福音 №355 201712

貧しさについて

アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。ホセア2:17

 

 クリスマスも近づきイエス様への思いを深くされた三人が、希望について語り合った。私は日曜礼拝で学んだばかりのホセア書2章から、「アコルの谷が希望の門とされる、これがクリスマスだね」と言った。アコルの谷とは、物欲のために神の命令に背いたアカンが、わが身も家族も滅ぼし尽くされた場所である。(ヨシュア記7) アカンと同じように、罪の故に滅ぼし尽くされねばならない者に、神様は希望の門としてイエス様を与えてくださった。イエス様は十字架の上で罪として滅ぼし尽くされ、私たちに天国の門を開いてくださった。それが世界中すべての人に与えられたまことの希望。「そうか、人は『希望を持て』というけれど、希望は人間が持つものではなく神様が与えてくださるもの!」と、ちょっと興奮気味に言うと、一人が「希望を与えるのが神、絶望を与えるのは悪魔。希望は神から、絶望は悪魔から来るのですね」と即座に言った。「そんな言葉どこに書いてあったの?」と尋ねると「今自分で思いついたのです」と、あまりに真剣な表情に思わず笑って、そして深くうなずいた。

その夜、「赤ひげ」というドラマを見た。正気を失って働けない夫と、幼い3人の子供を抱えて内職で生計をたてる妻との極貧生活。長男がお母さんのためにと薪を盗んだことに絶望して一家心中するが、母と長男だけが助かってしまう。母は言う「生きている時は助けてくれないのに、死のうとするとどうして助けるんですか。わが子を殺してしまってどうして生きていけるでしょう」この言葉を聞きながら、私だってそうなったら生きてはいけないと思った。死んだわが子を思って、絶対に生きられないと思った。

静かに目を閉じて、絶対に生きられない私はどうすればいいのだろうと思った。もう一度、今度は誰にも見つからないように死ぬしかないのだろうか。その時、十字架のイエス様のもとには行けると思った。十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばれる極貧のイエス様にならすがれると思った。このお方なら死ぬよりほかない者も近づける、これこそまことの福音だと分かった。

 

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(2コリント8:9)

 

 そうか、そうなのだ。主は天にあって満ち満てるお方であった。その主が私たちのために人となり、家畜小屋でお生まれになった。貧しさは人となられた主のしるしでさえあった。豊かでありたいと願ってやまない私たちが、主の貧しさの中にまことの愛を見たとき、貧しさに込められた限りなく深いものに気づく。

 

  この世の栄を 望みまさず  

われらに代わりて 悩みたもう

 とうとき貧しさ 知りえしわが身は 

いかにたたえまつらん 讃美歌21 256:5

 

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」

十字架を目前にしたイエス様が「ベタニヤで香油を注がれる」、という記事がある。高価な香油を注いだ女の人を、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と弟子たちは非難したが、イエス様は「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われた。もちろんこの話のポイントは貧しい人々ではないが、ここでイエス様は貧しさを否定せず、貧しい人がいることを当然のように言われているのが印象的だ。

確かに、この世はいつの時代にも、あらゆる意味で豊かな人と貧しい人がいる。健康に豊かな人貧しい人、知能に豊かな人貧しい人、人間性(性格)に豊かな人貧しい人等々。「喜んで与える人を神は愛してくださる」とあるように、貧しさと豊かさは補い合うためにあるのだと、豊かな者は貧しい者を、貧しい者は豊かな者を、お互いに必要としているのだと知らされる。豊かな者だけでも貧しい者だけでも、人は本当の意味で生きることができない。だから「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」のだと。

 

 10月の初め、すぐ近くの老人病院の横を歩いていると、「このお花きれいですね」と病衣を着た方から声をかけられた。立ち止まって、「ほんとうに」とピーマンの白い花に見入っているとその方は、「話し相手もいない病室で、気がおかしくなりそうです」と言った。それがきっかけで何度か訪ねて、ある日、「私たちには子供がなくて、実は、主人もここに入院しているのでが、一緒に行ってくださいますか」と言われ、認知症病棟のご主人を一緒に見舞った。お二人の事情はいまだに良く分からないが、会うのは久しぶりらしく、ご主人は涙を流された。奥さんの方は一般病棟なので自由に外に出られるが、認知症病棟は一人では出られない。一人で歩けるのに、リハビリと食事の他はずっとベッドで寝ているご主人が気の毒に思われて、折々に散歩に誘うようになった。そして、うまくいけばご主人の物忘れが改善されて、骨折の治った奥さんと二人で暮らせる日がくるのではないかと、いやぜひそうなってほしいと、心ひそかに画策している。散歩だけでは物忘れの改善は難しいだろうから、ごく簡単な数独を用意して、今日はやっと一人でできた。本人の喜びようは言うまでもない。ベッドに拘束されている人もいる認知症病棟という現代の貧しさのただ中で、こんな喜びに出会えるなんて。私の今日も輝いて、Mさんご夫妻との出会いを与えてくださったイエス様に心から感謝した。