福音 №342 2016年11月

信仰

 

「無教会は信仰だけなんです。教会なら信仰がなくなっても教会堂や洗礼記録くらいは残るでしょう。でも無教会が信仰をなくせば何も残らない。」

 40年以上も前に聞いた言葉なのに、今も折々に思い出す。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」とあるが、アベルだけでなく、信仰に生きた人は死んでも語り続けるのだと実感する。信仰は永遠なのだと。

 

 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」ヘブル11:6

 聖書を読み始めた人と一緒に、この聖句を2度声に出して読んだ。その人は最後に「神様は求める者に報いてくださるとあって、うれしいです」と祈った。3人で聖書を読むだけの集会、取るに足りない小さな集会でも、これでいいのだと思った。信仰は神が与えてくださる。人に認めてもらえるような見えるものは、なくていいのだと思った。

 

 ルカ福音書から、心に残る「信仰」

 「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」ルカ2-25.26

 シメオンは何をしたか。ひたすらメシアを待っていた。待ち望むという信仰に生きていた。信仰を行いで量ってはならないのだと教えられる。

 マリアに抱かれた幼子イエスに出会って、シメオンは神をたたえて言った。

  「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

 この僕を安らかに去らせてくださいます。

 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

 これは万民のために整えてくださった救いで、

 異邦人を照らす啓示の光、

 あなたの民イスラエルの誉れです。」

 信仰とは、この世で何をしたか、どれほど人の役に立ったかだけではない。神を信じ、神の約束を信じ、忍耐して待ち続け、その信仰によってマリアに抱かれたこの赤子こそ万民のための救い、異邦人を照らす啓示の光であると、シメオンは証した。信仰によって真理を証した。

 

 ルカ福音書には、イエス様から信仰ゆえにいただいた言葉が6つ記されている。

1)中風の人をイエス様の所に必死で運んできた4人の人たち、

その人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

2)病気で死にかかっている部下のため、イエス様に「わたしはあなたをお迎えできるようなものではありません。・・・ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と頼んだ百人隊長に

「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われた。

3)イエス様の後ろから足もとに近より、涙を流しながら足に香油を塗った罪深い女に

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

4)12年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえず、イエス様の服の房に後ろから触れた女の人に、

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

5)10人のライ病を患っている人たちが、イエス様に「わたしたちを憐れんでください」と叫び、いやされたと知ってただ一人、大声で神を讃美しながらイエス様のもとに戻ってきて、足もとにひれ伏し感謝するサマリア人に

「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。

6)道ばたに座って物乞いをする盲人は、イエス様が来られたと知って「わたしを憐れんでください」と叫び続けた。「何をしてほしいのか」と問われ「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えた時、

「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。

 

 1と2は自分ではなく、友人、部下の病気のためにイエス様にすがった人の信仰。3は体の病気ではなく、罪を赦された喜びにイエス様への愛があふれでた人。4と5と6は自分の病気や障がいのゆえにイエス様にすがったが、4はイエス様の後ろから黙って服の房に触れた時、5はいやされたことへの感謝をささげた時、6は「見えるようになりたいのです」と答えた時、それぞれイエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。

 

 聖書の話は、読めば読むほど広がっていく。一つ一つの記事が、計り知れないほど深いものだと分かってくる。どれ一つとして他人事ではなく、自分の叫びだと分かってくる。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。そうだ、私たちはみな心の目が見えないから、間違ったことばかりしている。言わなくていいことを言い、しなくていいことをして、為すべきことをなさず、すぐ側に深い悩みや苦しみを抱えている人がいても気づかない。気づいても本当のことが見えないから助けることもできない。世の中の真相が見えず、虚偽と偽善におおわれたまま、時代は流れていく。

 「主よ、目が見えるようになりたいのです」と叫び続け、目を開かれて、神をほめたたえながら、イエスに従った人の信仰を一心に思う。

 

 これも信仰の人から聞いた言葉だ。

「聖書を読んでも、最初は砂をかむように味気ないかも知れません。でもいいんです。読み続けてください。分からない中にも、一つ分かったと思う言葉があれば、その日はそこまでにして。次の日に続きを読んで、また一つ分かったと思うところがあれば、そこまで。それをくり返しているなら、きっと聖書が面白くなってくるでしょう。」

 聖書は、読む度に新しいから、生涯読み続けよう。そう、大空は一度見たから、もう見なくていいとは誰も言わないように、同じ空なのに、大空の表情は毎日違って、毎日新しい空との出会いがあるように。

神様の御業は日毎に新しい。