を避けようとし、イエス様が隠されているというのは、本当だ。

 人間は自分勝手に生きたいのだ。神の戒めに聞き従うなんてまっぴらなのだ。私だってそうだった。でも、自分勝手に生きても心は虚しく、自由でも何でもなかった。虚しさが極まった時、狭い門から入ろうと決心し、細い道を歩み始めた。そして分かった。あの虚しさは、神様のいない心の状態であり、それが罪というものなのだと。

 そして、神の言葉である聖書を学び初めて、聖書がいかに奥深いものであるか、ますます感動するようになった。今の私に開かれているのはほんの表面で、でもほんの表面でさえこんなに素晴らしいのなら、その奥はどんなだろうとワクワクしながら、飽きもせず毎日聖書を読み続けているというわけである。


 先日から数人の人と共に、再び「ローマの信徒への手紙」を学び始めた。今週は、1章24節〜32節が私の担当だったので、関根正雄著作集「ローマ人への手紙講解」を何度も読んだ。何度でもくり返し読まずにはおられないほど感動したからだ。と言っても、ロマ書1章24〜32節というのは、決して、読んでうれしい箇所ではない。ともかく人間のありとあらゆる罪について書かれているのであって、以前ある人から「途中で息苦しくなって、とても最後までは読めなかった」と聞いたことがある。しかし、聖書で言う「救い」とは「罪からの救い」なのだから、罪について少しでも深く正確に学ぶことは本当に大切なことなのだと改めて知らされた。たとえば、その罪の羅列の中に「親に逆らう」と言う項目があり、その一つに関してでも私はアッと驚くほど教えられた。


 「汝の父母を敬え」というのが十戒にあるのは周知のことと思います。ところがこのことがこの頃ではあまり行われなくなりました。親に従わないということは、それ自体としても困ったことですけれど、家庭の秩序が社会の秩序、あるいは一つの国の秩序の基礎ですから、そういう社会なり国なりははなはだ危ないと言わざるを得ない。しかしここでパウロはそれを社会的な問題としてのみならず、信仰の問題としても考えていると思います。というのは、旧約聖書では父と母は神の代理としてこの地上に置かれているのであり、その父と母を敬うことがなければ神を敬うことがないと考えているからです。これは非常に深い問題でありまして、人格ということに関係します。人格というものが最小限度分かるのは夫婦の間、あるいは親と子の間です。なんといっても日常接しているのですから。だから妻を愛し夫を敬い、あるいは子供を本当に愛し、親を愛し親に従うということが最小限度出来ていないような場合には、根本的に間違っているのです。要するに人格関係が成り立つべき一番身近の場所は家庭なのです。ですから、家庭において形式的にでなしに実質的に人格的な夫婦の関係が成立しているかどうか、また子供と親との人格的な関係が成立しているかどうかということは、きわめて大事なことです。

                        関根正雄著作集18巻「ローマ人への手紙講解上」p94

 ここで言われていることが100パーセント分かったわけではないけれど、ただ「本当にそうだ」と感じる。「家庭において形式的にでなしに実質的に人格的な夫婦の関係が成立しているかどうか、また子供と親との人格的な関係が成立しているかどうかということは、きわめて大事なこと」だと。

 キリスト信仰を与えられて、かつては自分のことしか考えなかった私が、少しは他の人を思いやれるようになって、いろいろな重荷を負う人との交わりも与えられて、生活も充実して感謝だなあ・・・と思っていたのが、「父と母を敬うことがなければ神を敬うことがない」という言葉に、ドキッとした。私も私を産んでくれた母を大切にせねばとは思う。でも、神の戒めとして敬うというのとは違う。普通に考えると、戒めに従って義務として親を敬うより、自分の心からあふれて大事にすることが美しいように思う。しかし、自分の心からあふれてと言うのであれば、好きな親は大切にし、自分を苦しめた嫌な親など顔も見たくないということになってしまう。心のままにではなく、戒めとして「父母を敬え」とあるのである。

 ここがキリスト信仰のポイントだなあと思う。自分を中心において、自分の心のままに物事を判断し神の戒めに従おうとしないなら、どんな状況になっても自分という迷いや不安から解放されることはない。他なる重荷はいつか降ろせても自分という重荷は死ぬまで降ろせない。いや聖書的に言うと死んでも降ろせはしない。このどうしようもない自分という重荷(罪)を負うて死んでくださったのがキリストの十字架であり、この十字架のイエス様にすがる時、自分という囚われから解放されて真の自由が与えられる。その時、自分ではどうしても従えなかった神の戒め、イエス様の愛の戒めに、少しなりとも自由に喜んで従えるようになる。それがイエス様が私の救い主であるということであり、福音の力なのだ。


 8月24〜25日、京都桂の地で13回目の近畿集会が与えられた。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」フィリピ2:13との御言葉どおり、この13年間、背後でお導きくださった神様を実感せずにはおられない。何の力もない小さな者たちを守ってくださるというイエス様の恵みを味わい知らされただけでなく、その上に、思いもよらない、永遠に続く兄弟姉妹が与えられるなんて!あぁ、やっぱり神様は素晴らしい!


 何とうれしい秋風。

 本当にやってきたんだね、爽やかな秋。

 愛と平和に満ちた御国も、必ずやってくるね。

 さあ、今日も祈ろう。

 「御国が、御国が、御国が来ますように」



福音 bR03 2013年8月

                  リストマーク誇る者は主を誇れ


どのようなときも、わたしは主をたたえ


わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。


わたしの魂は主を賛美する。

貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。詩編34:2〜3  



 今週のクローバー集会の聖書箇所は、詩編34編とルカ福音書22章31節から。さあ、予習をしておかなければと、詩編34編を開く。まず、2節をくり返し音読すると「どのようなときも、わたしは主をたたえ・・・絶えることなく讃美を歌う」という詩人の歓喜が波のように寄せてくる。


