福音 bR36 2016年5月

 

1コリント13章「愛」

 

 連休を利用して、ここ数年認知症の症状がひどくなったという叔母を訪ねた。高速を走り続けて8時間ほどかかる道々、次の日には、近くの海岸を巡ったり小高い丘に登ったりしながら、色々なことを考え思いめぐらし、ついに御言葉が与えられた時、聖書を読んでいて本当に良かったと思った。確かに、聖書の中にはすべての答えがある。でもそれは普段は隠されていて、Aの答えはこの聖句、Bの答えはあの聖句、というような訳にはいかない。読む度に感動して暗唱までした聖句が、ある時、そうかこれが答えなのだと自分の御言葉となり、隠された宝を発見したような喜びに包まれる。「自分で食べて、自分で味わえ」コヘレト2:25。聖書を日々自分で読むことの恵みは計り知れない。

 

  あれほど働き者だった叔母が自分では何も出来なくなって、私のこともよく分からなくて、それでもうれしそうに独り言のようにしゃべり続ける姿を見ると、 やはり人間のもろさ、危うさについて考えてしまう。叔母のことだけでなく、ここ数年の内に亡くなった両親や叔父や伯母たちのことも思われて、人は自分の蒔いたものを刈り取って死んでいくのかも知れないと、ふと思う。「人は生きたように死んでいく」とも言う。「死ぬ前の10年間が本当の人生だ」と聞いたこともあるが、それならどうなのだろう。もちろん、どの人の人生も、他の人と比べたり、決して批判したりすべきではないけれど、でも「みんな違ってみんな良い」「それぞれにかけがえのない人生、どの人生も皆尊いのです」と簡単に片づけたくもない。

 次々と浮かび上がる思い、ああでもない、こうでもないと考え続けていたとき、それこそ天からの声のように

  愛は忍耐強い。

  愛は情け深い。

  ねたまない。

  愛は自慢せず、

  高ぶらない。

  礼を失せず、

  自分の利益を求めず、

  いらだたず、

  恨みを抱かない。

  不義を喜ばず、

  真実を喜ぶ。

  すべてを忍び、

  すべてを信じ、

  すべてを望み、

  すべてに耐える

と、第1コリント13章に記された「愛」がくっきりと示された。あの人の人生、この人の人生を思い、さて人はどのように生きるべきなのかと思い惑う者に、しびれをきらしたイエス様が、「わたしはたった一つの戒めを与えたではないか。愛せよと教えたではないか。わたしの言う愛とは、これではないか。」と、御言葉の扉を開いてくださったのだ。

 

 1コリント13章の愛は、12章31節「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」という言葉に続いている。わたしたち人間の歩むべき道、最高の道、それが愛の道だと告げる。

 人は多くの場合自分の人生を選べない。どの時代に、どこの国に生まれるか、どんな親から生まれるか、どれほどの能力を与えられているかなど。また、全く思いがけない事故や災害、遺伝的な病気など、人の努力でどうにもならないことも多い。それでも、どんな境遇でも、どんな状況でも、誰にでも選べる道がある。聖書の教える最高の道、愛の道を人は選ぶことができる。そのことを自分で考えたり選んだりすることのできない赤ちゃんや、重い知的障がいの人たちは、自分で選ばなくても、きっとすでに、神様の愛の道に入れられているのだろう。

 人は自分の人生を選ぶことができる、と強く思ったのは、「態度というものは、事実よりはるかに重要だ」という言葉に出会ったときだった。私たちに起こった事実は事実として認めなければならない。しかし、その事実に対する態度を、私たちは選ぶことができる。

どうすることもできない事実を前に、神様の備えてくださった道を選ぶという自由が、私たちには残されている。誰だって、どんな絶望的な状況にあっても、人は1コリント13章に示された愛の道を選ぶことができる。

 もちろん、ここに示された最高の道、愛の道とは、私たちが愛を実践しながら生きる道だと言っているのではない。真実の愛など私の内にひとかけらもないと、愛の道ほど私からかけ離れた道もないと、よく知っている。今日一日、美しくありたいとどんなに願っても、決してそうあり得ないことも、よくよく分かっている。でも、失望はしない。聖書は愛を説くだけではない、そんな愛で、あなたは愛されているのだと告げてくれるから。1コリント13章の愛は神様の私たち人間への愛、キリストの愛なのだと知ったから。このキリストの愛で愛されて、キリストに支えられて、キリストと共に歩む道だと知ったから。

 1コリント13章の愛を見つめていると、自分はすべて正反対であり、罪人だということが嫌でも見えてくる。灰色や黒っぽい布では見えなかった汚れが、真っ白い布の中ではくっきりと浮かび上がるように。この愛の中に入れられて、 

 人は「皆、罪の下にあるのです」

 「正しい者はいない。一人もいない。」

 「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

という御言葉を、誰が否定できるだろう。私は正しい、私は愛の人だなどと、誰が言えるだろう。そんな絶望的な私たちに救いの道を開くために、愛し得ない私たちを愛するために、神は人となって来てくださった。そして、

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

と言ってくださるイエス様は、十字架の上で

 「父よ、彼らをお赦しください。」と祈って、私たちの罪を負うて死んでくださった。

 目の前の現実がいかようであれ、どのような事実の前にも、私たちはこのキリストの備えてくださった愛の道、最高の道を選ぶことが許されている。キリストの愛を知って、そのキリストの愛に応えて生きようとするなら、どの人生も「みんな違ってみんないい」。