福音 №350 20177

「見えるものではなく見えないものを」

 

「毎日歩いていますか。私は、今日は久しぶりに歩きました。散歩中、田んぼの畔で見つけました。この花は園芸種ですか?送ります」とのメールに、あざやかなオレンジ色の花の写真が添付されていた。私もいつか野道を歩いていて、萌えるような緑とヤブカンゾウのオレンジ色と、その対比に感動したことがあり、遠く離れて住む友の気持ちが伝わってくるようでうれしかった。

「緑の中にオレンジ色、印象的な花ですね。ヤブカンゾウ、野草です。私もなかなか散歩に行けなくて、でも今日は夕方には行くつもりです」と返信して、「行くつもり」と書いたからには行かなくてはと家を出た。

どこに行こうかと少し迷って、でも足は狭山池に向かっていて、クチナシの香る道を歩いて、最後に階段をトントントンっと駆け上るとなつかしい狭山池。12860メートルの土手を歩き始めるとヒメジオンの白い群生が風に揺れて、少し行くと一面のミヤコグサとアカツメグサの色合いが何とも美しい。

 

☆「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」Ⅱコリント4:18a

美しい草原のような土手、日の傾いた静かな大空、池のさざ波やアオサギの飛び立つ姿に見とれていても、今日の私は、この見えるものの向こうを見ているのだと感じていた。目に見えるものはどんなに美しくても、私たちの心をこのような平安で満たしはしない。花も空も鳥も水もみんなみんな神様が造られた。神様が私たちを愛して、私たちを喜ばせるために造ってくださった。うれしさが込み上げてきて、すれ違うどの人にも「感謝ですね!神様って素晴らしいですね!」と声をかけそうになる。声はかけなくても、精いっぱいの笑顔でお一人お一人にちょっと頭をさげる。寂しそうな人、つまらなそうな人も神様の愛を知りさえすれば、満面の笑みに変えられるだろうにと、祈りつつ歩く。

 

☆「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」4:18b

もちろん自然がいつも優しさに包まれているとは限らない。同じ頃、九州では大雨で土砂崩れがあり大災害が起きていることも知っている。しかしそこにも、神様はおられて、見えるものを通して見えない何かを語っておられる。そこでしか告げることのできない重大な何かを語っておられる。

「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と言われたイエス様は、鳥歌い花香るこの世がいつまでも続くとは言われなかった。「世の終わりが来る」と言われた。「戦争、飢饉や地震が起こり、不法がはびこり、愛は冷え、そして世の終りが来る」と言われた。数々の災難苦難は、すべての人に臨む世の終わりの予告でもあり、人の死も、思いがけない災害も、みな大切な何かを語っている。明るい昼が語るように、暗い夜も語っている。人が本当に生きるとは、この神の語りかけを聞くことではないだろうか。滅びゆく者のために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたキリストの言葉を聞くことではないだろうか。

 

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水曜集会の旧約聖書通読でマラキ書を終え、今週から創世記。「元旦や創世記より読み破らん」との玉木愛子さんの俳句を思い出し、さあ読むぞ、とちょっと緊張して第1章を5人で輪読。後でそれぞれに心に残った聖句を言うのだが、私は迷いもなく「初めに、神は天地を創造された」と11節を言った。

創世記から始まりヨハネの黙示録まで、旧新合わせて2000pに及ぶ聖書の最初が

「初めに、神は天地を創造された」 

そして最後が

 「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」

この二つの聖句の間に驚くべき神の歴史が繰り広げられている。

「文字が読めるのに聖書を読まなかったら、人間としてそれほど大きな損失はないですよ」とある方が言われた。本当にそうだと思う。人の一生はどう考えても生まれた日から死に向かって歩んでいる。思いっきり楽しい日もあるかも知れない、ああ生まれてきてよかったと誇らしい日もあるかも知れない、でもそれで人生は終わらない、自分の意志で生まれてきた人はいないように、死もまた「ここまで」と一人一人に与えられるもの。生と死、それが自分の意志によらず与えられるものだと気づいたら、人間の声だけが渦巻くこの世から目を上げて、神様のお心を知りたいと思うきっかけとなるかも知れない。

 

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今年になってカール・バルトの説教集を心を熱くして読んでいる。何度読んでも良く分かったとは言えず、ほんの表面をなぞっているだけかもしれないが、でもどの説教を読んでもあっと驚くほどの真理性を感じる。何より感心するのは、どの説教も初めて聞くように新しく、どれ一つとして同じことが語られているという印象を持つことはない。次々と読む度に新しく、真理に触れる喜びを味わうという期待を裏切られたことは、今のところ一度もない。

そして、それらの説教を読んでいて、一つのことを発見して、すべての謎が解けたような思いがした。それは、私の持つ様々な問題はすべて、「私が神を知らない」という、その一点にあるのだということ。笑ってしまいそうなことだけれど、問題はその原因が分かれば納得できるのだからありがたい。もっと神様を伝えたいと思っても勇気がでないのは、私が神様を知らないから。気難しい嫌な人をこそ愛さねばと思うのに、途中であきらめてしまうのも、私が神様を知らないから。祈りが深まらないのも、神様を知らないから。もちろん、まるっきり知らないわけではないけれど、私の知っている神様は私が実感した範囲で知っているか、聖書を読んで理解し分かったつもりになっているか、ともかく浅くぼんやりとしているのだ。だがしかし、その浅くぼんやりしている神様にさえ心うち震え、イエス・キリストこそすべてだ!と一心に思うのだから、もっと深くはっきりと知ったなら、それこそパウロのようにすべて捨ててキリストに従う者となるだろう。信仰が足りないのではない、神様を知らないのだ。その独り子、イエス・キリストを与えてくださった父なる神様の愛、十字架の愛を本当に知ったなら、死も災いをも恐れず、苦難の中にも天を仰いで喜び御国のために労する者となるだろうな、と想像するだけでも身の引き締まる思いがする。