 そして3節、「貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え」という呼びかけに、貧しい人とはどのような人をさすのだろうとふっと考えた。以前には「苦しんでいる人」というような書き込みがあるが、今回は、そうだ、貧しい人とは自分には何の誇るところもない人、誇りを持てなくなった人に違いないと思った。この世にあっては、自分に誇るところのない人は惨めである。だから、卒業式では「皆さん、この学校の卒業生であることを誇りとして生きてください」と妙な励ましを与えたりする。もちろん、人はそんな外面的なものを誇って生きていけるほど単純ではないが、それでも人と話していると、その人の誇りとするものがビンビン伝わってくることは多い。ある人にとっては仕事であり、ある人にとっては家族であり、自分の生き方そのものに誇りを持っている人もいる。それらすべての誇りが砕かれて、もう立ち上がれないほど打ちひしがれている人に、「貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え」と呼びかけているのだと感じた。


 さて、では、「それを聞いて喜び祝え」のそれとは、詩人の「主への讃美」に違いないが、もう一つしっくり来ないので他の訳を見てみた。すると他の訳はどれもみな、「主を讃美する」が「主を誇る」となっている。なぁるほど!と感動。誇りをなくして打ちひしがれている人たちに、この詩人は「わたしは主を誇って生きている。さあ、あなたにも主を誇りとして生きる道がある。喜び祝え」と呼びかけているのだ。そして4節。


  わたしと共に主をたたえよ。

  ひとつになって御名をあがめよう。と続く。


 なぁるほど!私たちは、主を誇りとするようになってはじめて、ひとつになれるのだ。それぞれの人が自分の内にそれぞれの誇りを持っている限り、本当の意味でひとつになることなどできない。そうだった、だからパウロも「誇る者は主を誇れ」と言っているのだ。その後も読み進めていくと

  主は打ち砕かれた心に近くいまし


  悔いる霊をすくってくださる。19

とあり、この詩はやはり、自分の内にある一切の誇りが打ち砕かれて、主を誇りとして生きるようになった者の幸いを歌った詩だと一人納得した。 


 次は、ルカ福音書22章31節から。最後の晩餐の後イエス様が「ペテロの離反を予告する」箇所から読み始める。


 十字架を目前にして、「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」というイエス様の深い愛のお言葉に、ペテロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と威勢よく答えた。このペテロの言葉に、あっ、これがペテロの誇りだ!と思った。それがどんなに一生懸命なものであっても、人間の誇りは神の栄光を現しはしない。もし、ペテロがこの思いを貫けたとすれば、その後、逃げていった弟子たちと心をひとつにすることはなかっただろう。


 幸いなことに、ペテロはその強い決心(誇り)を貫くことはできず、イエス様を3度も否認してしてしまう。このあたりの描写は、ルカ福音書が格別印象的だ。

 捕らえられたイエスについていったペトロは、「おまえもイエスの仲間だろう」と問われて「わたしはあの人を知らない」と3度も言ってしまう。 


  「まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」


 このペテロの姿こそ、自分につける一切の誇りを打ち砕かれて、もう、主を誇りとして生きるよりすべのない者とされた姿なのだと思った。 


 神の思いと人の思いの何と違うことか。人は誇り高く堂々としているのが好きだ。だから、ローマ兵に囲まれ、ピラトの前で項垂れるイエス様を見ると、そんな情けない者は私たちの王ではない「十字架につけろ」と叫んでしまう。十字架の上で血を流されるイエス様を見ると「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と嘲笑う。その時イエス様が十字架から降りられたなら、終わりの日に十字架に着かねばならないのは私たち自身であることも知らないで。


 ともかく、人はどこまでも誇り高くありたいのだ。さあ、しっかり勉強をして、スポーツに励んで、人の上に立つことができるように。イエス様の弟子たちでさえ最後まで「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたとある。・・・こんな人間の姿を思っていると心はだんだん暗くなる。本当に、人間の現実ばかり見つめていると生きる力も萎えてくる。


 こんな暗くなった心に、明かりを灯すすべを私は知った。 


 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われるイエス様を信じて生きること。気力が衰えても、「神を愛し、人を愛せよ」と言われるイエス様の言葉に一歩従うと、不思議なほどの心は軽く明るくなってくる。 


 それと、もう一つ、思いだすだけで心に清い風が吹いてくる人がいる。生まれてすぐお寺の境内に捨てられていたというOさん。ダウン症でずっと施設で暮らし、年をとって、今では自分で立つことも食べることも、もちろん話すこともない。でも、何の誇りも持たないそのOさんのつぶらな瞳は、夜空の星よりも清く美しく輝いている。人に嘲られ捨てられたイエス様は、今も生きて私たちと共におられる。



福音 bR02 2013年7月


リストマーク「隣人を自分のように」


 川口有美子著「逝かない身体ーALS的日常を生きる」という本を読んだ。ALSYさんと知り合って、月に一度の面会を8年以上続けながら、いまだに心の繋がりも持てず、いつも愚痴をこぼし、もうほとんど諦めかけている私に「これ読んでみたら」と、娘が持って帰ってくれたのだ。読み終えてから、再びぱらぱらページをめくると、とても読めないというか、安穏な私などが読んではいけないような、想像を絶する過酷な内容なのに、一行一行丁寧に読んでいる間は、その過酷さより、人間の繋がりの可能性というか、人が生きるという日常そのものを感じながら、それこそ引き込まれるように一気に読んでしまった。ALS(筋萎縮性側策硬化症)発症から約4年でTLS(トータリィ・ロックイン・ステイト=完全な閉じこめ状態)に。それからは眼球も動かず、一切の意思表示もできないので、発汗や顔色から何かを読み取りながら過ごした8年の日々、その母を自宅で介護し続けた川口有美子さんの記録である。このような重い内容をどれほど読みとれたかは心もとないが、「・・・家族の悪戦苦闘を描いた物語として読んでいただければ幸いです」という「あとがき」の一節に慰められ、今月はこの本から教えられたことを書こうと思う。


 読み終えてまず思ったのは、そうか、「隣人を自分のように愛する」とはこういうことだったのかと、感じたこと。


 


