福音 №373  20196

「どこへ行こうとしているのか」

 

「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」

創世記16章に記された、女主人サライから逃げていく女奴隷ハガルへの、主の御使いの言葉である。

話せば長くなるが、神様が夫アブラムに満天の星を見せて「あなたの子孫はこのようになる」と約束されたにもかかわらず、たった一人の子供も与えられない妻サライ。ついに自分の女奴隷ハガルによって子供を得ようと、ハガルを側女として夫に与えた。ハガルは身ごもりサライは大満足のはずが、身ごもったハガルは女主人サライを軽んじるようになる。そのことを夫アブラムにうらみがましく訴え、「あなたの奴隷だ、好きにしなさい」との許可を得たサライは、事ごとにハガルにつらく当たり、耐えられなくなったハガルが逃げだす。

4000年前の出来事とは思えないほど、それぞれの人の心情が伝わってくる話である。

 

ところが、逃げて行く女奴隷ハガルは、荒れ野の泉のほとりで主の御使いに出会う。その時の御使いの言葉が「あなたはどこから来てどこへ行こうとしているのか」であった。

こう問われて、ハガルが「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、御使いから「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」「わたしはあなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と思いがけないことを告げられた。ハガルはこんな自分を顧みてくださった神の言葉を信じ、女主人のもとに帰り、男の子イシュマエルを産んだと結ばれている。

この記事を読む度に「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」という御使いの言葉が、引っかかる。そう言ってハガルに、「どんなに逃げても所詮自分は奴隷の身、行く所などあろうはずもなく、あの女主人サライのもとに帰るほかないのだ」と自覚させるための言葉だったのだろうか。いや違う、どこか違う、何か違う・・・、そんな目の前の出来事に対して言われた言葉ではない、もっと根源的なことを語っているに違いない。

 

そう思いめぐらしていると、

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」

というロマ書1136節の言葉が思い浮かんだ。

そうだ、御使いはそのことを言いたかったに違いない。

「ハガルよ、お前は自分が奴隷の身であること、自分の意志とかかわりなく子を身ごもり、それで少しばかり自分の存在も認められるのかと思うと、かえって女主人の妬みをかい嫌がらせをされる、こんな不運な人生があるだろうかと嘆き苦しんでいる。」

「しかし、ハガルよ、お前にとって境遇や不運がすべてではない、お前は、いやすべての人は、神から出て、神によって保たれ、神に向かうべき存在なのだ。この世でどのようであっても、たとえ悲惨と苦難の人生であろうと、人は神から来たのだ、人は神に向かって生きることができる。」

「ハガルよ、絶望に向かって生きてはならない。境遇や環境に負けてはならない。神はあなたを顧みておられる。さあ、神に向かって生きよ。」

 

女主人から逃げるハガルに、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」とは、あまりにも理不尽に思えたが、それに続く、

「今、あなたは身ごもっている。

やがてあなたは男の子を産む。

その子をイシュマエルと名付けなさい

主があなたの悩みをお聞きになられたから」

との御使いの言葉に、ハガルはハッと気付いたに違いない。

主が私の悩みをお聞きくださったとは!

そうだ、神様がおられる!

今の境遇や不運が私のすべてではない。

この私も神から来て、神に向かって旅をするという自由が与えられているのだ。

 

自分の深い悩みを知っていてくださる、生ける神様との出会い、それこそが人に真の希望を与え、今日を生きる力を与えるのだと「ハガルの逃亡と出産」の記事は教えてくれる。

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「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」ヘブライ人への手紙13:14

 

私たちの大きな思い違いは、この世に住み着こうとすることから始まるのではないか。この世で財を成し、この世での生きがい、楽しみのために、健康や人の評価に気を取られながら、この平穏な日が一日でも長く続くようにと願ったりする。しかし、私たちの思いがいかようであれ、「わたしたちはこの地上に永続する都は持っていない」と聖書は告げる。心静かに問うてみる。今、この時が最高でありこれが永遠に続くようにと願う時などあるだろうか。まして、地上のすべての人にとってそんな時が。

中学生の頃だったか、祖父母たちの家を出て、両親と姉と私のいわゆる核家族、4人での新生活が始まった。嫁姑で苦労していた母はよほどうれしかったのだろう、「このまま4人の生活がずっと続けばいい。あんたたちもずっとここにいて4人がいい。」と言った。その時、母の気持ちがうれしくないわけではなかったが、「お母さんはそれでいいかも知れないけれど、私たちはそうはいかない」と言葉に出してか、心の中でか、ともかくそう答えたのを覚えている。

人は成長する、毎日同じことをくり返しているように見えても、たとえ病院のベッドで寝て過ごす日々であろうと、人はどこかに向かっている。出会って14年、ALSのため呼吸器をつけ一滴の水も飲まず1センチも動かないKさんだって、その運命がKさんなのではなく、心の向かう方向に日々旅をしているのだ。

この地上は仮住まいであり、どこまでも旅人であり、永遠の都を探し求める私たちに、イエス・キリストの言葉は決定的だ。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父()のもとに行くことができない」

永遠の都への道となってくださったキリストこそ、われらが主。