福音 №380 20201

「信じるとは」

 

アブラハムは、主を信じた。

彼は、どんな目も見なかったものを見、

どんな耳も聞かなかったものを聞いた。

彼は、何も望みえないときに望んだ。

彼は、自分がどこへ導かれるか予想せぬままに、従った。

彼は、不可能なことをした。

・・・・

アブラハムは、主を信じた。

そして、その信仰に基づいて生きた。

・・・

神は、彼の生涯に、意味と方向を与えられた。

神は、山を越えて彼を導かれた。

神は、彼を、新しい被造物とされた。

・・・・

彼は、自分の故国と友人から離れ、

神が自分に示そうとされる国に赴き、

その強情な親族ロトと平和を保ち、

ロトをその敵の手から勇敢に救い出した。

彼は、神と語り、正しくない者たちのためにとりなしをし、

最後には自分の最愛の者をも神以上には愛さないということを示した。

それらすべてのことを、

彼は、その信仰に基づいてしたのであった。

もちろん、彼の生涯には、様々な困難・問題・疑惑があった。

しかし、それらのものが、彼の優位に立つことはなかった。

一つの道が、それらのものの中を貫いて通じていた。

アブラハムは、その道を歩んだ。

神は、彼と共にいました。

・・・・

アブラハムは、主を信じた。

そして、彼は、その信仰によって、自ら生きただけでなく、歴史を造った。

アブラハムの信仰は、

数千年を貫く人類の進展に意味と方向を与える、

自由の創造的行為の一つであった。

・・・・・

「アブラムは主を信じた」。

これは、驚くほど単純な言葉に聞こえる。

実際、信仰は、単純なものであり、

世の中でもっとも単純なものである。

信仰は、日光であり、呼吸であり、

子供の笑い声であり、小鳥のさえずりである。

「やさしい花が喜んで花開き、日の光に静まっているよう」な

ものであり、成長であり、現存である。

信仰は、単にそれら一切のようだというのではなく、

それら一切である。

・・・・

信じるとは、神をして語らしめるということである。

信じるとは、単純なことを行うということである。

信じるとは、生きようとするということである。

・・・・

人間は信仰によって強くされる。

信仰は、(神によって)世に打ち勝つ勝利である。

信仰は、現在の見せかけの生の代わりに現れようとする

新しい真実で根源的な生である。

・・・・・

信仰において強くされるためには、現在のこの瞬間が、

いつもふさわしい瞬間なのである。

・・・・

信仰とは・・・何か特別な変革的な体験ではなくて、

われわれがすでに知っているものを

単純に真剣に考えることであって、

それは、各瞬間に開始し得ることである。

われわれが、一瞬間静かにして、・・・

われわれの心の中で真実なものに注意を払うならば、

神の慈しみ深い姿は、極めて明瞭に

われわれの前に立つのではないであろうか。

われわれのためのそのような神の厳粛さと愛のすべては、

イエス・キリストの現れによって、

われわれに示されたのであった。

・・・・

信ずるということは、苦心して獲得された

神秘的ないし終末論的気分ではない。

信ずるということは、麻酔でもなく夢でもない。

信ずるということは、目を開くということである。

信ずるということは、誠実になるということである。

・・・・

アブラハムは神の応諾を子供のように真剣に考えたので、

神は彼を祝福し、祝福された者とすることが可能であった。

彼の生涯は、能動的で実り豊かで活き活きした生涯であり、

神のよしとされる生涯であった。

それは、アブラハムが信じたからである。

・・・・

「一切はあなたがたのもの、あなたがたは神のもの」1コリント3-22

これは、「人間よ、本質的であれ」という激しい招きの言葉である。

この招きは、すべての人に向けられている。・・・

われわれは・・・極めて静かに、

神を他の一切のものより真剣に考えるということで、

いささかなりとも始めようではないか。

・・・・

信じる者は何ごとかを行ない、

ただひとつ必要なことを行う。

(カール・バルト説教選集6「ただひとつ必要なもの」より抜粋)

 

昨年12月から、友人とスカイプで「カール・バルト説教選集」の読書会を始めた。私はここ数年この説教集を読む度に、内に生命が流れ始めるのを感じ、この驚くべき喜びと不思議な力は何なのだろうと思っていたが、今回一つの説教をくり返し読むことで、「神を信じる」ということの圧倒的な力、喜びの源泉を知らされた思いがする。

 

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」創世記15:6

アブラハムの信じた主とはキリストなのだと気づいたとき、私たちにも「必要なことはただひとつ」ルカ10:42だけだと示された。

 

新しい年も、この一すじの道を。

一すじの道を淡々と

一すじの道をひたむきに

一すじの道を歩み続けよう。

「われは道なり、真理なり、命なり」ヨハネ14:6と主イエスが言われるから。