福音 №376 20199

「平和―共に生きるために」

 

キバナコスモスの咲く白い道。病院の入り口から公道まで、ほんの数十メートルのタイル道を往復すると、うれしそうに「きれいですねえ」と言う。今日は、そのキバナコスモスの脇に咲いている白いタマスダレを見つけて、「こんな花もある!」とますますうれしそうだ。もう2年近く一緒に散歩している私の名前は覚えなくても、花好きになってくれて、それで十分だと私もうれしくなる。病院の入り口に咲く白いサルスベリの花を自分から指さして「ここにも」と教えてくれるなんて、夢のようだ。

そこからぐるっと回って、裏庭に出て、9月の空はどことなく秋の気配。駐車場の横の果物畑、青い柿の実もだんだん大きくなり、「柿ですね」というと「いや、ミカンだろう」と言う。ミカンの木の前に立ち、「これがミカンです」というと、「ミカンですか」と心もとないが、青い空と遅くに田植えした稲の緑があまりに美しくて、思わず「神様に感謝しなくては」と言うと、「それはそうです」と神妙に答えてくれた。

ほとんど寝たきりのお年寄りと認知症の方の介護病棟の隣は精神科病棟。お散歩していると、何人かの方と挨拶するようになり、「今日は来ると思ってました」と言ってくれる人もあり、ただ顔を見るだけでお互いの存在を喜び合うことのできる不思議な世界に、「あらゆるところで、お互いが共に生きることを求める・・・これが私たちに与えられている課題です」とあったのを思い出した。

その文章は、私の日常のようなささいなことではなく、深く強く考えさせられたのでここに書きます。

 

「さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。」ルカ10:3-5

戦争で倒れたこの人々の墓の前で、今この時代に生きている私たちは何をなすべきでしょうか。

キリストは、どこの家でも「平安があるように」と祈り求めよと命じられます。言うまでもなく、平安は平和です。平和とは共に生きられることです。戦争とは、共に生きられないことです。

あらゆるところで、お互いが共に生きることを求める・・・これが私たちに与えられている課題です。

「だれにも道であいさつするな」と、このことについて主は注意されます。道であいさつしないのは戦闘中の軍隊です。平和は戦争と同等の、いや、それ以上の努力をもって作り上げられるものなのです。

共に生きられる状態を作り出すことは、人類最高の労作です。争い戦うことはむしろ努力はいらないのです。雑草がはえるように、うかうかしていればいつも自然と争いは起こります。真の平和は泰平ムードで作り出すことはできません。それは平和の浪費です。あの戦時に、徹底して武器を造り、いのちがけで戦ったのに劣らぬ力をこめてこそ、今、この平時に私たちの憲法が目ざしている平和は造り出され、また維持されるのです。

「財布も袋もくつも持って行くな」との主の言葉は、輝く希望を私たちに与えます。日本キリスト教団の日本全国の教会の予算総計が、自衛隊戦闘機3機分の費用と同じ…これが現実です。一体私たちの努力は、比較にならない膨大な費用と資材を動員して遂行される世の流れに対して、どれだけの力を持つのでしょうか。主の言葉は、私たちの使命が、この世の力以外のものによって無比の力強さをもって支えられていることを明らかにします。

この使命、課題、希望を与えられている私たちの指針として聖書のもう一つの言葉に注意しましょう。

わたしはまた王たちの前に

あなたのあかしを語って恥じることはありません。詩篇119:46

(19679月。815日の千鳥が淵戦没者墓苑での祈祷会のすすめ 鈴木正久聖想より)

 

「王たちの前に、あなたのあかしを語って恥じることはありません。」と聞いて、イエス様の語られたマルコ福音書13章、「終末の徴」を思い出す。

 

あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。 マルコ13:9-11

 神様は善きものをあふれるばかりに与えてくださる。木々の緑も空の青さも、耳を澄ませば虫の声、季節の果物や食べ物も、「こんにちは」と声をかけ合う隣人も、今日一日受けた恵みは数え切れない。それにもまして最高の喜びは、私たちの主イエス・キリスト、十字架の愛。だが、そのキリストのために、すべての人に憎まれ、苦しめられ、長官たちや王たちの前で証せねばならない日が来ると言う。この罪の世はいつか必ず滅びねばならず、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」マタイ24:14 

終わりの時、迫害の中にあって「語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である」とある。どんな試練が来ようと、キリスト者の最大の備えは、キリストを主とあがめ、聖霊の導きに委ねること。主の歩まれた道を、主と共に歩むこと。

今はキバナコスモスが咲き、春には桜が、夏には真っ赤なサルビヤが咲く白い道も、祈りつつ歩むなら、きっと天につながる道になる。この平時にこそ共に生きる努力を惜しまないようにと、澄み切った空が語っている。