 先日、マルコ福音書122834「最も重要な掟」を学んだ。イエス様の言われた第一の掟「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、何も問わなくても、とうてい出来なくても、「そうか、そうだ、確かにそうです」と深く納得できる。しかし、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟には、「自分のように愛するってどういうふうに?」と、考え込んでしまう。それが、「自分を愛するように」とは「無条件に愛すること」なのだと、今回の学びで聞いてよくわかったような気がした。でも、やはり具体的にはよく分からなかった。それが、この本を読みながら、一人のTLS患者と関わる多くの人たち、ことに「患者を一方的に哀れむのをやめて、ただ一緒にいるいられることを尊び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大事に守ればよいのである」という有美子さんの言葉に、隣人への無条件な愛を実感する思いがしたのである。


 


 もちろん、一朝一夕にそのような美しい思いが生まれたのではない。母の思いや願いを尊重し、母が最後まで母らしく生きられるように全力で支えようとしても、眼球さえ動かず文字盤も使えなくなると、母が死にたがっているなら殺してあげようとさえ考えてしまう。そんな極限の苦悩の中で、「いっぱいお世話かけてごめんね でもうれしかった ありがとう」という母の遺書を読んでしまい、ならば、どんな状態になっても否定的になったり、自分を責めて余計に悲しんだりしないで、母の身体を生かし、面倒をみることに専念すればいいと思えたのだ。それが、「ただ一緒にいられることを尊び、蘭の花を大切に育てるように大事に守ればよい」という表現となったのだと思う。


 隣人を愛するとは厳しいことだと思う。自分のことなら、お腹がすいたら食べて、疲れたら横になるという当たり前のことも、それが隣人のこととなるとほとんど気づかない。愛するには「想像力」と「注意深さ」が必要だというが、ともかくこの本を読んで、周囲の愛がなければ一時も生きることのできない人を8年もの間生かし続けた、文字通り「自分を愛するような隣人への愛」を感じたのだ。いったい私は、そのような思いで人を愛したことがあっただろうか、と。


 


 わたしのそばにいる魂が 傷つき悩んでいるのに


 もしそれを読み取るだけの思いやりがわたしになくて


 無関心のままでいるならば


 その時わたしは カルバリの愛をまったく知らない


 


 もし多大の努力が要求されるという それだけの理由で


 他人の最善を考え 努力することをためらうならば


 その時わたしは カルバリの愛をまったく知らない 

                エミー・カーマイケル


 


 この本を読みながら、Yさんのことを少しはよく理解できた思いがする。単にYさんの性格だと思っていたのが、ALS特有の気難しさであったり、そのせっぱつまった状況では、人は自分の罪や赦しについて考えるより、今日を生きるための助けを求めてしまうのだということも。有美子さんが、人との対話ができなくなった母も「神様とならいつまでも対話できるかもしれない」と思って、信頼できる人にキリスト教の話をしてもらっても、肝心な罪の話になると母は受け入れなかったという。私も、人に分かってもらえなく辛い思いをしているYさんに何より必要なのは祈りであり、イエス様との対話だと思ったから、どうしても神様の愛を伝えたかった。でも、彼女ははっきりと言った。正確には、頬に当てたセンサーで、アイウエオ表から一字一字選びながら「わたしは かみのあいより ひとのあいを しんじる」と書いた。


 だが、Yさんがどんなに神様を拒もうと、Yさんが私の隣人であることに変わりはない。イエス様は、「神を信じる人を愛しなさい」と言われたのではなく、「隣人を愛しなさい」と言われたのである。隣人を愛するとは、何と深遠な、何と尊い戒めだろうと気が遠くなる思いがする。


 


 何の意思表示も出来なくなって、それでも呼吸器をつけて生き続けることがどういうことなのか、私には何も分からない。ただ、安息日に病人を癒すことを許さなかった人たちに対して、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかけられたイエス様の言葉だけが思われる。善とは命を救うこと、悪とは殺すこと、これは私の思いなどではなく、神の言葉なのだ。この世に、その存在を否定されて良い人など一人もいない。隣人を愛するとは、まずその人の存在を肯定することなのだ。そして、私たちが与えられた隣人一人一人を大切にして歩むなら、「何事もそうでしょうが、当事者は運命には逆らえません。ただ運命の好転を信じて助けを求めれば、前方に視界が開けていきました」という有美子さんの言葉は、きっと私たちの現実になるだろうと、表紙の真っ赤な夕焼け空が語っているようだった。



福音 301 2013年6月


リストマーク「わたしは主、あなたの神」小さな聖書集会 


 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。


あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。  (出エジプト記20:23) 


 聖書には旧約聖書と新約聖書がある。二つで一冊の聖書となっているが、それを一本の木にたとえると、旧約が根っこの部分で、新約が幹、枝、青々と繁る葉っぱなど地上に出ている部分。一人の人にたとえると、ヘソから下とヘソから上。どちらにしても、旧約と新約、一つだけではいけない、二つ合わせてキリスト教の聖書なのだと教えられた。聖書を読む前は、そんなものかとぼんやり思っていたけれど、少しずつ学んできて、確かに旧約と新約は一つ聖書であって、そのどちらも無くてならぬ神の言葉なのだと、日々感動するようになった。


 そして、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」という、この十戒の第一の戒めこそ、旧約も新約も貫いて、神が神であり、人は人であるという、すべての基となる御言葉なのだと今、強く思う。


 新約聖書では、イエス様が「わたしを見た者は、父()を見たのだ」「わたしと父とは一つである」と言われているように、神様はイエス様によって御自身を現された。このイエス様こそが、神を知らないままにこの世の奴隷となっていた私たちを、神の国へと導き出してくださるのだ。イエス様の十字架の死によって罪赦され、この世から導き出された者は「わたしは主、あなたの神」という慕わしい御声に絶えず耳を傾ける。そして、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めに込められた、量り知ることのできない神様の愛に打ち震えるのである。


 


 ☆聖書を読むこと、祈ること、主イエスと共に歩むこと☆ 小さな聖書集会 


  昨日は、3人で「士師記」15章と、「ヨハネの黙示録」1章を読んだ。4人で読む予定だったが、一人は体調不良でお休み。2人でも、3人でも、ともかく読み続ける。


 用意してくださったテーブルにつき、窓の外を見ながら、きゅうりが伸びてきたねえ、あれはゴーヤ?と二言三言、言葉を交わしていると「ホーホケキョ」とウグイスの声。緑の光に包まれて、ウグイスも共にまず賛美を。


