福音 №345 20172

「こどもよどこを見てる」

 

子どもよどこを見てる 子どもよなにを見てる

気をつけなさい 天から見てる

お方がいるのですよ

 

子どもよ何を聞いてる 子どもよ何を聞いてる

あなたのために十字架にかかり 

イエスさまは死んだのよ

 

子どもよ何をしてる 子どもよ何をしてる

ただイエスさまのみことば聞くの 

しずかに聞いていましょ

 

子どもよだれにたよる 子どもよだれにたよる

イエスさまだけが天のお国へ

入れてくださるのです   ふくいんこどもさんびか22

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 日曜学校を始めた頃に幼い子どもたちと一緒に歌った歌を、ふと口ずさんでいることがある。これは子供の歌だと思っていたけれど、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」ガラテヤ3:26とあるから、大人だって年寄りだって神の子なのだから、「子どもよ」と呼びかけられてもちっともおかしくない。ここでくり返されている「子ども」のところに自分の名前を入れて歌ってみる。すると、ますますピッタリする。この歌の題名は「こどもよどこをみてる」となっているが、その横に「Oh,be careful」とあるから「注意深く、気をつけて」だとすると、イエス様のお言葉にも「何を聞いているかに注意しなさい」「心が鈍くならないように注意しなさい」とあるのを思い出す。この歌には確かに、私たちが日々注意しなければならない大切なことが分かりやすくまとめられている。

まず1番、天から見てるお方がいる。今この時も、天から見てるお方がいる。このことを本気で信じるなら、自分なんて空っぽになって、このお方がすべてだと分かって、ひれ伏さずにはおられなくなる。その時、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という御言葉が成就する。

天から見てるお方がいる。そのお方はご自身を離れた人間の破壊と悲惨を見ておられなくなって、独り子イエス様をこの世に送ってくださった。「天から見てるお方がいるのですよ」と歌う度に、イエス様を与えてくださった神様の愛を思い、「再び来る」と言ってくださったイエス様を思い、「主よ来てください」と祈ろう。

 

2番、「何を聞いているか」、これもすごいことだ。 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」ロマ10:17 

昨日も天野街道を散策していると、眼下に大きな霊園が広がった。ここに骨を埋められた人、涙ながらに埋めた人、その人たちは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」ヨハネ11:25というキリストの言葉を聞いただろうか。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」1コリント15:54-55と、死への勝利宣言を聞いて、涙の向こうに美しい希望の虹を見ただろうか。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と、主は言われた。キリスト者がこの世に生かされているのは、「あなたの(わたしの)ために十字架にかかりイエスさまは死んだ」のだと、「死は終わりではない」と、その証人となるためではなかったか。

 

先日「沈黙」という映画を見た。恐ろしい迫害の中で死んでいく信者たちに神はなにもされないように見えた。それでも神を賛美することを止めず、聖名を呼び続ける人がいた。その心を軽々しく語ることなど到底できないし、迫害の故に棄教した人たちを責めることもできるはずがない。だが、ただ一人、あの人たちのそばにいてその心を、苦しみを共にすることのできるお方がいた。十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれたイエス様だけは、あの人たちと共におられたと、片時も離れず共に苦しみ、共に耐えておられたと信じることができる。殉教した人たちだけでなく、踏み絵を踏んでしまった人の苦しみも、辛さも知っていてくださると信じることができる。

「神は、確実に、あなたの近くにおられる、神はこの生活のただ中におられるということを、あのほかの悪い事実と同様に、あるがままの、ひとつの事実であるということを、キリストの十字架はわれわれに語っている。」カール・バルト説教集より

 

3番を歌うと、イエス様をお迎えして、ただお言葉に聴き入っていたマリアと、接待におわれて不平を言うマルタの話を思い出す。何もしないマリアにも手伝うように言ってくださいと訴えるマルタにイエス様は言われた。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

朝起きると、さあ今日はこれとこれをしなければと動き出す。年を取るとますます、今日する用事(キョウヨウ)と、今日行く所(キョウイク)が大事だと聞いてなるほどと思った。だがいくら充実した日々であろうと、それで良いと聖書は言わない。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と言う。神に帰ること、神の言葉を聞くこと。真の平安と希望、今日を生きる力は、キリストの言葉を聞いて信じる時に与えられるのだから。

 

4番。エレミヤ書17:5を初めて読んだときは驚いた。人間を信頼できなくなったらお終いだと思っていたのに、「呪われよ、人間に信頼し、肉なるものを頼みにし、その心が主を離れ去っている人は」とあった。イザヤ2:22にも「人間に頼ることをやめよ。鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」とある。確かに人間の(自分の)弱さやあやうさを知る度に、神信頼こそ人生の土台であると分かってくる。

何を語ることができなくても、何を伝えることができなくても声の限りに歌いたい。

「イエスさまだけが、天のお国へいれてくださるのです」