福音 №375  201988

「恐れることはない。ただ信じなさい」

 

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 マルコによる福音書10:4652

 

 イエス様の求めておられる信仰って、これだよなあ~って、心に深く響いてくる。このお方こそ救い主と信じて、イエスに向かって「わたしを憐れんでください」と叫び続ける。これこそ、自分の力では生きることのできない、罪深い私たち人間の真の叫びなのだと、バルティマイの姿からひしひしと伝わってくる。

人がこの世で生きていくためには医学の進歩も経済問題も大切だけれど、このバルティマイが最新の医療で目が見えるようになり経済的に自立しても、それで満足してしまったら、ダビデの子イエスに出会って躍り上がった喜び、「なお道を進まれるイエスに従った」という最高の人生を得ることはなかっただろう。

 

聖書は、神と、神がこの世に遣わされたイエス・キリストを信じるという一点に重きをおく。人の一生は、神を信じるためにあると言っても過言ではない。

イエス様がご自身についてくる大勢の群衆を見て、「飼い主のない羊のような有様を深く憐れまれた」とあるが、その憐みとは、食べ物がないことを心配されたのではなく、信ずべき真の神を知らないでさ迷い歩く民衆の姿に、内臓がよじれるほどの痛みを覚え苦しまれたのだと聞いて、私たちには計り知ることのできない神の愛を思う。

 

あなたがたは鼻から息の出入りする人に  たよることをやめよ。

このような者はなんの価値があろうか。イザヤ2:22

人間の不幸とは、信ずべき神を知らず、人に頼り、自分に頼り、埋めることのできない恐れや不安を胸に抱いて生きることではないか。

 

福音書には、「信じなさい」というイエス様のお言葉が、今も力強く語られている。

死にそうな幼い娘を助けてほしいとイエスのもとに来てひれ伏すヤイロ。その時、「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と、友人からの知らせが届く。「もう、先生を煩わすには及ばない」とは、事ここに至っては、イエスに来ていただいてもしようがないとの思いがこもっている。どうにかなりそうなとき、一生けん命祈っていても、ことが最も深刻になったとき、神と主イエスへの信頼も揺らいでしまう。これはどうしようもないことなのだという、この世の声に打ち負かされてしまいそうになる。だが、その時、主イエスは言われた。

「恐れることはない。ただ信じなさい。」マルコ5:36

これこそわれらが主、イエスの言葉である。私たちには、ただ信じることだけが求められている。信じぬく以上に、神に栄光をささげるすべはないのだと、示される。

 

「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。マルコ11:2223

このイエスの言葉に、なるほどなるほど、では私もそうしようと思う人がいるだろうか。そうか、これが神の子イエスと、罪人なる私たちとの決定的な違いなのだと実感する。主イエスは、100パーセント神を信じた人であった。神とイエスは信仰によって一つであった。神を信じるという、その一点においてイエス様と私たちの間には無限の距離がある。越えることのできない深い淵がある。その深い淵に、十字架の贖いという橋をかけて、私たちが神のもとに行けるようにしてくださった。

 

「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」ヨハネ14-1

この単純な言葉に、私たちのすべてがかかっている。

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音(イエス・キリスト)を信じなさい。」

戦争のない平和な世界、一人一人の人権が守られ誰も見捨てられず、すべての人が大切にされる、美しく自由な社会。心ある人はみな、こんな世の中であるようにと、それぞれに日々努力を重ねているのを思う。あの人も、あの人も、あの人も。

だが、イエス様は言われる。完全に善い国である神の国は、善い人たちの住まう国である。心の清い人、良い意志を持つ人、「よりよい世界を求めようとする者は、よりよい人間にならねばならない!」と。

時代が進み、生活の豊かさや便利さが、いったい人を良くしているだろうか。私たちは文明の進歩と共に、善い国に住むにふさわしい者となっているのだろうか。

 

「人の心は何にもましてとらえ難く病んでいる。

誰がそれを知りえようか」

2600年も前の、神の人エレミヤの言葉であるが、今の世の中を見れば、私たちの現実そのものではないか。世界中どころか、自分の心ひとつ愛と正義で満たすこともできない私たちの無力さを、現実の世の中を見せて、これがあなたがたの心だと突きつける。

今の私たちにできること、しなければならないことは、「主よ、憐れんでください」と、バルティマイと共に叫ぶことではないか。心の目が開かれ、人間の悲惨を喜びに変えてくださる主の愛を見るために。