福音 №348 20175

「主が共に」

 

わたしは平安をあなたがたに残して行く。

わたしの平安をあなたがたに与える。

わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。ヨハネ福音書14:27

 

「あなたは平安ですか」と誰かに問うなら、「ええ、今はすべてうまくいって、特に問題もないので平安です」と答えるかもしれない。また、「こんな世の中で、どうして平安でいられますか。ミサイルが原発にでも落ちたら日本もお終りですよ。こんな時に平安だなんて、自分のことしか考えない人の言うことでしょう」と、不機嫌になる人もいるかも知れない。確かに、ここでいう平安が、何もかも自分の思い通りになって自分一人満足している状態をいうのなら、私もそんな平安はほしくないなと思う。

イエス様のこの世での日々も、決して御思い通りではなかっただろう。苦しむ人から悪霊を追い出すと、お前こそ悪霊のかしらだと悪口を言われ、集まってきた5000人にパンを豊かに与えると、満腹した人たちは、この方をイスラエルの王にすれば自分たちの生活は安泰だと考えた。このようにイエス様の深い御思いを理解する人はほとんどいなかった。そして、神の愛を伝えるために全身全霊で働かれたイエス様が、当時の権力者に捕らえられ裁判を受けた時、民衆は「十字架につけろ」と叫んだのだ。その上、3年間も一緒に過ごし教え導いた弟子たちさえ、最期の時には逃げてしまった。イエス様のご生涯を思い起こすと、人々が「あの人は平安な人ね」と言えるようなことは何もなかった。そのイエス様が「わたしの平安をあなたがたに与える。」と言われたのである。

 

イエス様の与えてくださる平安、世が与えるようなものとは異なる平安、とはどのようなものか。・・・色々くどくど考えて・・・分かりやすくまとめようとしても、どうしてもうまくいかないから、ほんの少しはイエス様の平安を味わい知らされた者として、正直なところを書くことにします。

 

一言でいえば、心が神様で満たされている時が最高に平安です。神様、天のお父さま、と呼びかけるだけで、もう他には何もいらないと心から思います。イエス様の「わたしの愛にとどまりなさい」というお声が耳元で聞こえるようで、うっとりします。天から「さあ、わたしのもとに来なさい」と呼ばれれば、両手をまっすぐに伸ばして(スーパーマンのように)天に向かって飛び立とうと思います。でも残念ながら、まだそのように呼びかけられたことはありません。真っ青に澄み切った大空を見上げる時には、よくそのような気持ちになります。

ところが、これからが肝心なところですが、そのように「ああ、私は平安だ」と世界中の人を愛せるような気分になっていても、その気分が現実の生活の中でずっと功を奏するというわけではありません。それも質の悪いことに、イエス様を信じてこんなに平安なのだという意識だけは残っていて、いつの間にか自分の本当の姿が見えなくなっています。つまり誰かを悪く思ったり、口に出したりしながら、それがいかに愛のないことであるかということに気づかないのです。ある時、他の人の言葉で、また自分自身でふっと気づいて唖然とするのですが、他者への愛につながらない平安、自分一人で満足している平安、それがイエス様の与えてくださる平安であろうはずがありません。イエス様から与えられた平安なら、周りの人に広がっていくはずです。祈りによって、言葉によって、行為によって、微笑みによって、周りの人たちにも幸せを運ぶはずです。

 

ほんとうのことなら 多くの言葉は いらない

野の花が 風にゆれるように 

小さなしぐさにも 輝きがある   (星野富弘) 

 

「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸いはありません」と、日々の告白に嘘があるわけではありませんが、その告白が、現実の生活に関わってこないとすれば、やはり本物の信仰とはいえないなあって思います。

もっと質の悪い自分に気づくことがありました。ともかく聖書だけはよく読むので、その時々にふさわしい聖句はすぐに思い浮かびますが、「隠れたことを見ておられる父」と何度も読んで知っていながら、その神様のまなざしを避けて、隠しておけば大丈夫と思ってしまいました。♪悪いことは 小さくても おきらいなさる かみさま♪ と子供たちに教えながら、これは大したことじゃない、これくらいのことなら黙っていても大丈夫だと。でも後で気づきました。私はその時、イエス様のそばを離れたのだと。イエス様に気づかれないように、そっと離れていったのだと。そこにあるのは良心の呵責だけでした。そして強く思いました。イエス様と共にいる平安を失ってまで守らねばならないものなど何もないのだと。悔い改めの恵みが、どれほど有り難いものであるかということを。

 

数日前友人と話したのですが、ゲッセマネの園でイエス様が捕まった時逃げた弟子たちのように、私たちもその場にいたら逃げたのだろうか。精いっぱいの思いでイエス様の後をついて行ったペテロも「イエスなど知らない」と叫んだように、私たちもそんな場面になれば「知らない」と言ってしまうのだろうか。・・・そんなことを話し合っているうちに、幼子のようにイエス様を慕っている友は、必死になって言いだしました。「イエス様が聞いておられるのに、今ここで聞いておられるのに、『私も知らないって言うかも知れない』なんて言えません。まだそんな状況になってもいないのに「逃げるかも知れない」なんて言えば、イエス様はどんなに悲しまれるか。自分に自信があるわけではないけれど、でもそんなこと言えません。言いたくありません」と必死に言うのです。

友の真剣な声に、ああこの人は今この時もイエス様が共にいてくださるということを、こんなにも実感をもって信じている。いついかなる時も、イエス様が共にいてくださる。それがイエス様の与えてくださる「平安」なのだと分かりました。

何はともあれ、心が神様の方向からそれたと気づいたら、すぐに方向転換をして神様の方に向き直ること。「悔い改めて、福音を信じなさい」と、イエス様の最初の宣教の言葉に平安の秘訣があることは間違いありません。