 次に、聖書輪読。聖書の深い内容が分かろうが分かるまいが、少しでも分かりたいと切なる願いをもって集まるとき、私にはひとつの確信がある。イエス様を求めて、他の何でもなく「イエス様ご自身」を求めて集まって空手で帰されることは決してないということ。


 「神様、今日は本当に美しい日です。さわやかな風、いっぱいの緑もありがとうございます。でも、私の心は今日の日のようには、晴れやかではありません。そのことはあなたがご存じです。でも、あなたはこうして聖書を読むために、3人集めてくださいました。聖書から、今日も大切なことを教えてくださると思います。ありがとうございます」と、姉妹のひたむきな祈りに胸打たれつつ、「主よ、お教えください」と心で祈りを合わせる。 


 士師記15章14〜15節


 サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。彼は、真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した。                 

ここを読んで新聖歌380番を思い出し、再び賛美を。


  人に捨てられて 塵の中に 埋もれてありし ろばの骨も


  主に見出されて 引き上げられ 力ある御手の 中にぞある


    ろばのあぎと骨(あご骨)そはわがこと ろばのあぎと骨 そはわがこと


  主よ手に握りて 用い給え 悪魔に勝利を 得る時まで


 


そうなのか、ろばのあご骨のように捨てられた役に立たないものも、主の霊に満たされたサムソンの手にかかれば、どれほど豊かに用いられることか。


  骨には戦う 力あらず 力は用いる 主にのみあり


  見よ主の手にある あぎと骨に 倒さるる敵の 数多きを


と歌いながら、ほんとうに取るに足りない私たちも主がお用いくださるなら、悪魔に勝つことだってできるのだと知って、自分の無力を嘆くまい。愚かさゆえに諦めまいと3人で励ましあった。


 


 「ヨハネの黙示録」は私たちにはとても歯が立つまいと思いつつ、それでも「求めよ、さらば与えられん」との御言葉に励まされて1章を輪読。その後、榎本保郎「一日一章」を読んだ。いつも教えられることの多い本であるが、黙示録1章は特によく分かった。 


 「黙示録は再臨の主と新しい天と地とを待ち望みつつ書かれたものである。それは必ずやってくるものであって、架空のものではないという信仰は、キリスト教信者の冒険というか、それを信じているから、キリスト教信仰がある。だから、今の世界をなんとかよくしていこうということを、キリスト教信仰の目的のように言いだすと、それはキリスト教信仰、聖書の信仰からそれてくると思う。今の世界は不完全な世界であり、完全な世界は神によって来るものである。だから私たちは神が来られるように祈り、信仰生活をしなければならぬ。『マラナタ(われらの主よ、きたりませ)』『主よ御国を来たらせたまえ。』神様、早くあなたが支配する世界をきたらせてください・・・・・」


 


 他にも、「わたしはアルファであり、オメガである」との御言葉の恵みも、深く教えられ、ご自身を求める者を決して空手で帰されることのない主の真実に感謝を捧げた。 


**************************************


 イエス様を信じると何か良いことがしたくなる。誰に言われなくても、神様のため人のために何かできることはないかと、少し焦ったりする。でも、どんな良いことをしようとしても、それをするのは所詮この自分である。忍耐強くもなく、情け深くもなく、その上に理性的でもない。どんな美しい動機で始めようと、美しくあり続けられるはずがない。どんな愛に満ちた思いも、いつまで続くはずがない。もし、良いことをするのがキリスト教信仰の証だとしたら、クリスチャン失格は言うまでもない。でも、クリスチャンの目的は、良いことをすることではない。良いことのできない情けない者をも捨てないで、「われに従え」と言ってくださるイエス様についてゆくことである。どこまでも、何があってもイエス様が罪を贖ってくださったと信じ、「愛しなさい」との戒めを守ろうと務めることである。主よ、何があっても投げ出さない、あなたの愛を与えてください。



福音 300 20135


リストマーク「神の愛」


 


  どうか、主が、あなたがたに


   神の愛とキリストの忍耐とを


    深く悟らせてくださるように。 Uテサロニケ3:5 


 


 イエス様を見ていると、神様の愛が見えてくる。目に見えるものがすべてだと思っていたのに、その見えるものの背後に、神様の愛が大空のように限りなく広がって、すべての現実も、実はその愛の中にあるのだとわかってくる。


 先日、徳島で四国集会があり、北田さんの伴奏、奥様の指揮で、みんなで「ふるさと」を歌った。お年寄りを訪ねると声を合わせてよく歌う歌なのに、今回は ♪うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川♪ と歌い始めると、幼い日に遊んだ土手の草や、そこを吹いていた風や光が思い起こされて、あんな幼い頃から神様に愛されていたのだと涙が溢れてきた。この世での人の境遇は決して平等ではない。でも、両親や家族から愛情いっぱいに育てられる子供も、生まれた時から施設で「僕にもお母さんっているの?」と問う子供も、目に目える状況は一人一人違っても、みんなみんなこの神様の愛に包まれて育っているのだとわかって、ますます涙が溢れた。そして3番、♪志をはたして いつの日にか 帰らん 山は青き ふるさと 水は清き ふるさと♪ と歌ったとき、ああ私が帰っていく天の国とは、想像もできないような光り輝く世界ではなく、谷川がさらさらと流れ、緑の木や草がそよ風に揺れて光っている、あの素朴な単純な世界かもしれないと、ふと思った。


 


