福音 №349 20176

イエス・キリストによる神の子

 

「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」で始まる「エフェソの信徒への手紙」。

エフェソとは、今はトルコ・イズミル県に当たる古代都市の名だが、新約聖書を読む者にはなつかしいほど身近な町の名でもある。口語訳で「エペソ書」と言っていた頃から読み続けて、なのに今回傍線を引いていない新しい聖書で読んで、こんなことが書いてあったのかと驚嘆した。その一つ一つの聖句が天の光を受けて輝いているようで、朝比奈隆の「グールドの思い出」に書かれていた一節を思い出した。

ベートーヴェンの第2協奏曲を指揮したとき、「正しく8分休止のあと、スタインウェイが軽やかに鳴り、次のトウッテイまで12小節の短いソロ楽句が、樋を伝う水のようにさらりと流れた、それはまことに息をのむような瞬間であった。・・・第一楽章が、カデンツァをも含めて、張りつめた絹糸のように、しかし羽毛のように軽やかに走る。フォルテも強くは響かない。しかし弱奏も強奏もことここの楽章に多い左右の16音符の走句が、完全に形の揃った真珠の糸が無限に手繰られるように、繊細に、明瞭に、しかも微妙なニュアンスの変化をもって走り、流れた。それは時間の静止した一瞬のようでもあった。」

音楽のさっぱり分からない私でも、グールドのピアノをこのように表現した、この文章だけは忘れられず、エフェソ書1章「神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる」を読みながら、「完全に形の揃った真珠の糸が無限に手繰られるように」という表現が浮かんできたのだった。

この手紙は、「キリスト・イエスを信ずる人たちへ」書かれている。3節から始まる、信じる者に与えられる神の恵みを、それこそ真珠の糸を手繰るように一つ一つ読んでいくと、キリスト・イエスを信ずるということがどんなに素晴らしいことか、言葉もなくなってしまう。キリスト・イエスを信ずる、それは全世界を手に入れるより尊いことであり、人はこのために生まれ、今日も生かされている。このたった一つのことのために、そう、キリスト・イエスをわが主、わが神を信じるために。

 

この手紙の筆者パウロは、まず神讃美から始める。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」3a

今日という日、たとえ一度でも心の限りに神様を讃美することができたら、素晴らしい日。

 「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」3b

さあここから始まる「天のあらゆる霊的な祝福」。ドキドキしながら読んでいこう。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」45

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」というイエス様のお言葉はよく知っている。だが、天地創造の前にすでに選ばれていたとはいったいどうしたことだろう。

そうか、人が神の子とされるということは、それほど重大なことなのだ。一人の罪人が悔い改めれば大きな喜びが天にあると言われているが、一人の人がイエス・キリストによって神の子とされるのは天の喜びなのだ。それは「自分が自分で信じる」というような頼りない人間的なことを超えて、神様の定められたことが成るという天的な喜びなのだ。

 

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とヨハネ福音書にあるように、イエス様が来られるまで、人は律法を守ることによってだけ神に近づくことができると考えていた。だから律法学者パリサイ派の教える裁きの神を思っていた。そんな人たちにイエス様は「神様はあなたたちのまことの父なのだ。あなたたちが「お父さん」と親しく呼んで、喜んで近づくことのできるお方なのだと」教えてくださった。そして言われた。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。そう、神様を信じて求める者には聖霊を、すなわち神様ご自身を与えてくださるという。これが神の子とされることであり、この世の誰とよりも確かに、神様、イエス様とつながるということなのだ。

 

バルトの説教集を読んでいて「神は父であり、われわれは兄弟である。それが真理である。・・・(それなら)なぜ、神は大小さまざまな悲惨を終わらせないのか。それは、愚かな問いである。----神の解放の行為はすでに起こっていること、神はキリストにおいて、すでに一度限り、われわれのためにすべての悪から救いを確立されたことを、あなたは知らないのか。いったいまだ何を、期待しているのか。今なお、われわれに残されている問題は、『そうだ、私は神の子である。あのナザレの不思議な御方がそう言われたし、そのことについて何の疑いもあり得ないと言われた』のを信じて、受け入れるだけである。『私は御父の子である。愛と喜びにいます御父の子である』ことをあなたが知っているならば、現在の苦しみや、あなたの小さな性格の欠陥などが、何であるというのか。・・・」

 「神がキリストにおいてわれわれをご自身の子らと呼ばれたのだから、もはや、われわれに逆らう運命や不完全な人間性を嘆く必要はない」という言葉に、気が遠くなりそうだった。

 

イエス様は、「あなたがたは悪い者である」と言われる。ああ、何と清々しい言葉であることか。イエス様は人の顔を見ないで真理を語られる。しかしそれは、人を非難するためではなく、私たちに神様の永遠の愛を告げるため、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と教えるために。

本当に、わが子が苦しんでいると知ったら全力で助けたいと思う。助けるためなら、どんなことでもしようと思う。考えるだけで涙がにじむほど本気で思う。悪い人間でさえそうなのだ。まして神様がお父さまなら、何があっても大丈夫!悔いくずおれる私たちを喜んで迎え入れてくださる。だから私たちは「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みをたたえ」て、ハレルヤと歌いつつ歩み続ける。

エフェソ書1章を書こうと思っていたのに、6節で終わってしまいました。続きは次号に。