福音 367 201812

「今日、あなたがたのために」

 

今年の子供クリスマス礼拝は、「世界で始めのクリスマス」を劇にしようということになった。でも子供たちが練習する時間はないので、しかたない、大人4人でやることにした。ペープサートや紙芝居は何度もやったが、居並ぶ子供たちの前で(といっても、今のところ子供の数は7名)、舞台に立って(といっても、客席より少し高い6畳の畳の上で)セリフを言うのは初めての気がする。舞台監督から自作の脚本を渡され、「宮田さんは天使の役です」と言われ、「それはおかしいよ、声も悪いし、何より天使は若くなければ!」(4人の内私が一番年をとっている)と抵抗してみたが、「いえいいんです、よろしく」と押し切られて、最初の場面では白いテーブルクロスをかぶって天使を、後半は薄茶のマントをたらしてイエス様に乳香を捧げる博士1と決まった。

劇は紙を見ながらではいけない、「こんな短い劇だからセリフくらいは暗記しよう」というと、みな「うんうん」とうなずいたが、いざ立って監督の指示通り手や足の動き、表情まで気にしながらセリフを言おうとすると、頭の中は真っ白。あまりに間違うので「もう!紙を見てもいいから正確に言ってください」と叱られたが、羊飼い1と羊飼い2の演技力にはびっくりした。それに、厚紙を張り合わせて人物大に作ったマリアとヨセフと飼い葉おけの幼子の小道具も、観客が子供7人ではもったいないとふと思った。いやいや、もったいないなどと思うのはとんでもない思い上りだ。もし子供7人の心に、世界で始めのクリスマスの聖なる響きと、羊飼いや博士たちの喜びが(普段のお母さんの怒鳴り声より)リアルに伝わったら、そんな素晴らしいことはない。さあ、私もこの機会に、天使のセリフを少しでも正確に覚えようと心に決めた。

 

そういう訳で、ルカ福音書12章に記された天使の言葉に聞き入っていると、聖書というのは人間の可能性、思考や理性の範囲内で読んではいけないと、あらためて思う。

 

目が見もせず、耳が聞きもせず、

人の心に思い浮かびもしなかったことを、

神はご自分を愛する者たちに準備された。 1コリント2:9

とあるように、救い主イエスの誕生は人の側のことではなく、神の側のことなのだ。聖なる神のことがこの世に突入したのだから、人々が非常に恐れたのは当然で、天使は聞く者にまず「恐れるな」と語りかけねばならなかった。自分たちは神の民だと自負していたユダヤの人たちも、そして今、聖書の神を知っていると思っている私たちキリスト者もみな人であり、人間の可能性と限界の中で生きている。そんな私たちに「救い主が生まれた」と天使は告げる。これは、私たちがどう思おうと、どう考えようと、私たちの思いや考えをはるかに超える神の現実なのだ。

 

☆今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

だが、人は神様が準備してくださったこの救いを喜んで受けようとはしない。イエス様が話された「婚宴のたとえ」マタイ22章を思いだす。

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。王は家来たちを送って人々に「食事の用意が整いました。すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と呼びかけた。しかし人々は、王が準備してくれた婚宴より、畑や商売、今の生活の方が大事だった。日々の生活を豊かに安定させてくれる王を求めても、「さあ、婚宴においでください」と天の国へ招待する王の言葉など、かえって迷惑だった。

しかし、しかし、人がどんなに畑を耕しても商売が繁盛しても、人間の側に救いはない。

わたしは裸で母の胎を出た。

裸でそこに帰ろう。

主は与え、主は奪う。

とヨブが言ったように、生も死も人のものではない。人は人を助けることはできない。

いつの時代にもくり返される破壊と悲惨、止むことのない悪の勢力。清くあろう、正しくあろうと決心しても、いつの間にか汚れている自分の心。

でも、聞こえる。確かに聞こえる。

☆今日、あなたがたのために救い主がおうまれになった。

この神様からの一方的な宣言を聞くとき、救い主とは、私たちの存在そのものを救ってくださるお方、鈍さも愚かさも、さみしさも辛さも、罪も汚れも、すべてをひっくるめて救ってくださるお方なのだと、気づく。

私たちは悩みが生じると「これだけは聞いてください。叶えてください」と祈る。その時「わたしの言葉を聞きなさい」と静かなる深き御声。

恐れるな、わたしはあなたをあがなった。

わたしはあなたの名を呼んだ。

あなたはわたしのものだ。

「あなたはわたしのものだ。それでよいではないか」、と主は言われる。

 

☆今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった

何という驚くべき言葉だろう。神が人となってこの世に生まれてくださったとは。この世に様々な奇跡があっても、これこそ最高、最大の神の奇蹟。どの国の人であろうと、善人でも悪人でも、賢くても愚かでも、病気であろうと元気であろうと、幼子も寝たきりの老人も、すべての人を救い、新しくし、永遠の命を与えてくださる救い主。

私たちと同じようにこの罪の世に生まれ、助けなきまま十字架の上で死に、死と悪魔に勝利して復活され、今も私たちと共にいてくださるお方。

 

「あなたがたのために救い主が生まれた」と聞いて、信じるのは私たち一人一人。誰にも代わってはもらえない。

「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と聞いて、行くのも行かないのも私たち一人ひとりに任されている。愛は強制しない。

だが、愛は忍耐強い。愛は待ち続ける。

愛は決して滅びないと、信じて祈るクリスマス