 マタイ福音書18章に「『仲間を赦さない家来』のたとえ」というのがある。ある家来は王様に1万タラントンの借金があり、それこそ首をくくる他ないほどの額なのに、憐れみ深い王様はそれを全部赦してくださった。ところがその家来は、仲間に貸した百デナリオンも赦さず、仲間を牢に入れたので、そのことが王様の耳に届き、結局、家来も牢に入れられてしまう、という話である。王様は神様、家来は私たち。このたとえのポイントは「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」という、赦しの大切さであるが、このたとえを読むたびに、特に印象的なのは、その借金の額の違いである。塚本訳では1万タラントンは3百億円、百デナリは五万円。私たちは、神様には三百億円の借金(罪)をがありそれに比べると人に借していても、それは高々五万円。赦しの大きさとは愛の大きさである。私たちは神様から無限大の愛で愛されており、人の愛(五万円)をどんなに寄せ集めても、神様の愛のひとしずくにも足りないというのである。この世で良い家族、良い友人といっぱいいっぱい恵まれ、人から羨ましがられても、その愛の額はせいぜい百万円ほど。この世では不運の連続であってたとえ人から愛されたことがない人がいても、神様の無限の愛を知ったら、すべての嘆きは吹っ飛んで、自分こそ世界一の幸せ者だとわかるだろう。神様の愛の結晶であるキリストの十字架と復活こそ、わが喜びの全てでありたい。
 ________________________________ 


「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。


 そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」ヨハネの手紙13:16 


 ほら、車で走っていて、ちっとも信号にかからないで、青、青、青ってこともあるように、今日は何と祝福された日だろうと思うほど、ぐんぐんうまくいく日がある。ところが、少し走れば赤、また赤、ついてないなあって思う時があるように、その日はついてない日のはずだった。


 肩はこるし疲れてるけれど、今日しかないとIさんを訪ねて、車椅子を押して買い物、家々のお花を見ながらの散歩。1時間ほど歩き続けて、公園でハトにエサをあげて、一緒に十分楽しんだと思っていた。後はお部屋に帰って、手をとって祈り合い、「じゃあ、また来月」と言えば、「ありがとう。運転気いつけてな、主人によろしくな」と見送ってくれて、青、青のはずが、老人住宅に帰って隣の人に出会うと、Iさん「コイツはアホやで、ほんまにイヤなヤツや、アホや」と言った。「アホ、バカ、嫌なヤツ」は確かにIさんの口癖だったけれど、訪ね始めて5年、10年と経つうちに「あいつアホや、でもアホって言うたら、あんたが嫌がるから言わへん」と照れ隠しに笑うようになっていたのに、この赤信号はいったいどういうこと。あまりにもがっかりして、それでもいつものように祈り合っての帰り道、これはどういうことかと考え続けた。


 人は心が満たされない時、不平や不満を言い悪いことが目につく。でも、愛で満たされているときは、何もかもよく見えるものだ。だとすると、今日の散歩を楽しんだのは私だけで、Iさんの心を満たすことはできなかったのだろうか、いや、「ありがとう、ありがとう」と嬉しそうにくり返す彼女の言葉に嘘のあろうはずもない。だとすると、Iさんは楽しい時を過ごしても、なおも人の悪口が言える人なのだ、とため息をつきそうになったその時。「わたしはあなたのために命を捨てた」とイエスのお言葉に、はっと気づいた。私だって、イエス様にこんなに愛されているのに、まだ不足があるかのように文句をいうではないか。人の欠点や間違いが大きく見えて、口にしてしまうことだってある。ああ、あのIさんの姿は私自身なのだ。どんなに愛されても、どんなに満ち足りても、なおもイエス様のご愛を踏みにじってしまう。こんなIさんや私に「それでも、わたしはあなたを愛している」と言ってくださるイエス様のご忍耐を思って、涙がにじんだ。「アホや、イヤなやつや」の赤信号は、こんな私たちを愛し続けてくださるイエス様の血潮の色だった。 


 青、青、青の日はうれしい。どうしてこんなに祝福してくださるのですかと、賛美と感謝は自ずとあふれる。でも、この私が本当の自分を知るために、罪赦されなければ今日という日を喜んで生きることさえできない者だと知るために、神様は赤信号を備えていてくださるのだ。赤を無視して前進すればきっと大事故になる。赤だと気づけば立ち止まって、「わたしはあなたのために命を捨てた」と、愛のみ声を聴かねばならない。そうなのか、イエス様の愛に立ち返るための赤信号、ならば、赤、赤とついてない日もまた、祝福に満ちた日なのだと、うれしくなって目を上げれば、


♪ほむべきかな 御名によりて 受くればものみな 良からざるなし♪(新聖歌174


との賛美が、天にも地にも響きわたっていた。



福音 229  2013年4月


リストマークエレミヤ書31章から :祝福し合うこと 


 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、


 見えない事実を確認することです。へブル11:1 


 4月7日、主日礼拝の聖書箇所は、エレミヤ書31章。1節から40節まで続く希望に満ちた御言葉一節一節に聞き入りながら、それらの御言葉の流れの底に、このへブル書11章1節の御言葉が音も立てず流れているのを感じていた。31章だけではない、おそらく聖書のどこを読んでもこの御言葉は静かに、一番深いところを流れている。そして、このような信仰にすがりつつ聖書を読むとき、御言葉の一つ一つが現実のできごと以上に深い喜びとなり、力となるのを知るのである。 


 「そのときには、と主は言われる。」エレミヤ31-1 


 そのときがある、必ずある、と思うと何とも言えない喜びがこみ上げてくる。旧約聖書に記される代表的な「そのとき」は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、指導者として立てられたモーセによって、約束の地に導き上られたとき。それから1000年近く後、神に背き続けてついに捕囚の身となったイスラエルの人々を、その追いやられた国々から再び約束の地に導き上られたとき。


 聖書全編を貫いている、なくてならぬときがある。罪によって囚われの身となっている私たちを救うため、イエス・キリストがこの地上に人として来られたそのとき。再びこの地上に来られて、人と宇宙万物を完成されるそのとき。


 「初めに、神は天地を創造された。」で始まる聖書は、「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」と、キリスト再臨の約束と待望によって終わっている。幼子のように、そのときを信じて待っていよう。だが、決して強くない、すぐに間違ってしまう、弱い弱い者だから、「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」という聖霊の祈りに支えられて、みなと共に祈り合いながら守られていよう。 


 「遠くから、主はわたしに現れた。


 わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、


 変わることなく慈しみを注ぐ」 31-3


 


