福音 №347 20174

「国籍は天にあり」

 

 わたしたちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

              ピリピ3:2021

 

「人は生まれながらに現世的である。彼は来世のことを思わないように努める。彼に現世的であることを勧める必要は少しもない。水が低いところにつくように人は地につくものである。そして宗教は人を地から天に向かって引き上げるために必要である。宗教が明白に来世的でないなら、世に来世を示すものはほかに何者もないのである。いうまでもなく宗教の本領は来世である。政治、経済の本領が現世であるように、宗教の本領は来世である。来世を明白に示さず、これに入る道を明白に教えない宗教は、宗教と称するには足りないものである。宗教は人を現世の外に導き、彼に来世を獲得する道を供して、間接にしかも確実に現世を救うのである。」 内村鑑三「一日一生」1115

 

桜のつぼみが膨らみかけた小道を歩いて、歩き続けているうちに、(天から降ってきたように)来世が私の希望だと分かって、気になっていたこの世のことが、それはそれでいいのだとフワーッと胸が軽くなった。この世だけを見ていると、人が幸せであるためにはこれと、これと・・・最低これだけは必要だと思ってしまうけれど、来世の幸いが鮮明に見えてくると、この世のこれも、これもあってもいいけど無くてもいい、それこそ「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と分かって、とてもシンプルな感じになりスッキリする。すると以前読んだ内村の文章を思い出して、家に帰って「一日一生」を開き上の文章を見つけたわけである。聖書の言葉ももちろんそうであるが、聖書以外でも聖霊に導かれて書かれたであろう文は、読んだときすぐ実感となるとは限らない。頭ではよく分かっても、それが自分の告白となるには時間がかかることが多い。こんな文章もう一つあったなと思い、ページをめくっているともう一つ見つかった。

 

「いわゆる現世的宗教は宗教ではありません。来世を明らかにするために宗教は特に必要なのであります。このことを明らかにすることによりキリスト教は特に必要なのであります。『キリストは死をほろぼし福音をもって(永遠の)命と朽ちないこととを明らかにした』とあります。2テモテ1:10.キリストによって来世は明らかになったのであります。彼によって私ども彼の弟子たちは今この世にあってなお希望のうちに私どもの戦いを続けているのであります。しかもキリストは決して私どもより遠く離れておられるのではありません。ただ幕一枚であります。彼は幕のかなたにあって私どもの祈祷を聴き、いと近き援助としておいでになるのであります。」 「一日一生」517

 

「宗教の本領は来世である。」「来世を明らかにするために宗教は特に必要なのであります。」という内村の言葉には、ハッとさせられる。「人は生まれながら現世的である」とあるように、多くの場合人は、今を生きるために神を信じるのであり、今この苦しみから救ってほしいと願う。福音書の中でもイエス様のもとに押し寄せて来たのは、いろいろな病気や苦しみに悩む人たちであった。人はどこまでも現世的であるというのはいつの時代も同じなのだろう。この日本でも高齢化が進み老後が長くなっても、その時間を用いて来世について学んだり考えたりする人は少ないようだ。どんなに健康に留意しても、この世を味わい尽くしても、人は死ぬのである。残された時間に来世を思うことはなんと有益な事か。

「キリストによって来世は明らかになったのであります」確かに、キリストの言葉を少しでも丁寧に読んでいくと、その言葉は時代を超えた永遠の真理だと分かってくる。現世の向こうに永遠の世界が確かにあるのだと分かってくる。その永遠の国に私たちを迎え入れるために、キリストはこの世に来られたのだと分かってくる。死に向かっているすべての人に、このキリストの言葉を届けたい。

 

だが、もう一つ。内村はここで来世を知ることによって、現世を良く生きることができるのだと教えている。現世は現世だけでは救われない。日々悲惨と破壊をくり返して止まない現世だからこそ、与えられた一日一日を良く生きるために、来世という確かな希望が無くてはならないのだ。

福島の原発事故で、原子力がどのような悲惨をもたらすか、嫌というほど味わい知ったはずの私たちが、それでも再稼働は止られないとあきらめそうになる。戦争を体験せずとも映像や本を通してその実態を見聞きし、戦争とは人殺しが正義になる狂気の世界だと知って、日本国憲法前文を喜び、9条を誇りとしたはずの私たちが、それでも憲法改悪を阻止することはできないとあきらめそうになる。そんな時、私たちには現世より来世が大切なのだから現世のことは目をつぶりましょう、というなら、私たちはキリストの弟子ではない。

キリストはこの世に見切りをつけて一人神のもとに帰ろうとはなさらなかった。「十字架から降りて来い」とののしられても、「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲られても、キリストは最後まで悪の力から逃げなかった。そして、すべての悪を一身に背負われて、死んで行かれた。私たちには勝ち目のない悪との戦いを、私たちに代わって引き受けてくださった。外なる悪だけではない、私の内に巣くう悪さえも引き受けて死んでくださった。だから私たちに来世への道が開かれたのである。死と滅びに向かって歩むより他なかった者に、永遠の命に至る道が開かれたのである。この世のどんな闇の中でも、十字架の光だけは決して消えない。今も私たちを照らしていてくださる。

このキリストが言われるのである。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。何の恐れることがあろう。

「キリストは決して私どもより遠く離れておられるのではありません。ただ幕一枚であります。彼は幕のかなたにあって私どもの祈祷を聴き、いと近き援助としておいでになるのであります。」