福音 №324 2015年5月

エフェソの信徒への手紙

 水曜集会で「エフェソ書」を学んだ。今までだって、何度も学んだのに、読み進める一行一行に、まるで始めて読むように驚き、感嘆し、その後、エフェソ書を通読するたびにエエッ、こんなとてつもないこと本気で信じていいんだ!と胸の高鳴りを覚える。

 ともかく、「あらゆる霊的な祝福で満たしてくださる」、「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせる」、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」、「絶大な働きをなさる神の力」、「キリストの計り知れない富」、「人の知識をはるかに超える愛」、「神の満ちあふれる豊かさのすべて」、「キリストの満ちあふれる豊かさ」など、「あらゆる」「あふれさせる」「どれほど豊かな」「絶大な」「計り知れない」「はるかに超える」「満ちあふれる」と最大級の表現が、それこそあふれているのである。この手紙の筆者パウロが、どんな思いでこの手紙を書いたか、いや書かずにおられなかったか、その息づかいさえ聞こえるようだ。

 

 1章に、まず「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とあるのだから、どうして驚かずにいられよう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」というキリストの言葉はよく知っているし、クリスチャンなら皆「こんな取るに足りない私を、主が選んでくださった」と実感していることだろう。だが、天地創造の前に、神にふさわしい聖なる者にしようと、キリストによってこの私を選んでおられたとは! もし、こんなことを本気で信じたら、主よ、主よ、と言いながらこの世にも未練たっぷりで、自分の生活や自分の都合を第一にして生きることなど決してできなくなるだろう。何たって、天地創造の前から、この私もキリストを信じて、罪赦され、聖なる者として生きるように、神様はご計画されていたというのだから。

 だったら、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とのイエス様のお言葉を聞いていながら、いまだに本気で従おうとしない私を、神様は泣くに泣けない思いで見ておられるに違いない。そんな自分の心の奥にこびり付いた汚れに気づかされ、「神様、申し訳ありませんでした。どうか、私にとって辛く、不利な人をこそ愛させてください」と、うめくように祈らされた。

 本当に御言葉の真実こそが、人を悔い改めに導くのだと実感です。

 

 エフェソ書に記されたパウロの祈りに圧倒されて、この頃は朝の祈りの前に、このパウロの祈りの箇所を読みます。

 (先月号で「さあ明日の朝から1時間早く起きて祈ろう」と書いたように、早朝1時間の祈りを実行しているのですが、ある友人からも「以前は家事が終了してから短く祈る生活におちいっておりましたが、6時を朝の祈りの時間にします。」とお便りをいただき、何だかうれしさ倍増です。私は、マザーテレサの「祈ることを愛しなさい」という言葉によって朝の祈りに立ち帰らされ、その方はアシュラムの会に参加されて、朝の祈りに導かれたとのこと。この朝一番の祈りの喜びが、5月の緑の風に乗って、多くの人に伝わっていきますように)

 

 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

 そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

 

 この一つ一つの祈りに聴き入るとき、こんな世界が私たちには開かれているんだ!と、圧倒される。祈りとは聴かれるためにある。このパウロの祈りは、私たち一人一人の上に実現するための祈りなのだ。単なる願いや理想なんかじゃない、絵に描いた餅じゃない、この祈りは、私たちがこの暗い世にあって今日を生きる力となり、喜びとなり、あふれる感謝となるために、そして「神の栄光をたたえるために」わたしたちの上に実現する祈りなのだ。

 知恵と啓示との霊が与えられて、“神様を深く知ることができるように”との祈りは、自分にとっても、家族や友人にとっても、いや世界中の人になくてならぬ祈りであろう。エゼキエル書を読んでいると、様々な苦難によって「あなたたちは、わたしが主であることをしるようになる」と50回以上も言われているが、それを読む度に、そうか、私に与えられるこの苦労もまた、神様こそ“わが主”であると知るために必要な試練なのだと、深い安らぎを与えられてきた。

 聖書では、神に背を向け、神から遠ざかることは死を意味し、神を知ることこそ命に至る道だと告げる。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 神を知り、キリストを知ること、それがすべてなのだと、一心に天を仰ぐ。

 

 わたしたちに与えられている“希望”がどのようなものであるか、天の国で“受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか”悟ることができるなら、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたと見なしています。」というパウロの告白は、私自身の告白となるだろう。

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」という、パウロの言葉は決して根拠のない言葉ではなかった。聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、その恵みを味わい知った者の言葉なのだ。

 

 “わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか”悟ることができるなら、今よりも100万倍も勇気をもって大胆に、キリストの福音を語ることができるだろう。すべてのキリスト者が絶大な神の力によって、歩み出すために、主よ、あなたの御言葉を信じさせてください。