福音 №387 20208

「肉」と「恩寵」

御言葉が開かれると光が射し出で

  無知な者にも理解を与えます。   詩篇119:130

 

訳者が「この難解をもって聞こえた書物」と書いているけれど、幸いなことに日本語に訳されているのだから、日本語なら大丈夫、さあ読もう、と読み始めて、5%くらいしか分からないなぁと思いながら、それでも止められないのは、その難解な文章の中に、あっこれだ、と震撼させられる言葉があって、今までぼんやりしていたものが、鮮明な言葉となり、夜空の星のように輝きはじめるから。

 

「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」

  「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。」

これは、ロマ書7725節「内在する罪の問題」というタイトルの中にあるパウロの言葉であるが、「わたしは肉の人であり」、「わたしの肉には、善が住んでいない」と言われても、いったい「肉」って何なんだろうとぼんやりとしている。この箇所の注解書も色々読んだし、解説も聞いて、その度にそれなりに分かったような気になるが、でも、その後「わたしは肉の人であり」と素読するとやはりぼんやりしている。それが

「肉とは、全くの相対性、虚無性、無意味のことである。それが私である!」

とあるのを読んで、「アーメン、それが私である」と声を上げそうになった。

 神様を知るまで生きることが苦しかった。本当に苦しかった。

それが私の「相対性、虚無性、無意味」によるものだと知って、ことごとく納得がいく。

 

 神様だけが、「有りて在る者」出エジプト3:14、絶対者。

「人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることもできません」とエレミヤ10:23の告白の言葉にあるように、また

「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか」と箴言20:24にあるように、人は自分で存在し得る絶対性をもつ者ではなく、創造主なる神にあい対する者として造られた。神様にあい対するまでは、糸の切れた凧のように風まかせ、成り行き任せ。いつ地震が起こるか、次はどんなウィールスに襲われるか、これでは天地異変もないとは言えない・・・そんな不安と動揺の中にただよう者。

 

私にとっても生きる苦しみとは、紛れもなく自分と言う存在の虚無性、無意味のことだった。だから、「人生、目的を持ってがんばろう」「希望を持ちなさい」「努力が大切」などいくら言われても心に届かず、そんな現世的な思いをもつより、虚無的な気分がまだ高尚にさえ思われた。

私だけでなく、そんな思いでこの世に夢中になれず、空しく生きている人がきっといるに違いない。なぜか生きることが虚しくて、やる気が起こらず、心が渇いている人、そのような人にこそ伝えたい。虚無的な心を満ちたらせ、生きる意味を与えてくださるお方がいると。  

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

と言われるイエス・キリストがおられると。このお方こそ、「有りて在る者」。ギリシャ語でくり返し教えられた「εγω ειμι」、存在そのものであるお方。私たちの肉なる「相対性、虚無性、無意味」を、霊に生きる新しい人に造り変えてくださるお方。

人間は人間であるだけでは足りない。神に造られた者として、神を神として生きる喜びを、キリストによって新しくされる喜びを、今虚しく、生き辛い人にこそ伝えたい。

 

恵み・恩恵・恩寵・Χαρισについて 

「恩寵とは、人間がある事をなしうるとか、なすべきであるとかいうことでもなければ、人間が何事をもなしえないとか、なすべきでないとかいうことでもない。恩寵とは、神があることをなし給うということである。恩寵とは、神が『一切』をなし給うことではなく、極めて特定的なある事を、しかも一般的に随所にでなく、人間になし給うということである。恩寵とは、神が人間にその罪を赦し給うことである。恩寵は新しい人間の自覚である。」

 

ここを読んで「目が覚めた」思いがした。パウロの手紙にもペテロの手紙にも「恵みと平和があなたがたにあるように」と書かれているから、ごく自然に「ご一家に恵み豊かでありますように」と手紙の最後に添えたりする。「神の恵みがありますように」と言われて気を悪くする人もいないだろうし、恵み豊かな人生って何となくいい感じだし。でもそう書く度に、ともかく相手にとって嬉しいこと、素晴らしいこと、良いことがあればいいなって願うくらいで、「恵み」がピンポイントの言葉ではないという自覚があった。ところが、

「恩寵とは、神が『一切』をなし給うということではなく、極めて特定的なある事を、しかも一般的に随所にではなく、人間になし給うということである。」とあるのを読んで、それこそ「恵み」という言葉を包んでいた霧が晴れる思いがした。恵み、恩寵がピンポイントで輝き、それは天地を貫いてそびえ立つ十字架の光だった。

 

「恩寵とは、神が人間にその罪を赦し給うことである。」

私が誰かに恩寵(恵み)を祈るとしたらそれは、十字架によってその人の罪が赦され、新しい命に生きることを祈るのである。それ以外ではない。ただ健康が守られ、生活が守られ、よき仕事、よき家族が与えられ、この世にあって満ち足りることを神の「恵み」として祈るなら、イエス様は言われるだろう。

「それはみな、異邦人が切に求めているものだ。天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」マタイ6

「恩寵は新しい人の自覚である。」

恩寵の下にあるとは、新しい人を生きることである。