福音 №325 2015年6月

 

コロサイ書より

 

 エフェソ、フィリピに続いて、今は「コロサイの信徒への手紙」を学んでいる。コロサイ書を読んで、またまたアッとびっくり。常日頃、少しでもイエス様を伝えたいと思っているのにちっとも前進しないのはなぜだろう、祈りが足りないからだ、霊的な賜物が与えられていないからだと、うなだれることが多かったし、それはまた、ネオンサインが明るすぎて夜空の星が見えないように、この世がきらびやかすぎて天の喜びが見えない時代のせいもあるのだろうと半分あきらめていたが、それは大間違いだと、コロサイ書の御言葉がはっきりと教えてくれた。

 

 ◆御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。                      コロサイ書1:1314

 ○現実がどんなに暗くても、人々が神の言葉に耳を傾けなくても、それでもこの世はすでに、キリストのご支配の中にあるのだ。なら、まるでキリストの力より今なお闇の力の方が強いかのように、うなだれたり、あきらめたりする必要がどこにあろう。キリストは生きておられる。昨日も今日も永遠に変わることなく、あふれるばかりの愛で支えていてくださる。

 

 ◆神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 ○この広大無辺の御言葉に打ち震えて、だからといって、どこまで分かっているかは分からないけれど、それでもともかく、「万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」との御言葉をそのまま素直に信じることは許されるだろう。どんな驚くべき御言葉であっても、御言葉は信じるためにあるのだから。

 

 ◆あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

 ○これは、本当にそうだと思う。日々の自分の心が証ししている。和解させていただいた喜びと平安に包まれている多くの時、にもかかわらず、時折その恵みを忘れて、小さなことにも思い煩い、自分を守るために心を閉じようとする。その暗さに、神様から離れていると、ハッと気づく。

 神様はキリストの十字架のゆえに、今もすべての人に和解の手をさし伸べていてくださる。だが、その恵みを知らず神様に背を向け続けるなら、やはりその人は神様に敵対したままだ。自分の人生を充実したり、楽しんだり、満足することはできても、真の平安や希望、永遠の命は決して与えられない。「その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と、素晴らしい御言葉を与えてくださっても、しかし、それを受け取るのは人であって、人が拒めば、神様は強制はなさらない。愛の性質に「愛は強制しない」とあったのを思い出す。また、「人間の罪とは、愛を拒むことです」と、遠い日に聞いた言葉がよみがえる。

 ひとたびこの神の愛を知り、神様と和解させていただき平安を与えられても、悪魔はそれくらいのことで手を引いたりはしない。ちょっとした気のゆるみにつけ込んで、どこまでもこの世のことに夢中にさせようとやっきになっている。だから、パウロは続ける。

 

 ◆ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。

 ○そのためにエクレシアはあるのだと実感する。私は神様だけで十分です、と言えるほど強い人がいるだろうか。パウロも、「わたしのために祈ってください」とくり返す。日常のほんの小さな集会でも、主の名によって集う時、主は必ず共にいて溢れる恵みを与えてくださる。信仰に踏みとどまるため、兄弟姉妹の愛の交わりをますます大切にしよう。

 

 ◆世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画・・・その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべてのひとを諭し、教えています。

 ○ええっと驚く。すべての人がキリストに結ばれて「完全な者となるように」とある。キリストを信仰して少しは良くなったとか、だんだん変わってきたよね、という程度ではない。完全な者となるようにという。ふとイエス様のお言葉がよみがえる。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」マタイ5:48 そうか、信仰の世界はこの世とは違うのだ。この世では60点の者が頑張って80点取ったら、良くやったとほめてもらえる。百点満点でないと合格しない試験なんて聞いたこともない。

でも、聖書の御言葉は割引してはいけないのであって、「完全であれ」と言われたら、「完全であらせてください」と祈らなければならない。ここまで書いて、そうかなるほどと合点がいった。

 

 ◆あなたがたはキリストにおいて、・・・キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。

 ○キリストを信じるとは、キリストと共に死ぬことであり、キリストと共に復活の命に生きることなのだ。私が頑張って完全な者になるのはない、わが内にいてくださるキリストこそ完全なお方なのだから、そのお方に生きていただくことなのだ。この自分、自分という自分に死んで、キリスト様にすべてを明け渡すことなのだ。そうか、「わたしがあなたのすべてになろう」と言ってくださったのは、そう言う意味だったのか。

 コロサイ書の恵みはまだまだ続きます。