福音 №340 2016年9月

真の幸い 神の家族 福音の恵み

 

 聖書の言葉が本当だと分かるには時間がかかる、ことが多い。イエス様の言葉が、本当に本当だと分かるために、この世での人生があるのかも知れない。

 

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」ルカ11:27.28

 

 多くの人の伝記は、その人の両親や生まれ育ちの記述からはじまる。イエス様の場合も例外ではなく、マリアとヨセフの子でありダビデの子孫であると告げている。だが、イエス様の言葉を注意深く読めば、人間の幸い、福音は、それらの個人的なこととは関係ないのが分かる。ここでも、「あなたのように立派な息子を産んだ母親は、何と幸いなことでしょう」と、肉親関係をうらやましがる女に、(思わずこう叫んだ女は、できの悪い息子を持って苦労していたのだろう・・と学び、なるほどと思った)イエス様は、真の幸いとは「神の言葉を聞き、それを守る人である」と告げられた。

 イエス様の言葉の何とシンプルなこと。幸いであるためには、この世のさまざまな条件など何一ついらない。ただ一つ、神の言葉を聞きそれを守ること。それが幸いなのだと言われる。

 

 「神の言葉を聞き、それを守る」という言葉を、善い行いに励むことだと勘違いしてはいけない。人間的な善い行いが出来るかどうかは、生まれや育ちとも大いに関係があるだろう。善い行いができる人が幸いだというなら、条件付きの福音でしかない。しかし、これも聖書を注意深く読めば分かることだが、人には罪があって、完全に神に従える正しい人など一人もいないとある。先日の近畿集会でロマ書12章を学んだが、この12章に書かれていること、「私すべてOKです」なんて言う人は一人もいないだろうし、もしいたらイエス様から「自分を過大に評価してはなりません」と叱られるに違いない。「神の言葉を聞き、それを守る」とは、神様がこの世にお遣わしくださったイエス様を信じること。あとはすべて、イエス様がさせてくださる。

 

 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。ルカ8:19-21

 

 神様を天の父とする神の家族が、もしこの世の血縁やつながりの延長線上にあるのなら、本当の福音(良き知らせ)ではない。福音が真に福音であるためには、この世の人間関係はすべて一度断ち切られ新しくされねばならない。

 マタイ福音書では、弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とあり、マルコ福音書では、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われている。これらのお言葉に聴き入っていると、イエス様がどんなに真っ直ぐに、一心に、神様を見つめておられたかが伝わってくる。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」父なる神様を愛される、イエス様のお心が伝わってくる。神様とイエス様、そのイエス様のお言葉に聴き入る人たちが一つになって、新しい神の家族が実現している様子が目に浮かぶ。

 

 地上での旅を続けながら、「天の父の御心を行う人」、「神の言葉を聞いて行う人」を、イエス様は泣きたいほどの思いで探しておられたのではないか。そしてイエス様は、一人、また一人と見いだされた。その喜びの記録が福音書に記されているのだと気づいて、何だか天の窓が開いたようにうれしい。

 悪霊に取りつかれて、鎖でつながれても引きちぎって暴れていたゲラサの人。7つの悪霊に苦しめられていたマグダラのマリア。徴税人の頭で金持ちであったザアカイ。イエス様の足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、香油を塗った罪深い女。イエス様は一人、また一人と失われた者を見いだし、見いだされた人はみな、喜んで神様に従う者となった。

 

 やっぱり福音ってすごいと思う。その人の生まれがどうだとか、育ちがどうだとか、能力があるとか無いとか、教養があるとか無いとか、性格が良いとか悪いとか、全く関係がない。病気であっても、絶望していても、みんなから嫌われていても、たとえ悪を為してしまって死刑が確定した人であっても、それらはすべて神様を離れた結果なのだから、そのような人々を捜し出して、神様のもとに連れ帰るために来たのだ、とイエス様は言われる。

 

 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。ヨハネ福音書1:11-13

 

 イエス様は、神様を離れて滅びに向かう人間を、神様のもとに連れ帰るためにこの世に来られた。この世も人もすべてイエス様に造られたものなのに、神様を離れて自分の好きなように生きる人間は、来てくださったイエス様を受け入れようともしない。しかし、そんな中に、自分の罪に苦しむ少数の人がいた。苦しくて、苦しくて「助けてください」と叫んでいた。声も出せずただ泣いている人もいた。イエス様はそのような人、ご自分の救いを必要とする人たちと出会って、どんなに喜ばれたことだろう。イエス様の救いを受け入れ、神様のもとに連れて帰えられた人はみな「神の子」となる資格が与えられた。

 血筋によらず、人間の欲望や意志によらず、ただ神様によって生まれた新しい人。

 福音の恵みは計り知れない。