福音 №352 20179

「復活」

 

主よ、あなたは世々にわたしたちの宿るところ。

山々が生まれる前から

大地が、人の世が、生み出される前から

世々とこしえに、あなたは神。  詩編90:1-2

 

この夏は「復活」について学んだ。

聖書には、人間が考えたり思ったりする人間の側のことではなく、神様のお考えや御思い、ご計画が書かれているのだから、聖書に向かう時には「神様の語られることを聞こう」という姿勢が大切だと言われる。神様は自分の(人間の)思いの延長線上におられるのではなく、この世では見ることも聞くこともない高みにおられ、その神様が「わたしに聞け」「聞く耳のある者は聞きなさい」と呼びかけておられる。その神様の呼びかけを記したものが聖書であり、だから聖書は読むものではなく聞くものだと、少しずつ分かってきた。

 

さて、「復活」ということも人間の側から思い描くものではない。死んだらどうなるのか、漠然と天国に行くと思っているか、無になると思っているか、人それぞれでいいじゃないかというかも知れないが、死んだ後のあり様が今の生き方を決めるのだとしたら、そう簡単に死んだ後は死んだ後のことと割り切ることはできない。そのことに気づいたのは、ずっと心にかかっていた1ヨハネの手紙323節が少し分かったからだ。

 

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子(キリスト・イエス)が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」

 

 今回、復活を学び、御子イエスに望みをかける人は皆、いずれ必ずイエス様を見て(お会いして)似た者とされるのだと分かったとき、「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」との言葉が、理屈なしに、そうでなければならないと思えた。私も少しでも清くありたいと思った。

以前は、自分が復活するということと、だから今この世で少しでも清く生きようとすることは、あまり結びつかなかった。ところが、集う者の心を合わせた祈りに天が開かれ、聖霊が臨まれた恵の場で、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」ロマ4:25と、イエス・キリストの十字架による罪の贖い、私たちの罪が赦されたしるしとしてのイエスの復活、そして、イエスにつながる私たちもまた復活させられるのだと信じさせられたとき、世の(自分の)汚れに甘んじることなく清くありたい、キリストの者でありたいという強い渇きを覚えた。復活の朝があるからこそ、与えられたこの世の人生を精いっぱい生きようと、心底思わされたのだった。

 

 この世に生きるすべての人に確実な「死」について、特に自分の死について、深く考えたり誰かと話し合ったりすることはあまりないように思う。あの人が死んだ、この人も死んだと話すことはあっても、自分の死については触れたくないし、触れられたくないというのが本音かも知れない。どうしてかなって考えてみると、自分の死には希望がないからだろう。人がうれしそうに話すのは、誰が結婚したとか、子供が生まれたとか、希望を感じさせるものが多い。そうか、人は希望が好きなのだ。希望があるから生きられるのだ。

幼い頃から虐待や様々な苦難の連続で心病んでしまった人が、「それでも、どんなに辛い時も『きっと善い人もいる。いつか善い人に出会える』と思っていました」と話すのを聞いて、そんなことってあるだろうかと不思議な気がした。苦難の中で、何の根拠もなしに希望を持つことができるとしたら、それこそ人知を超える神様の憐みに違いないが、人にも言えない辛苦の中で「善い人もいる。きっと善い人に出会える」という思いがその人を支えたとしたら、希望こそ人を生かすものだと証ししている。

 

 では、本当に死には希望がないのだろうか。死は人間にとって、すべての終わりなのだろうか。「この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる」という詩編のことばは、真実ではないのだろうか。いやいや、もっと端的に「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われたイエス様の言葉を無視して、何も知らないかのように、何も聞かなかったかのように、この世の旅路を、死に向かう人生を、このまま歩み続けていて良いのだろうか。

 

マルコ福音書第5章。12歳の少女が死んでしまって、みんなが大声で泣きわめき騒いでいる時、イエス様は人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と。そうか、死とは泣き騒ぐものではなく、静かに神の御手に委ねるべきものなのだ。神様の御手の中では死も眠りと同じである。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と、少女を立たせられたイエス様は、私たち一人一人をも「起きなさい」と終りの日に復活させてくださる。神を信じ、キリストを信じてすがり、悲しみもきっと希望に変えられる。

 

次の内村鑑三の文章は、死と罪について明確に教えてくれた。

「死は大事である。しかし最大事ではない。死は取り返しのつかない災厄ではない。死は肉体の死である。霊魂の死ではない。形体の消失である。生命の隠滅ではない。私たちは死んで永久に別れるのではない、私たちは後に復び会うのである。人生の大事は死ではない、罪である。天地の主なる神に背き、生命の泉から離れることである。このために神は人を死から免れさせようというその道を取られなかった。しかしながら彼を罪から救おうとしてその独り子を遣わされた。死のとげは罪である、罪が取り除かれて死は死でなくなるのである。」

 

いつの間に もう秋! 昨日は夏だった。

夏が終われば秋が来るように、それ以上の確かさで、わたしたちの死の向こうには復活の朝がある。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と、イエス様が言われたのだから。