 この有名な御言葉は、ここだけ取り出して用いられることも多い。しかし、これがエレミヤの歩んだ苦難の時代に、絶望的な状況にあって語られた神の言葉であることを知るとき、御言葉こそ闇を照らす光であると、改めて迫ってくるのを覚える。2節には、この神との出合いを「荒れ野で恵みを受ける」と記されているが、荒れ野とは、人間的な希望の絶えたところであろう。私たちがこの世に望みをおき、まだ自分に頼っているかぎり「とこしえの愛をもって愛している」との御言葉を聞くことはできないかも知れない。しかし、神様に頼るほかない貧しさの中で、一心に「主よ」とすがるとき、無きに等しい者がこのままで、とこしえの愛をもって愛されているのを知るのである。 


 「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る」 31-8 


 なんという光景だろう。人の目にはとても無理だと思われる人々が、皆共に歩いて帰ってくる。この世では、弱く力なき人はいつしか脱落する。でも、神様の備えてくださる道は、みんなで共に、賛美の声を響かせながら歩む道。かつて、苦悩の涙を流しながら歩いた道を、今は喜びの涙を流しながら歩いて来る。しかし、その回復への日々が決してたやすくはなかったことは次の御言葉が告げている。


 


 「あなたはわたしを懲らしめ、わたしは馴らされて


 いない子牛のように 懲らしめを受けました。


 どうかわたしを立ち帰らせてください。」  31-18


 


 かつて聞いたことがある。「少しくらい神様から離れたって、いつでも立ち帰れると思っていた。でも、そんな甘いものじゃなかった。いざ神様に帰ろうと思っても、一度離れた神様との距離はどんなに焦っても、自分で埋めることはできなかった」と。人は、罪の重さを苦しみの重さによって知らされる時がある。何より苦しいのは、立ち帰ろうとして帰れない、内なる罪に囚われてしまっている時だろう。そのような時、私たちの祈りは「どうかわたしを立ち帰らせてください」という呻きにならざるを得ない。そうだった。私たちはみな、神から遠い存在なのだ。そんな者を神様のもとに連れ帰るためにこそ、イエス・キリストは十字架について罪を贖ってくださったのだ。今週一週間も、その十字架の愛を忘れず♪われはほこらん、ただ十字架を と、歌つつ歩むことができますように。 


 


 その日の午後、晴れる家の義母を訪ねた。「今日は朝から、食事の他はずっと眠っておられます」と言われ、やっと起こして車椅子に座らせ、何を聞いても「わからない」をくり返すだけ。お饅頭をあげても、甘いかどうかも「わからない」と答える。終いには怒りの感情さえあらわにする義母を一人にできなくて、午後4時からの礼拝に私も共に参加させてもらった。「さあ、主を賛美しましょう」と、牧師夫妻の愛のこもった呼びかけをもって始まった礼拝、奏楽をしながら力いっぱい歌う婦人と、2、30人のページもめくれない人たちの間を回りながら「ここですよ」と優しく声をかけ続ける牧師。みな一生けん命歌おうとしている。義母はいつも大きな声で歌うのに、今日はなぜがハミング。歌詞は「わからない」らしいが、次々歌う全ての曲をハミングし続けた。そして、短い聖書のお話があって、最後に「では、いつものようにお互いを祝福しましょう。お隣の方に、前の方に、後ろの方にも、その横の方にも、5回『あなたに平安がありますように』と挨拶しましょう。」との牧師さんのかけ声で、それこそ一斉に「あなたに平安がありますように」の声が響きわたる。その時、なんと義母が私に向かって「あなたに平安がありますように」と、はっきりした言葉で言ってくれたのだ。共に手を取り合って喜んだのは言うまでもない。義母の清い笑顔が主の恵みを歌っているようだった。



福音bQ98 2013年3月


リストマーク「御言葉を求め、共に集う恵み」


 


 神様、3月になりました。庭に埋めたチュウリップの球根も急に伸びてきました。春はやっぱりうれしいです。今日は暖かくて散歩に行きたいけれど、でもその前に、この一週間の、あなた様からいただいた恵みをご報告します。「生きたと言えるほど生きてみたい」とずっと願っていた愚かな私に、このように日々お答えくださるのですから。


 3月8日、昨日のことですが、清見台集会では、


 


☆『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』


  ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ福音書19:46


との御言葉から、Hさんが「聖書を読み始めて、聖書の中に書かれている罪が、あっこれも私のこと、これも私のことって、私って罪だらけだってわかるようになった」と言われた。そして最後に「どうか私たちの心が、強盗の巣にならないように、祈りの家にしてください」と心を合わせて祈れた恵み。午後の桐が丘集会では、


 


☆「信仰には・・・・愛を加えなさい。・・・これらを備えていない者は・・・近くのものしか見え  ず、以前の罪が清められたことを忘れています」(2ペトロ1:10)


との御言葉から、Kさんが「いつのまにか自分や自分の家族のことばかり考えていた。近くのものしか見えないのは、イエス様を忘れてるってことだね」と言われ、イエス様が与えてくださった「尊く素晴らしい約束」を思い起こし、心を高く引き上げられたこと。


 3月5日、水曜集会では申命記34章から。


 


☆「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力も失せてはいなかった」(申命記34-7


との御言葉から。人が死ぬのは力が衰えたからではなく、神様の時が来たからで、その人の使命が終わったから死ぬんだねえ、と教えられたこと。


 3月4日、クローバー集会では、


 


☆「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ロマ書14:17)


という御言葉について話し合っていたとき、若いYさんが、「あっ、そしたら喜びって、何かをして喜ぶとか、何かがあって喜ぶとかじゃなくて、イエス様ご自身が喜びっていうことですか」と、輝くような顔で声を上げた。後で思い出してもうれしかったので、「何かがあって喜ぶんじゃなくて、イエス様が喜びってすごいね。これって啓示だね」とメールを送ると、「私にも啓示を与えてもらえたんだと思うと、とても嬉しいです」とすぐに返信があったこと。


 3月3日、主日礼拝はエレミヤ書2930章。長い間学び続けたかいがあって、


 


