福音 №364 20189

「わが主イエス」

 

丹波伊根町で見た満天の星、日中は見えないけれど、私たちの地球もこんなにたくさんの星の一つなのだと感動して、以前読んだ文を思い出した。「宇宙には数限りない星があっても、この地球にだけ人間が住んでいる。いや、もしかしたら、この地球の他にも人間の住む星があるかも知れません。でも、その人たちにとっても救い主はイエス・キリストお一人、それだけは確かなことです。・・・」後半ははっきり覚えていないけれど、ともかく、地球以外の星の人が神の子イエスを知らないなら、地球人が伝道しましょう、というような内容だったと思う。「初めに、神は天地を創造された」とある。どの星も、天体も、そこにあるすべては神様のご意志による。宇宙万物の完成はキリストによってなるのだと信じる者は、万が一宇宙人がいてもこんなに自由に受け入れられるのだと感心した。

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられるのです。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。エフェソ1:10

 

今年の近畿集会のテーマは、「わが主イエス」。4人の講師の方がそれぞれの方向からイエス・キリストを語ってくださり、今もお一人お一人の語り口調が聞こえるほど印象的な集会となった。イエス様のご生涯が記された福音書も一つでなく、四つだったとふと気づき、名もなき小さな集まりを主がこのように導いてくださったのだと、感謝があふれる。

 

本当に、人間にとって、イエス・キリストを知る以上に大切なことなどどこにもない。この世のすべてを知り尽くし、全世界を手に入れたとしても、もしイエス・キリストを知らなかったら、その人の人生はやはり「空の空、空の空、いっさいは空である」としか言いようがない。なぜ、そんなにまでイエス・キリストなのか、そこにすべてをかけようとするのかと問われるなら、今回の「わが主イエス」というテーマを思って過ごすうちに、「わたしを見た者は、父()を見たのだ」というイエス様の言葉が迫ってきて、「わが主よ、わが神よ」と答えずにはおられなくなったから。

 

私が「神様」という言葉を知ったのはいつ頃だろう。家の近くにあった神社に行って椎の実を拾ったこと、その鬱蒼とした佇まいを今も覚えているから、やはり幼い頃から氏神様は教えられていたのだろう。それがなぜか私が小学生の頃、父が大きな模造紙に「メリークリスマス」と緑色の紙テープで描き、壁に貼り、その前で家族でクリスマスケーキを食べた。その頃の父は写真にはまっていたから、クリスマスに家族写真を撮るための演出だったのかも知れないと、今気づいたが、でも私にとってその緑色の「メリークリスマス」は忘れられず、その時知らずに祝ったキリストが時を経て、「わが主、わが神」となった不思議を思う。

わたしを見た者は、父()を見たのだ」というイエス様のお言葉は決定的だ。神と一言で言っても、世界中には数限りない神の定義があるだろうし、日本では八百万の神というくらいだから、それを定義するのもなかなかだろう。そんな中で、神様とはどのようなお方であるか、子供でも分かるように「わたしを見た者は、父なる神様を見たのと同じだよ」とイエス様が言われたのだ。

こう書くと、でも、なぜ、って思うかも知れない。ええっ、だって人はイエス様を見て、そのイエス様を十字架につけて殺したじゃない!人間が神様を殺すなんてあり得ない!イエス様が神様と同じなら、その神の力で悪い者をすべて滅ぼしてしまえば良かったのに!水戸黄門のように、「この印籠が目に入らぬか」と言って、神である徴を見せればよかったのに!そう、十字架から飛び降りて「わたしは神だ」と世界中の人に見せつければよかったのに!

十字架にかけられたイエス様を見た当時の人たちも、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と嘲ったと、聖書には記されている。

 

しかし、そんな浅はかな、愚かな人間の思いとは裏腹に、イエス様はご自分の十字架の死こそ、神に背き滅びに向かう人間にとって、唯一の救いの道であると知っておられた。十字架の上で人の罪を負い、神と人との和解を成し遂げるために生まれきたのだと知っておられた。

だから、イエス様は弟子たちに「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」と、三度も予告されていたのだった。

 

「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」へブル書12:2

「私たちの罪とは、いつも繰り返し自分で自分を助けようとし、自分勝手に平安になり、自分勝手に不安になり、自分の都合で愛したり、自分の都合で憎もうとすることにある。私たちは、それをどのようにして捨てることができるのか。私たちは、自分自身の影を跳び越えられるか。私たちはそれを捨てることはできないし、またそうすべきでもない。しかし、イエスが、天においても地においても一切について権能を持つ主であることを信ずることができるし、信ずべきである。そしてその場合、私たちの重荷、自分にくっついており、敵の軍勢のように取りまいている私たちの生涯の重荷や罪をよく見ると、「十字架、わたしたちの生の影を形成する恥は、担われ、取り去られた」ということを、聞くことをゆるされる。あなたの生涯のこの重荷、あなたの心のこの罪は、もはやあなたの重荷ではなく、あなたの罪でなくなるために、イエスは、そこにおいて主であられたし、今も主であり、主でありつづけられるであろう」

「カール・バルトの説教選集9」引用