福音 №386 20207

「ヨブ記を読んで」

今月は「ヨブ記」の感想です。

神の前に正しく生きるヨブが、なぜこれほどまでの苦難に遭うのか。ヨブの叫びと友人たちとの激しい論争。集会で通読したり、それぞれが感話をしながら読み進めたこともあったが、一人で一気に読んだのは初めてのような気がする。それでも、その時々に学んだことは覚えており、ヨブを慰めるために来たはずの友人の言葉がだんだん刺々しい、ヨブを責める言葉になっていくのを、ああそうだった、苦しむ人にこのような言い方だけはすまいと心して読み進めていると、エリフの言葉になり、神の言葉になり、

「あなたのことを、耳にしてはおりました。

しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し

自分を退け、悔い改めます。」

というヨブの言葉に、これこそヨブ記の指し示す人生の意味だと、青空を突き抜けて神の世界を垣間見たかのような思いで、心いっぱい42章を読み終えた。

 

 今回特に心に届いたのは、父なる神が世の人々を救うためイエス・キリストを送ってくださった、このキリストこそ私たち人間にとってなくてならぬ神であると、ヨブの告白の中に預言のごとく記されていたこと。

キリスト教の神は三位一体であって、良く歌われる讃美歌でも

  聖なる 聖なる 聖なる 主よ、

夜ごと、 朝ごとに ほめたたえん。

三つにいまして ひとりなる

主こそ力に 満あふる。

とあるように、父なる神、子なるキリスト、聖霊が三つにいまして唯一の神である。子なるキリストを語るのが新約聖書であるが、旧約聖書もまたキリスト預言の書であると、「聖書はわたしについて証しをするものだ」というキリストの言葉の真実を思う。

 

 神を畏れ、悪を避け、正しい道を歩むヨブを襲った突然の苦難。子供たちも財産もすべて奪われ、それでもヨブは言う。

  「わたしは裸で母の胎を出た。

  裸でそこに帰ろう。

主は与え、主は奪う。

主の聖名はほめたたえられよ。」

これらの苦難は、義人ヨブに神を呪わせようとするサタンのもくろみであったが、それでも神を非難しようとしないヨブ。ヨブの正しさを喜ぶ神にサタンは言う。「骨と肉に触れ」酷い病苦をもってするなら、たとえヨブであっても神を呪うに違いないと。

「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」という神の言葉に、サタンの業もまた神の御支配の内にあるのだという深い慰めを覚えつつ、しかし、それからのヨブの苦しみは過酷だった。ヨブを見舞うために来た3人の友人も「その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」とある。

 

持てるすべてを失い、激しい苦痛の日々。はじめは同情的だった友人も、ヨブのあまりの苦しみを見て、それでも自分の正しさを主張するヨブに腹立ち、その苦しみは罪の結果であると認めさせようと迫る。

だが、誰に何と言われようと、天を仰ぎ、神に訴え、神に問うことを止めなかったヨブは、友人の断罪の言葉に追い立てられるように、ついにキリストの存在を預言する(キリストを待ち望む)言葉を発した。

このような時にも、見よ、

    天にはわたしのための証人があり

高い天には

    わたしを弁護してくださる方がある。

わたしのために執り成す方、わたしの友

神を仰いでわたしの目は涙を流す。16:19-20

ヨブは天におられるキリストを信じた。

 

「わたしを弁護してくださる方、わたしのために執り成す方、わたしの友」

お葬式でも結婚式でも、キリスト教式ならいつでも歌われる讃美歌「慈しみ深き」を、苦難のただ中でヨブも歌った。

  慈しみ深き 友なるイエスは

  罪 咎 憂いを 取り去り給う

  心の嘆きを 包まず述べて

  などかは降ろさぬ 負える重荷を

 

そしてついに、ヨブは再臨の主を待ち望む者とされる。

わたしを贖う方は生きておられ

ついには塵の上に立たれるであろう。

この皮膚が損なわれようとも

この身をもって

   わたしは神を仰ぎ見るであろう。

このわたしが仰ぎ見る。

ほかならぬこの目で見る。

腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。19:25-27

「ここでヨブの言う、『わたしを贖う方』、『ついには塵の上に立たれる』お方、これは再臨の主だと信じています」と教えてくださった方の言葉が耳に響き、今私も心からアーメンと言おう。

 

 イエス(キリスト)に向かって、「あなたは自分を何者だと思っているのか」と詰め寄るユダヤ人に、イエスはお答えになった。

「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」

信仰の父アブラハムもキリストを待っていた。

苦難の人ヨブの希望も、ただキリストにあった。

パウロは私たちのために祈り、語りかける。

「あなたがたが・・・、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」エフェソ3:18-19と。

 

私たちの日々の困難、これから出会うかも知れない苦難、罪の苦しみさえも意味のないものは何もなく、このキリストに出会うため。人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知るためなのだと、ヨブ記は語っていた。