☆「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。 それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そ のとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わ たしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う であろう」(エレミヤ書29-1114)


という素晴らしい恵の御言葉に、厳しい裁きの神様の内に秘められた永遠の愛を見た思いがして、一同感謝。


 


☆創世記から読み始めたメール集会も「ハガイ書」まできて、この頃やっと、一章一章を丁寧に読むようになった。すると、斜め読みしていた頃とは違って、恵も倍増。今から2500年も前に、預言者ハガイによって語られた御言葉が、時空を超えて今も響き渡っているのを感じる。


 


  種を多く蒔いても、取り入れは少ない。


  食べても、満足することなく・・・・・


  金をかせぐ者がかせいでも


  穴のあいた袋に入れるようなものだ。1:6


 


 今の私たち日本人の愚痴を聞いているようだ。世界には食べ物もなく死んでいく子供もいるというのに、「この日本で満足して暮らすためには、原発を止めるわけにはいかない、さあ、何が何でも、もっと豊かになろう、もっと強く元気な国にしよう」と言われて、なるほどそうかとうなずいている。そんな私たちに、ハガイは今も語っている。


 


  それはなぜか(なぜ満足できないのか)、と万軍の主は言われる。


  それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに


  お前たちが、それぞれ自分の家のために


  走り回っているからだ。  1:9


 


 旧約のこの時代、神殿こそ神様が臨んでくださる、礼拝の場所であった。長く辛かったバビロン捕囚からエルサレムに帰ってきても、その神殿を荒れ放題にしておいて、自分の家のために走り回わり、自分の生活に夢中になっているなら、人は満たされることはないというのだ。旧約時代、神殿とは建物であったけれど、新約聖書では、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」1コリント3:16とあるように、「神殿が廃墟のままである」とは、私たちの心の中が空っぽで、神様を無視して、自分の満足ばかりを追い求めているということだ。神様に造られ生かされている人間は、心の中心に神様をお迎えしない限り、決して満たされることはないとハガイは告げる。


 そんなイスラエルの民に、ハガイを通して与えられた3度目の主の御言葉は、私たちにとっても言いようのない喜びである。


 


  この日以後、よく心に留めよ。この9月24日


  主の神殿の基が置かれたこの日から、心に留めよ。


  倉には、まだ種があるか。


  ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブは


    まだ実を結んでいない。


    しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。ハカ゛イ2:1819 


 


神様、この御言葉が、うれしくてうれしくてしようがありません。神の国の基、隅の親石としてイエス・キリスト様をお与えくださったその日から、私たちはみな祝福の中にいるのですね。この私も、イエス様を信じてあなたを様を心の中心にお迎えし、私をあなたの様の神殿としてお捧げしたその日から、確かに祝福は惜しみなく注がれています。それは、本当です。


 あなたにすがるより他、生きるすべを知らず、あなたの御言葉だけが私の財産。でもこんな幸いな人生はないと、心の底から思っています。神様、ありがとうございます。



福音 bQ97 2013年2月


リストマーク主にある幸い


 


  キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。ガラテヤ書14


 


 この世が善い所であったならと、きっとみんな願っている。どの家庭にも明るい笑い声があり、学校には学ぶ喜びや友情が満ち、誰もがやりがいのある仕事について、病気になっても年老いても安心して暮らせる社会を。これではまるで政治家の選挙演説のようだけれど、でも、こんな世の中になったら自殺なんてなくなるんだろうと思うと、ふっとうれしくなる。自殺だけでなく、さまざまな犯罪もなくなって刑務所なんていらなくなったら、それこそ最高!


 ところが、キリストは私たちをこの悪の世から救うために、まず、この世を善くしようとはなさらなかった。この世を変革するのではなく、そこに住む私たち一人ひとりの罪を負い十字架について、ご自身を献げてくださったのだと聖書は告げる。


 


 イエス様がこの世でどのように生きられたかは、福音書に記されている。ヨハネが弟子をやって「あなたは来るべきメシア(救い主)なのですか」と問わせた時のお答えは印象的だ。


 


  イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」マタイ1146


 


 イエス様は病人のために病院を建設しようとはされなかった。貧しい人たちのために福祉政策を徹底しようともなさらなかった。死んだ人は千の風になり、鳥になったり星になったり私たちのすぐそばにいるんだよと言って、慰める必要もなかった。


 イエス様ご自身が癒し主であり、イエス様のもとには全き幸いがあり、人間の最大問題である死を滅ぼし、人を永遠に生きる者としてくださるのだから。イエス様の内にはすべてがあると告げ、その後に、このイエス様に「つまずかない人は幸いである」という意味深い言葉が添えられている。


 


 この大阪狭山の地でも、イエス・キリストをわが救い主と信じる者が、毎週毎週、雨の日も風の日も集められて、十名足らずで日曜礼拝を守る。感動的な聖書講話が聞けるわけでもなく、あっと驚く奇跡がなされるわけでもない。いつまでたっても「変わらないよなあ」とお互いにため息をつくことだってある。でも、ただ一つ、「わたしにつまずかない人は幸いである」というイエス様のお言葉の真実だけは、私たち一人ひとりが証していると思う。なぜこうして礼拝を守り続けることができるのか、それは一人ひとりが、自分がどうであれ、家族がどうであれ、社会がどうであれ、ともかくイエス・キリストこそ救い主であり、このお方の他に救いはないと信じているからだ。すなわち、たとえ集会に数々の問題があり、また自分自身に愛想を尽かすことはあっても、イエス・キリストにだけはつまずかないで、どんな時にもイエス・キリストを求め続けているからなのだ。そして毎週毎週、何はなくとも「わたしにつまずかない人は幸いである」という、イエス様の祝福に満たされて、最後の賛美と共同の祈りを終える。


 先日の日曜礼拝では、マルコによる福音書7章を学んだ。


 


 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」・・・「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」マルコ7:1423


 


