福音 №371 20194

「生きよ」

 

人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。マタイ4:4

 

どんなに気に入った本でも、内容を覚えてしまってそれでも毎日読み続けるような本は、聖書の他にはないだろうなと思う。一つ一つの言葉を正確に学んで、まだ分かっていない深い意味を知るために読むのではない。いつか誰かが、「もう説明はいらない、力がほしい」と言うのを聞いたことがあるが、聖書の言葉を毎日読むのは、毎日ご飯を食べるのと同じこと。今日を生きる力を受けるため、ご飯では味わえない、神様がおられる喜びを受けるためである。読む度に、これは真理だ!と目からうろこの感動を受ける新鮮きわまりないものであるが、保存のための冷蔵庫も冷凍庫もいらない。なのにいつどこで読んでも神の言葉は、読む度に新しい。

ご飯を食べないと元気が出ないように、聖書の言葉を食べないと(忘れてしまうと)、同じことをしていても喜びがなくなり、虚無感や倦怠感が忍び寄ってきて、いつしか心が暗くなってしまう。そんな時こそ、「わたしが命のパンである」というイエス様を一心に思う。

イエス様が「わたしが命のパンである」と言われたのは、一度だけわたしを信じ、一度だけ聖書を読んだらそれでいいというのではなく、「毎日食事をするように、毎日聖書の言葉を食べて、わたしと共に歩みなさい」ということなのだ。

 

昨日「牧師といのちの崖」というドキュメンタリー映画を見た。死ぬために白浜の三段壁に来た人たちが最後に目にするであろう、「いのちの電話」という文字と電話番号の書かれた崖の上の立て札。そこで助けられた、ある自殺志願者の言葉が今も胸に響いている。

 

「僕が今日死のうが、明日死のうが、誰も気にしないだろうってリアルな確信を持っちゃったんですよ。ものすごい寂しさが湧いてきて、寂しくて、寂しくて、寂しくて・・・急に誰かの声が聞きたくなって、いのちの電話をかけました。死にに来たんですけど、できなくて・・・、助けてください、助けてくださいって・・・・」。

 

味わった者にしか分からないであろうその究極の寂しさもまた、人はパンだけでは生きられないことを告げている。どんなに相手のことを思っても、人の慰めや励ましには限界がある。たとえ居り場や仕事を用意しても、そこで生きるのはその人自身であり、その人の命を助けることはできない。人には助けられることと、助けられないことがあるのだと、神様は人をそのように造られたのを思う。

 

聖書は、一人一人が思いやり深い良い人間になって、寂しさも苦しみも分かち合い、助け合えばそれで生きることができるとは言わない。

 

「わたしを求めよ、そして生きよ」アモス5:4

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」エゼキエル18:32

「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」イザヤ55:3

「わたしが命のパンである。・・・このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」ヨハネ6

 

聖書はどこを開いても、人は神を無視して、神を知らないまま、背いたままで生きることはできないと書いてある。生きるとは神に立ち帰ることだと書いてある。書いてあるというと他人事のように聞こえるが、その言葉が本当であることは誰よりも自分が知っている。自分だけをじっと見ていると、どうしようもない闇があり、とうてい立ち帰ることのできない深淵がある。その罪を誰よりもよく知っておられる神様は、イエス・キリストを与えてくださり、十字架の死と復活によって私たちを闇の力から救ってくださった。

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」コロサイ書1:13

そうだ、私たちの今がどんなに辛く苦しくても、私たちはすでに神の愛の中にいるのだと思った時、先日送っていただいた「キリスト教独立伝道会通信」に掲載されていた、福岡でホームレスの支援をされている奥田知志牧師の講演内容を思い出した。

 

「わたしたちの教会標語は『神様はどうでもいいいのちをお造りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するためにひとりを大切にする教会となる』です。私たちの教会は、『クリスチャンに成らないと救われない』という伝統的な教義から解放されました。そして、普遍的に分け隔てなく愛を注がれている神と共に生きています。自由です。「私なんか生きていても意味がない。どうでもいいいのちだから」と言ってビルから飛び降りた少女が教会に身を寄せた時期がありました。教会にはシェルターが完備されています。この少女と一緒に聖書を読む中で生まれたのが先の教会標語です。『クリスチャンに成ったら救われる?』そうではなく、『あなたはすでに救われている。神に愛されている』と宣言することが必要でした。」

 

「あなたは神に愛されている」と、誰に対しても分け隔てなくそう言えなければ、確かにそれはキリストの福音ではない。言うだけでなく、そのように生きなければキリストの愛を知っているとは言えない。あの人の命も、あの人の命も、神の愛によって造られた。どうでもいい命などひとつもない。

 

☆イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。1ヨハネ3:16-18