福音 №391 202012

「クリスマス」

 

今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。ルカ福音書2:11

クリスマスとは、このことである。

このたった一つのことである。

 

「今日」、私たちは、救い主が生まれたという最高の知らせを聞く。

今日とは、何とすごい日だろう。

悔いの多い、または誇らしげに過ぎ去った日々ではない。

♪明日がある、明日がある、明日があるさ♪と歌っても、明日があるかどうか、私たちには分からない。

でも、今日は私たちに与えられた日である。今日にはすべてが詰まっている。冬の寒さも、コロナの重苦しさも、うれしいことも、苦しいことも。そんなもろもろのことに覆い隠されてはいるが、耳を澄ませば「今日、救い主が生まれた」と告げる天使の声。

その声を聞くなら、時間の中にあって今日、永遠への扉が開かる。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

心をかたくなにしてはならない」へブル4:7

 

「あなたがたのために」救い主が生まれた。

この「あなたがた」に入っていない人もいるのだろうかと、ルカ福音書210節、11節を読み返してみた。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」

「すべての民に与えられる大きな喜び」とは、「救い主がお生まれになった」ことである。しかしここでは「すべての民のために救い主がお生まれになった」と言わないで、「あなたがた(直接には羊飼い)のために」と言われている。

そうか、救い主はすべての民のためではなく、あなたがたのために、私たち一人一人のために生まれてくださったのだ。

しかし、この「あなたがた」からもれる人は一人もいない。救い主の誕生は、すべての民に与えられる喜びなのだから。そうか、このクリスマスの喜びからもれる人は一人もいないのだ、その人が何を信じていようと、良い人でも悪い人でも、泣いている人にも笑っている人にも、「クリスマスおめでとう!」と声をかけていいのだ。今はマスクをしているから都合がいい。ほんの小さな声で、道行く人にも、一人一人に心込めて言おう。「クリスマスおめでとう!今日、あなたのために救い主がお生まれになりました」と。

 

「救い主」とは、助け主である。私たちはみな、誰かに助けられて生まれてくる。だが、死ぬ日に助けてくれる人はいない。死に逝く人を誰も助けることはできない。まして、死んだ後の世で誰が助けてくれるだろう。

私たちと同じように、捨てられて助けなく十字架の上で死なれ、神によって三日目に復活させられたイエス、このお方だけが私たちを助けて下さる。

地上であなたを愛していなければ、

天で誰がわたしを助けてくれようか。詩篇73:25

この詩編の言葉もキリストを証している。

 

主をたたえよ

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

主、死から解き放つ神。  詩編68:20-21

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マタイによる福音書1:1823「イエス・キリストの誕生」から

 

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

なんとリアルな文だろう。イエス・キリストがお生まれになるのに何の造作もない。

あったのは母マリアと婚約中のヨセフ、二人の素直な心だけだった。

 

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 

   神は神であり給う。その神なるキリストが、普通の人として生まれ、普通の人として私たちの間に住まわれるために、普通の娘マリアの胎に宿られた。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」マルコ10:27とあるが、神のなさり方はいかにもシンプルで、人の好む飾りや華やかさはなにもなかった。あったのは、マリアとヨセフの、神を神として生きる従順だけだった。

 

イエスは星の光ように、手の届かない遠くにあって光っているのではない。私たちのあこがれや理想を呼び覚ます彼方の光ではなく、自分が何者であるかもわからず混乱と悲惨をくりかえす私たちの暗さに分け入って、その暗さである思い煩いをすべて引き受けてくださり、私たちを明るくしてくださる。「この子は自分の民を罪から救う」という御言葉は、信じる者の日々の現実となる。

 

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

   冬枯れの野道を歩くと、畑にいる人、センダン草やススキ、近くの大きな病院も、すべてが明るい。主の慈しみにつつまれている。

クリスマス!

人となってこの世に来られた神、イエス様がここにおられる。その明るさが、畑を耕している人、犬の散歩をしている人、閉じられた病室にいる人、すべての人を包んでいる。「夕暮れになっても光がある」ゼカリヤ書14:7

わたしたちと共にいてくださるイエス様の明るさ。

今日、天使たちが告げ知らせる大きな喜び。