福音 №353 201710

「成し遂げられた いちじくの木」

 

 ◆「明日は中秋の名月だよ」と教えてくれたのは、全盲の友人だった。次の日夕暮れ時、外に出ると東の空に昇り始めた大きな月。「中秋の名月が今日だって教えてくれて、ありがとう。あなたが教えてくれたから、今外に出て、美しい満月を見ることができました」とメールをすると、「私の代わりに美しい月を見てくれてありがとう」とうれしい返信。「イエス様が共にいてくださるだけで、私はOKなのよ」と、この頃の彼女の口癖のような言葉が、私の心の中で満月のように輝いた。

  あなたの天を、あなたの指の業を

    わたしは仰ぎます。

  月も、星も、あなたが配置なさったもの。

  そのあなたが御心に留めてくださるとは

    人間は何ものなのでしょう。   詩編8:45

 

◆「十字架につけられ」。

このことを、われわれはまず単純に「肉となり給うた」というクリスマスの信仰告白の一つの延長または尖鋭化として理解しなければならない。十字架につけられた者は、卑下させられた者、遺棄された者、失われ、断罪された者である。この人間が、われわれに対する神の言葉である。

  その言葉は、そこに来り、疲れ果て、病いを得、

  絞首台にかかり、

  あらゆる喜びから遠ざかり、

  恥辱と嘲りと嘲笑を引き受け、

  不安と傷と条痕と十字架と死を引き受け

  そして語り給う、私は喜んで苦悩を負うであろう、と。

〔ドイツ福音教会讃美歌62番1節後半。パウル・ゲルハルト作詞〕 

神はそれほどまでにわれわれの近くに来り、「インマヌーエル」、神、われらと共に、をそれほどまでに真剣に考え、神がわれわれとそれほどまでに同等になり給い、「陰府にくだり」という、もっともよく見える形での処刑と衰退の深みにおいて神は人間となり給う。神の啓示の行為、われわれの世界における神の現臨の行為は、完遂された行為である。

      カール・バルト説教「和解の行為」より抜粋

 バルトの文章を引かなくても、震撼させられるとはこのようなことではないかと感じたその内容を、自分の言葉で書きたいと思ったけれど、書こうとしたけれど、到底無理なので、深く碧い湖の水をスプーンですくったような感想を書きます。

「神の啓示の行為、われわれの世界における神の現臨の行為は、完遂された行為である。」

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 ヨハネ福音書19:2830

新聖歌104番で ♪十字架の上に 成就されし 救いの業は いとも全し

107番で ♪十字架の上にて 成し遂げられし またなき救いの 御業を歌わん

と歌うとき、心は喜びに燃える。そうだ、救いは成就したのだ、救いの御業は十字架の上に成し遂げられたのだ。私がどうであれ、あの人がこの人がどうであれ、人が受け入れようが拒もうが、わたしたちの救いは「成し遂げられた」のだと、歌う度に胸が熱くなる。そうか、そうだったのか、あの十字架のキリストによって神はご自身を啓示され、今もわれらと共におられ、「私は喜んで苦悩を負うであろう」と呼んでいてくださる。罪の荒野をさまようわたしたちに、今も現れ、

   わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、

   それゆえ、わたしは真実の慈しみから

   あなたをわたしのもとに引き寄せた。 エレミヤ31:3

と告げてくださる。

この、私たちに代わって罪の罰を受け、犠牲となり、勝利してくださったイエス・キリストを、わが主わが神と信じるにまさる喜びはない。

   

◆翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。・・・・翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。  マルコ福音書11121420

何度読んでもこのイエス様のなさり方は腑に落ちなかったが、今朝、夫との聖書通読の時にふっと気づいた。私は、いちじくの季節の方がイエス様の必要より優先されるべきだ、イエス様といえども自然の法則に従うべきだと思っているのだ、と。「黙れ、静まれ」と言われて凪になった湖のように、すべて造られたものは、イエス様に仕え従うということを信じていなかった。

いちじくの木の記事のすぐ前に「主がお入り用なのです」との一言で、まだだれも乗ったことのない子ロバは連れて行かれイエス様をお乗せしたとある。イエス様の弟子たちも「わたしについて来なさい」との一言で、「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。万物の中心は創造主なる神であり、神が遣わされたイエス・キリストにある。そのイエス・キリスト様こそ私たちの喜びであり、枯れることのない命である。造られたものは、造ってくださったお方に仕えてこそ存在意義があるのだと、いちじくの木が教えてくれた思いがする。