福音 №374  20197

「天の国はその人たちのものである」

 

 今年も子供集会のサマーキャンプが近づいた。昨年までは奈良の「葛城高原ロッジ」だったが、今年は天文台もある五條市「大塔コミックパーク星のくに」で、車で約1時間半という山の中。「星のくに」での宿泊は始めてなのでちょっとドキドキだけれど、14日午後、夜、15日午前と3回、子供のためのプログラムは劇の小道具も紙芝居もほぼ準備万端。と言っても私は色塗りを手伝ったくらいで、後はすべてプロの脚本家にしたいような理香さんが準備した。「イエス様は道、光、羊飼い・・・」と、バンヤンの天路歴程をベースに、子供たちが「イエスの門」を通って、「おい、ゲームの方が楽しいぜ」という誘惑にも、「お祈りしても聞かれないじゃないか」という悪魔のささやきにも、み言葉のパンを食べて打ち勝ちながら旅を続け、ついに天の国で「義の冠」をもらう喜びを味わうという、子供も大人も、全員参加の実演型学習だ。今年はいつものメンバーに赤ちゃんが生まれたので、その家族4人はお休みで、参加者は子供4名と大人が5名。子供はみな小学生になり、お話もしっかり聞けるので、理香さんはますますはりきっている。この子供たちの中から伝道者が出るようにとひそかに祈っているのではないかと思うほどの力の入れようだ。ともかく神様への期待は大きいほどいいし、いつだって神様のなさることは素晴らしい。

 

 それで、せっかくの機会だからと毎年、子供たちを寝かせたら大人の集会もする。今年は聖書のどこを読もうかと話し合ったが、山上の説教(マタイ567)に決まった。それぞれ読める人は先に読んでおいて、特に心に残った聖句を話し合う。もちろん聞くだけでもいい。

 

 そんなことで、始めて読むような思いで山上の説教を読んでみようと、書き込みのない、線一つひいていない新しい聖書で読み始めた。聖書の素読をしようとすると、ふと「虚心坦懐」という言葉を思い出す。随分昔のことでどんなテレビ番組だったかも忘れたが、鈴木弼美氏(キリスト教独立学園創設者)が司会者の「聖書というのは素人でも読めば分かるものでしょうか」というような質問に「虚心坦懐に読めばわかります」と静かに答えられた。その時の深い素朴な響きが忘れられず、聖書は、わだかまりや先入観を持たず、ありのままを素直に受け入れる心で読めば、きっとわかることもあると信じている。杣友のおじいさんもよく素読を勧めてくださった。はじめは砂を噛むようでも、そのうち分かるようになるでしょう、と。「ある娘さんが病床で一人聖書を読み、ああ分かったと思うところがあれば、その日はそこまで。次の日も分かったと思う言葉に出会うまで読む、そのように毎日読み進めて、神様をほめたたえながら死んでいった」という話は今も忘れられない。

 

53節、まず初めに、

心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。5:3とある。

ああ、そうか、イエス様はこの山上の説教で、天の国に住む人について、どのような人が天の国に迎え入れられるのかを告げておられるのだ、と気づく。

多くを教えられた後、721節には

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行うものだけが入るのである。』とある。

そうか、これはこの世で上手く、良く生きるための方法ではなく、天の国(ルカ福音書では神の国)にふさわしい生き方、心構えが書かれているのだ。

 

ヨハネの黙示録に、天の国(神の国)の印象的な描写がある。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

お葬式でもよく読まれるし、この言葉に慰められる人は多い。だが、この神と人が共に住む国、「天の国」にふさわしい人とはどのような人であるか、それをイエス様がここで語っておられるとすれば、これは大変だ。

この世でどのように生きても、自動的に「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」国に迎え入れられると、イエス様は言われていない。天の国の扉は自動ドアではない。心して読まねばと、改めて思う。

 

この山上の説教を、虚心坦懐に読めば(なるべく素直にというくらいだけれど)、なるほど天の国とはこういうところなのだと分かってくる(思いがする)。そして、これらの言葉から、人として歩まれたイエス様のお姿が、ハッとするほど鮮やかに見えるようだ。

「悲しむ人」「迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられた人」「悪人に手向かわないで、求める者には与える人」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る人」

「天の父が完全であられるように、完全である人」「御名が崇められますようにと、真に祈る人」「目が澄んでいて、全身の明るい人」「何よりもまず、神の国と神の義を求めた人」「人を裁かないで、その罪をご自身が負われた人」「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にした人」「命に至る狭い門を入り、一人しか歩けない細い道、十字架の道を歩まれた人」すべてイエス様のお姿ではないか。

 

今まで、こんな教えは無理だよ!と思っていたけれど、ああこれがイエス様のおられる天の国なのだと思うと、何と慕わしいことか。天の国の様子をこんなにさやかに教えてくださって、「わたしが共にいるではないか、大丈夫だ」と、今も手を伸べていてくださる。

山上の説教は、自分の力ではどれ一つできないけれど、「わたしについて来なさい」「わたしがあなたに力を与える」と言われるイエス様のお言葉を信じて、ただ信じてついて行こう。そのために与えられた人生だもの。