福音 bR58 2018年3月

 

「新しい人に」

主よ、人間とは何ものなのでしょう

  あなたがこれに親しまれるとは

人の子とは何ものなのでしょう

  あなたが思いやってくださるとは  詩編144:3

 

ある説教集に、次のような一節があった。

一昨日、私はある少年に出会ったので、「どんな人になりたいかね」と彼に尋ねてみた。この少年は、「私は人間になりたいんです!」と即座に答えた。「君、君の言うとおりだ!それよりもっと素晴らしく、もっと大切なことは、まったく何もない」と、私はこの少年に答えた。実際、われわれもう大人になった少年少女にとっても、最大の願望は、人間になりたい、すなわち、自分がここに生きていることが平和と喜びによって十分満たされているような真の人間でありたいという願いではないであろうか。

この文を読んで、「自分がここに生きていることが平和と喜びによって十分満たされているような真の人間」という言葉に、久しく忘れていたような清々しさを感じた。そうだ、聖書が告げているのはそういうことなのだ。今私たちが、どんな重荷を負うていても、人の目には最悪と見える状態にあっても、「われわれは、すぐに、きょうにでも、最も深く、喜ばしい意味で生きる人間となり始めることができる」というのが聖書のメッセージであり、福音書に記されたイエス様の御業の意味なのだと分かってきた。

 

らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去り、その人は清くなった。マルコ1:40-42

この記事が、2000年前、地上を歩まれるイエス様に出会った一人のらい病人だけのことなら、まあこの人はなんと幸運な人、心を低くして一心に縋ったのが良かった、これが信仰というものだ、で終わってしまうだろう。だが、この記事はそれ以上のことを告げている。 「われわれは、すぐに、きょうにでも、最も深く、喜ばしい意味で生きる人間となり始めることができる」と、私たちにイエス・キリストを与えてくださった神の御心はここにあると、すべての人に告げているのだ。そのことに気づくと「よろしい、清くなれ」と、今も全地に響き渡っているイエス様の御声が聞こえる思いがする。

 

イエス様の宣教の最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」だった。「人間が新しい命に生きるために、神の時は満ちた。そのためにわたしは来た。わたしはすぐ近くにいる、あなたの手の届くところに。だから、古い自分に執着していないで、生きることが平和と喜びに満ちた新しい人となるために、神を信じなさい。わたしのもとに来なさい」とイエス様は言われる。 

私たちの新しい人生はここから始まる。それまでの日々がどうであったか、どんな性格で、どんな人間か、生まれも育ちも年齢も、経歴も罪歴も一切問われることはない。

 

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」2コリント5:17とある。そう、罪と汚れの漂うこの世にあって、年と共に古びていく体と心、それでもどうにか安穏に生き延びようと老後の心配ばかりしている私たちに、「新しく創造される」という、人の思いを超えた神の御心があるのだと、この聖句は教えてくれる。だが私たちは、「新しく創造された者」と聞くと、今までの自分とは全く違う、清く正しい人を想像するから、神様を信じてもそれは無理だなあと思ってしまう。そうか、だからイエス様は、何度も種まきの話をされたのだ。あなたは神を信じたからと言って、一瞬で、清く正しい人に完成するのではない。種は蒔かれても、それだけでは人の目には見えない。

 

イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」マルコ4:26-29

 

そうか、神様を信じると、心に神の種、永遠の命の種がまかれて、その時から新しい成長が始まるということなのだ。始めはその種はあまりに小さいし、あるのかないのか、自分でもわからなくなることがあるかも知れない。でも、神を、キリストを信じるという一点を見失わなければ大丈夫。イエス様は何度も言ってくださった。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と。私たちの心に相変わらず罪や汚れが見え隠れしても、与えられた命の種、神の言葉は腐ったりしない。イエス様という命のお方につながっているなら、信じているなら、黒くジメジメした腐葉土の中から新芽が生えだすように、私たちの心にも、晴れ晴れとした美しいものが広がっていく。それでもやっぱり駄目だと自分に失望することもあるだろう。でも大丈夫。救いの御業を始められたのは、人ではなく神様なのだ。「あなたはわたしを見ているがいい。わたしがあなたを新しくする」と言ってくださる。

イエス様はそのために来られた。身も心も傷つき汚れ果て、生きられなくなった私たちに、「よろしい、清くなれ」と新しい命を与えるために、私たちを平和と喜びに満ちた「真の人間」とするためにイエス様は来てくださった。

ずっと昔に聞いた歌が、心によみがえってきた。

♪主はわれらの罪を あがなうために 十字架にかかられ 身を裂かれた

主イエスのもとに 共に行こう 今決意の時 主に帰ろう

♬主よ 心の罪を ゆるしてください 主の御声信じて 従います

主イエスのもとに 共に行こう 今決意の時 主に帰ろう。