福音 bR57 20182

「何よりもまず」

 

和歌山の紀ノ川沿いを走っていて、道の駅に立ち寄った時なつかしい花に出会った。緑のハート型の葉に黄色い花びらが光っていて、あっ、これは信州の残雪の中で水芭蕉と一緒に咲いていたリュウキンカだと思った。大きな鉢植えが700円ほどだったので喜んで購入したが、咲いていた2輪の花は車の中で押され家に着く頃には傷ついていた。でも、まぁるい蕾がいくつかあるからこれが咲くのを待てばいいと思っていたのに、次の朝見ると花びらはしっかり閉じていて、陽の光を受けると開き始め、あの傷ついたはずの花びらはしゃんとして輝いた。夕暮れになると花びらは閉じ、陽の光を受けると開き、20日以上も咲き続けている。こうなると花への愛おしさも倍増、花びらは9枚、蕾は今のところ14個、さてこの花は本当にリュウキンカなのだろうかと思うに至り、野草図鑑を開いてみた。水芭蕉と一緒に咲いたリュウキンカの写真の下には「キンポウゲ科リュウキンカ、花びらに見えるのは萼で普通は5個だが6〜7個のものもある」とあり、写真の花の花びら(じつは萼片)はみな5枚。ええっ、これはおかしいとネットで詳しく調べてみると、わが家の花はヒメリュウキンカで「ヒメリュウキンカは、ヨーロッパからシベリアにかけて分布する多年草、・・・球根として流通するラナンキュラスとは同属の仲間で、・・・リュウキンカとは別属の植物になります」とあってびっくり。私が無知なだけだと言えばそれまでだけれど、この一株の花でも日々見守り時々は水もやって、少し詳しく調べてみれば、この花にも言い知れぬ花の世界があるのだと深く胸打たれた。そして思う、一株の花でさえこのようにかけがえのない歴史を持ち、なぜか今はわが家のベランダで咲き、この世ならぬ喜びを与えてくれる。この小さな花にしてこれほどの価値があるのだと感じたとき、人間の尊さにハッと気づいた。世界に70億の人がいようが、その一人一人にかけがえのない歴史があり、誰一人として価値のない人などなく、その一人一人の存在の背後には私たちの想像もできない深い意味があるのだと。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」マタイ福音書6:2530

イエス様のお言葉はすごい!と思う。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」「野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と、神様がどれほど人のことをお心にかけておられるか、どれほど愛し、どれほど人を求めておられるか、この素朴な言葉に込められた神様の御思いは計り知 れない。

 

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」創世記1:26                                                                                                                 

神様に似せて造られた人、人には地に満ちて地を従わせ、支配するという尊い使命が与えられた。人は確かに地に満ちて現在では75億の人がいるというけれど、人は神様の御心に従って「地を従わせ、すべての生き物を支配する」という使命をすっかり忘れて、造り主なる神に従うことをせず、本来支配するべき地にあるものを拝み、頼り、この世の知恵や力、富に支配される者となってしまった。今や人類が破壊と悲惨の道を歩んでいることを疑うことはできない。

そんな私たちがいかにして救われるか、神様の秘めらた計画は「ローマの信徒への手紙」に、パウロ自身の生きた証言として記されている。1章から16章まで26p、今朗読してみると1時間11分、決して読めない量ではない。たとえ浅い読み方であっても、最初から最後まで通読すれば、読む度に「確かにここにはすべてがある」と胸が熱くなる。

 

それにしてもイエス様のお言葉は優しい。「ローマの信徒への手紙」が読めない時も、イエス様のお言葉はすぐ近くにある。だがどんなに優しいお言葉も信じ従わなければ、今日を生きる力とはならない。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と、神様の愛を語ってくださるイエス様のお言葉は次のように続く。

                                                                                                                                                                                                                                             だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイ福音書6:2534

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。読む度に「確かにここにはすべてがある」と胸が熱くなる。

神の国とはイエス様の国、神の義とはイエス様の十字架、この他に真に求めるべきものなどあるだろうか。「何を求めているのか」と、問われる主に、「主よ、あなたを」と。