福音 №333 2016年2月

私たちは主のものです。

 

 「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」ロマ書14:8

 

 「まあ、66才になられたの!おめでとう。66はクリスチャンには特別なのよ。ほら聖書って、旧約は創世記からマラキ書まで39書、新約がマタイ福音書から黙示録まで27書、旧新合わせると66書。聖書完結の数なのよ。私もね、いつもは『おめでとう』なんて言わない夫が66才の誕生日にだけ『おめでとう』って言ってくれてね。不思議そうな顔をすると、『66は聖書の数だ』って言われて、うれしかった。だから、あなたにも心からおめでとう。」そう言われて、なるほどと納得。神様から、ちょっとほめられたような気がしてうれしくなった。

 さて、ところが。さあ、今日までこうして守られてきて、健康も時間も必要のすべてが与えられているのに、この私ときたらいったい何をしているのだろう。聖書聖書と言いながら、確かに聖書を学ぶことだけは続けてきたけれど、聖書を学ぶのは、その独り子をも惜しまず与えてくださった神様の愛を知って、その愛に生きるため。十字架のしるし、復活の証人として、キリストの救いを伝えるため。その伝道がうまくいかないなら、せめて愛の業に励もうとあれこれ考えてみるけれど、今までの経験から、愛とは行為ではなく心である。そうだ、愛の心があれば、何をしようかなどと考えるまでもなく、為すべきことは次々と見えてくるはず。それを頭で考えているなんて、あ~あ、神様ごめんなさい、 私はどうすれば良いのでしょう。

 

 そんなどうしようもなく情けない者でも、「主は羊飼い」と言う御言葉がふと思われて、特愛の聖句ヨハネ福音書10:27.28を暗唱する。

   わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたし  に従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわた  しの手から奪うことはできない。   ヨハネ福音書10:27.28

 

*わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。

 そうだった、一番大切なことはイエス様のみ声(御言葉)に耳を傾けること。さあ何をしようか、何が出来るかと思案する前に、イエス様のみ声を聞き分けなければ。自分の声や世間の声を第一にして計画を立てたところで、その業に愛が伴うという保障はない。愛が伴わなければ、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」1コリント13:3とあるではないか。もう一度、主よ許してくださいと頭を垂れて、主を仰ぐ。

*わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

 そうだった、イエス様は私たち一人一人をよくよく知っていてくださる。そして、その一人一人にふさわしく為すべきことを示してくださる。担うべきことがあるなら担わせて、ご自身の栄光のために用いてくださる。それがたとえ苦しいことであっても、勝利の主が共にいてくださるのだ。「あなたはわたしに従いなさい」との御声を聞く思いがして、幼子のように主に信頼して従っていきたいと、胸が熱くなる。

*わたしは彼らに永遠の命を与える。

 あっとびっくり、何も出来ていないと落ち込んで「何をしたらいいかなあ」と虚しくあせる者に、「永遠の命を与える」なんて、神様の気前よさにびっくり仰天。

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

 わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。

 天が地を高く超えているように

 わたしの道は、あなたたちの道を

 わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。イザヤ55:8.9

との御言葉はこういうことかと、心は、無限大の空を映すように広がっていく。

*彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

 「だれも、わたしの手から奪うことはできない」とは、私たちは主のものなのだ。

 

 ずっと以前のことで、それが何かに書かれていたのか、テレビで見たのかも忘れたけれど、忘れられない場面がある。長距離列車の中で、カードをしていた人が近くの席の人に声をかけた。するとその人は笑顔で「いやぁ、私は皆さんと一緒にカードをして遊びたいのですが、この私の手は、私のものではないのです。だから、勝手には使えないのですよ」と、すまなさそうに答えた。今思えばその人は牧師さんだったのかも知れないが、「この手は私のものではない」という言葉だけが、妙に心に残った。私の手であって私のものではないとは、私のすべては神様のものだと言いたいのはわかったが、なんとなくしっくりしなくて、感動するでもなく、そんな窮屈なと批判するでもなく、ふ~んと思いつつ、忘れられないでいた。「自分は自分のものであって自分のものではない」とは、キリスト教信仰の要であるようにも感じ、でも、それが具体的に日々の生活の中で実行されるとこうなるのかと思いつつ、実感にはならなかった。

 それが最近、ある本に、『ハイデルベルク信仰問答』の第一問は

 「生きている時も死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」

という問いであり、それに対する答えは

 「それは、私が生においても死においても、からだと魂の両方をもって、私のものではなく、私の信頼すべき救い主イエス・キリストのものだ、という事実です」

と記されているのを読み、「私の手であって私のものではない」という言葉に隠された深い喜び、そう言わずにはおれない心持ちが伝わってきたのだった。

「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」とは、この世に生かされている今も、死ぬときも、いついかなる時も、私たちはイエス・キリストのものだということ。ああ、やっぱり御言葉に聴いて良かった。

 

 そうだった。私には何か足りない、これではいけない、もっと何かをと焦っていたけれど、私に足りないのは「私は主のものです」という喜びと感謝だった。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」1テサロニケ5:16-19「キリスト・イエスにおいて」なのだ、 御言葉ってやっぱり素晴らしい。