福音372 20195

「キリストの軛」

惰性で生きるのはもう嫌だ、どうでもいいような日々ではなく、生きたと言えるほどに生きたい。そのような思いが与えられたのが、キリスト信仰の第一歩だった。

生きたと言えるほどに生きたい、ほとんどその一つのことを願いながらも、どこか徹底しない、何かしら空虚なものが時として漂うのはなぜか、分からずにいた。

今年初め、「喜びの日も涙の夜も・鈴木正久聖想366」に出会って、「お前の求める、生きたと言えるほどに生きるとはこういうことだ」と目を覚まされた。

それは、神の言葉に向き合って真実であるために、苦しむことを拒まないことだった。

今日与えられた負うべき荷を誠実に負い、「主の勝利にわたしもあずかる」という不滅の希望をもって今日を生きることだった。

 

人が何らかの信仰を持つのは、苦しみを逃れるためだと思われやすい。だから、苦しい人は信仰を持ったらいいけれど、この私には必要ないという人も多い。苦しみから救ってくださるのが救い主であり、苦しまなくていいように守ってくださるのが神様だとあたりまえのように思っている。だから、キリスト教と言いながら、心の底では家内安全、無病息災を願っていたりする。人間だもの、それも仕方がないかというあいまいな思いが、次の一文で吹っ飛んでしまった。

 

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「苦しみにあいたりしはわれによきことなり、これによりてわれなんじの律法をまなびえたり」詩編19:71

かつて私は苦しみを憎み、苦しみのない状態を切望した。だが苦しみのない日は一日もなかった。その後、苦しみのない日が23日あった。この日、私は幸福だったろうか。いや、私の心の苦しみのない日には思いがけないほど馬鹿げた、下らない、とるに足りないことに向かって転落していった。苦しみのある日には・・・自分が罪を犯す苦しみを通してさえも・・・私の心は必死で、真剣で、その限りにおいて高められていた。かくて今や私は苦しみを是認する。地上の今後の生活で、全く苦しみがない生活を求めるか、苦しみを受ける生活を求めるかと今問われたら、私ははっきりと苦しみのある生活を求める。これは被虐趣味からではない。馬鹿げた、下らない、とるに足りないことに心が転落する生活を嫌悪するからだ。苦しみは堪えるのみでなく、感謝すべきものだ。苦しみについての泣きごとをお互いにやめよう。(聖想15)

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この本に出会う少し前、私もこの世でいえばもう退職する年だから、今与えられている小さな集会なども、少しずつ控えるようにしなければと思ったりした。私など何をしても大したことはできないのだから、身の程というものを知って、静かに暮らしていればいい。

だが、そのように自分の無力にこだわり、どんどん気落ちしていくことこそ、キリストよりも自分を重んじる不信仰そのものなのだと、悟らされた。

 

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「主なるわたしは変わることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない」マラキ書3:6

私たちが十字架を負わなくてもよいようになるというのではない。むしろ負うべき十字架は日々にあるだろう。それ故に、私たちは苦しみもするだろう。だが、それらは私たちを滅ぼさない。それらは最後の栄光に向かっている。主なる神は、その私たちに対する愛と真実において、変わることがない。自己への人生の失望はこの主から目をそらし、自分自身の悲観的な見通しに心の思いが転落することからしか生じ得ない。主をあがめることは、自己の生活への希望をもつことである。(聖想1月3日)

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どんなに貧しい歩みであっても、どんなに無益な労苦であっても、そんなことで責められたり滅ぼされたりはしない。たとえ一人になっても、主なる神をしっかり見つめている限り私たちは「最後の栄光に向かっている」。

 

 

☆ふと本棚の「コルチャック先生・子どもの権利条約の父」という絵本が目に留まった。何気なく開いて、次の一文に心打たれた。

「私の人生は困難なことの多いものでしたが、でも、こころをわきたたせるようなことがたくさんありました。それはまさに、私が若かったころ、神様に求めたとおりの人生でした。私はこう祈っていたのです。どうか試練に満ちた人生をお与えください。しかし、人生を美しく、こころ豊かで、品格のあるものにしてください、と」

ヤヌシュ・コルチャック『ゲット―日記』より

☆「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け

あなたはわたしをあがめるであろう。」詩篇50:15

人間にはそれぞれ都合がある。たとえ携帯がかけ放題でも、自分の都合でいつでも電話するわけにはいかない。まず、相手の都合を考える。

そう思った時、ふと気づいた。私が思わず「主よ」と呼ぶとき、「今は都合が悪い」などと言われたことは一度もなく(感じたことがなく)、「待っていたよ」と言わんばかりに迎え入れてくださる。道を歩きながら話しかけても、間違った自己憐憫で愚かなことを口にしても、「そんな話は聞きたくない」とうっとうしがられたこともない。私たちは、何という善き友を与えられていることかと胸が熱くなる。

でもここでは特に、「悩みの日にわたしを呼べ」と言われる。誰が見ても、もう取り返しのつかない絶望的なできごと、過失であっても、故意にであっても、人の命にかかわることは何をもってしても償うことはできない。でも、そのような人の力の及ばない悩みの日にこそ「わたしを呼べ」「叫べ」と命じられ、「わたしはあなたを助ける」と約束されている。わたしに向かって叫ぶなら、わたしはあなたの救い主となり、「あなたはわたしをあがめるであろう」と。

聖書の言葉を信じるのは勇気がいるが、信じなければ何も始まらない。