主イエスに結ばれて

福音 №334 2016年3月

 

 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。

 主に逆らう者の天幕で長らえるよりは

 わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 詩編84:11

 

 先日、沈丁花が香り、クリスマスローズ、ニオイスミレ、ローズマリーの青い花たちが咲くお家に、なつかしい友が集められ、共に聖書を読み共に祈った。遠く離れていても、何十年たってもこのように繋がっていられるのは、「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」という、当日の聖書箇所であるコロサイ2章の御言葉から離れないで、一人一人がそれぞれの形でキリストに結ばれて来たからだ。40年近い年月には皆、人には分からない試練もあっただろう、ただ一人涙ながらに主にすがり続けた日もあっただろう。今もそれぞれに負うべき荷が無いわけではない。でも、現実がいかようであれ、心も身体も押しつぶされそうになっても、イエス様から離れない。いや、困難であればあるほど、苦しければ苦しいほど、悲しければ悲しいほどイエス様の御名を呼び、イエス様にすがり続ける。そのたった一つのことを止めなかったから今日の喜びがあるのだと、壁にかけられた日めくりの「喜」という字が告げてくれた。

                                                             

 コロサイ書2章をくり返し読んでいると、23節の中に20回もある「キリスト」、このキリストを知り、このキリストに結ばれて、このキリストと共に生きることこそすべてのすべてなのだと迫ってくる。

 神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。

 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。

 キリストに対する固い信仰

 主イエス・キリストを受け入れたのですから、

 キリストに結ばれて歩みなさい。

 キリストに根を下ろして造り上げられ、

 キリストの内には、満ちあふれる神性が・・・宿っており

 キリストにおいて満たされているのです

 キリストはすべての支配と権威の頭です

 キリストの割礼を受け

 キリストと共に葬られ、

 キリストと共に復活させられたのです

  キリストの勝利の列に従えて

  実体はキリストにあります

 わたしたちの人生でたった一つの過ちはこのキリストから離れることであり、キリストのもとに帰りさえすればすべての善きものがあふれるばかりに与えられるのだと、私たちは知っている。

 

  わたしの民よ、心してわたしに聞け。

  わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。

  教えはわたしのもとから出る。

  わたしは瞬く間に

  わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。  イザヤ51-4

 

 神様を信じ、イエス様の教えに従って生きる。それこそが人間にとって正しい生き方であり、幸いな人生であると聖書は告げる。神様を信じなくても幸せそうな人はいるじゃないか、イエス様に従わなくても自分なりに満足できればいいよねって、もうそんな言葉に相づちを打つわけにはいかなくなった。

 たとえ聖書の神様を知らなくても善の勝利を信じて生き、たとえイエス様を知らなくてもイエス様の教えに添う生き方をするなら、どんなにささやかな人生であっても祝福があり、時に平安とさわやかな喜びに包まれる。反対に自分はキリスト教だと宣言しても、神様よりこの世の力を信じイエス様の言葉に従おうとしなければ、神様の祝福と恵みを味わい知ることはできない。それこそ、神様が生きておられる何よりの証拠だろう。

 「わたしは生きている、と主なる神は言われる」。人が信じようが信じまいが、神様は生きておられ、国家も一人一人も正しく裁かれる。神の裁きというと恐ろしく感じるけれど、しかし、何をしても、どんな悪も裁かれないとすればその方がはるかに恐ろしい。悪が裁かれないような世界があれば、それこそ地獄だろう。神様が正しく裁いてくださると信じればこそ、私たちはこの謎のような人生も勇気をもって生きることができるのだ。

 「悪を裁いてください」と言うとき、自分は悪の側ではなく裁かれるほど悪人でもないなどと思っているのでは決してない。悪が裁かれず善も悪もない世に耐えられないように、私が悪い思いをもち、悪いことをしながらそれに気づかないとしたら、それこそ耐えられないことだ。だから悪い思いをもったら、すぐに私に分かるように裁いてほしい。悪い言動も、内なる汚れも裁かれ(神様に指摘され)て、自分の罪に一刻も早く気づかせてほしい。

そう切に願えるのは、やはりイエス・キリストに赦される喜びを知ったからだと思う。どうしようもなく汚れた心もキリストの十字架にすがって清くされ、「主よ、助けてください」「お救いください」と叫ぶ者が捨てられることは決してないと、十字架の愛を信じたからだと思う。

 

 あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。・・・・しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:1-8)