 なるほど、なるほどと深くうなずく。悪は外から入ってくるものではなく、その根っこが自分の内にあるものなら、外をどんなに改革しても、良い憲法を作り、社会保障を完全にしても、人を善くすることはできないのだ。どんな快適な家に住んでも、願い通りの仕事や結婚をしても、それでも善い心は生まれず、私の言葉や行いが周りの人を汚し続けるとしたら、がっかりだ。がっかりだと言っても現実の私は、時として、いまだに人の悪しきを思ってしまうのだからどうしようもない。


 若き日から聖書を学び続け、イエス・キリストの十字架による罪の赦しに唯一の希望を見いだし、ここにしか生きる道はないとイエス様にすがり続け、確かに、罪赦された喜びと平安に満たされて心の限りに主を賛美する者とされたけれど、「人から出て来るものこそ、人を汚す」というイエス様の御言葉は、ますます私自身に向けられているのを感じる。だからこそ、自分ではなくイエス様を一心に見つめ、自分の思いにではなくイエス様の御言葉に耳を傾け、どんな暗闇の中でも「恐ることはない。わたしだ」と言ってくださるイエス様に望みをおいて生きていく。「気を落とさずに絶えず祈りなさい」ルカ18:1との御言葉を忘れず、祈りをこそわが日々の務めとして。


 


**********************************


 


 今死を恐れている人がいるなら、愛する人を失って嘆き悲しんでいる人がいるなら、この歌を歌ってあげたいと切に思う。というのは、「主イエス、死に勝ちたまえり」という歌詞があまりにうれしくて、くり返し歌って、歌うだけでは気がすまず、ハーモニカを取り出して吹いているのです。


 


1) すべての民よ  よろこべ  


   主イエス死に  勝ちませば


   陰府のちから  はや失せて


   ひとのいのち  かぎりなし。


2) 明日をもしらぬ 世に住み 


   涙の谷     たどる身の


   悲しみも    悩みも消え   


   今は喜びに   あふる。


3) 主は栄光の   御座につき


    みつかいらは  ほめ歌う


   「主イエス死に 勝ちたまえば


   人は生くる   とこしへに」



福音 bQ96 2013年1月


リストマーク神を神として・祝福の道を


 


  この年も、


  神を神として


  生きていこう。


 


  朝、


 まず聖書を開き、


  み言葉に聴き入ろう、


  神を神として生きるために。


 


  その日が、どのような一日であれ、


  誰かを愛するチャンスを


  見逃さないようにしよう、


  主イエスに従い行くために。


 


  自分の心が怠惰になり、


  喜びも感謝も消えてしまったら、 


  「ごめんなさい」とお詫びして、


  すぐにも十字架のみ前にひざまずこう、


  聖霊を受け、


 新しい力をいただくために。


 


 この年もまた、


 神を神とするその一点に


 立ち帰り、


 立ち帰り、立ち帰り、生きていこう。


 


 


☆ 祝福を受け継ぐために 


 


 これからどうすればいいのか、どう生きれば良いのか分からない時、人は思い悩む。どんなに思い悩んでも、明日の見えない人間には何が最善なのか分からない。そんな中でどのような時も、家族がいる時も、一人になっても、元気な時も、病気になっても、それらの境遇や状況を超えて最善に生きる道があると教えてくれたのも聖書だった。


 聖書を読み始めた頃、「どうすればいいの」と心に迷いが生じる度に思い起こしたのは、ミカ書68節の御言葉だった。


 


  主のあなたに求められることは、


  ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、


  へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。


 


そうか、それでいいのだと暗唱するたびに平安を得た。新共同訳ではもっとわかりやすい。


 


  人よ、何が善であり


  主が何をお前に求めておられるかは


  お前に告げられている。


  正義を行い、慈しみを愛し


  へりくだって神と共に歩むこと、これである。


 


若き日にも、年を取っても、死ぬ間際にも、「へりくだって神と共に歩む」に勝る善きことのあるはずはなく、神様が共にいてくださるならいついかなる時もそれが最善と、この御言葉に支えられてきた。


 それからも、神様に立ち帰るための御言葉は、その都度与えられてきたけれど、今年、2013年、お正月だけは揃って帰省する子供たちもそれぞれの持ち場に帰って行って4日、さあ、これからが私の新年と心を新たに主を仰ぎ、求めた。


 


  イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。


  そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、


  わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。1ヨハネの手紙3:16


 


即座に「それは無理です、この私にはできません」と言って、「それではお前には何ができるのか」と問われた思いがして我に返り、この御言葉は、私よりも私をよく知っていてくださるイエス様に従い行くことなのだと気がついた。生きるべき時には生かしてくださるであろう、死ぬべき時には死なせてくださるであろう。思い煩ったとて寿命を一日も延ばすことのできない者が、できるもできないもあったものでない。自分の傲慢と愚かさに気づかされ、それでも今年の目標にと、何度読んでも「これだ!」と、紙に書いて貼ってしまう「新祈願」という内村鑑三の祈りの言葉を、また新たに書いて机の横に貼った。


 


  何人に対しても悪意を懐くことなく、


  万人に対して好意を表し、


  総ての機会を利用して善を為し、


  我が残余(のこり)の生涯をして


  祝福の連続たらしめんと欲す、


  神よ願わくば我がこの祈願を助けよ。


        1901年1月「聖書の研究」


 


心に悪意があるなら、神様はその人を祝福することがおできにならない。好意や善意には祝福が雨のように降り注ぎ、心はますます明るく喜ばしくなり、その喜びは回りの人にまで伝わっていく。


 


    ほんとうに


    自分の心に


    いつも大きな花をもっていたいものだ


    その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない


    他人を憎めば自ずとそこだけ腐えれてゆく


    この花を抱いて皆ねむりにつこう。


           八木重吉「明日」の最後の部分 


 


大きな花とは、人の心に咲く神様の祝福の花。どんな美しい花も憎しみや悪意によって蝕まれ腐れていく。「何人に対しても悪意を懐くことなく、万人に対して好意を表し」」心に愛の花を咲かせて、この新しい年も祝福の道を歩んでいこう。


 


  終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、


  憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、


  侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって


  祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐために


  あなたがたは召されたのです。(1ヘ°テロ3:89)