福音 №418  20233

「イエスのもとに留まれ」

 

「愛する友よ!

世界は目標を持っており、私たちの人生もまた目標を持っている。全て存在しているものや起こっているものは、この目標に向かっている。先週この会堂の外であったこと全て、労働や苦しみや自己満足の全て、敢行や企画や疲労の全て、戦争時の射撃や急襲でさえも、全てはこの目標に向かっての一歩に過ぎない。そしてまた、あなたが先週考え、行い、語り、あるいはまた苦しみ、罪を犯したこと、それがこの会堂の中であれ、畑であれ、工場であれ、それら全てもこの目標に向かっての歩みだったのである。そうして、今週もそうであろう。世界においてまたあなたにおいて起こることは全て、前方へ流れる大河の一滴である。どんなことであれ、ついでに起こったようなこと、どうでもよいこと、些細なこと、大切ではないようなことは、何もない。毎秒ごとが、先に進む道の一部なのである。全ての道は、それらがどんなに離れていようとも、最後には合流し、同じ目的地に至るのである。・・・」

 

このように書き始められた、カール・バルトの「1ヨハネ2:28-29による説教」(説教選集16)。一行一行ぐんぐん引き込まれていき、毎日読み、ワードやテキストファイルにして友人に送ったり、みんなに読んでもらいたくてしようがない。

ノートを見ると2017年頃から説教選集を読み始め、読んだだけでは足りず、朗読したり、ワードに書いたり、スカイプで読書会をしたこともあるけれど、十分分かち合えるというところまではいかない。これだ!これが福音だ!これがキリストだ!ここにはすべてがある!と感動するのに、それをうまく説明できないのは、そこで語られる言葉の力に圧倒されて、よく分かったような気になっているだけかも知れないが、それでも、主の憐みに期待して、ヨハネの手紙から語られる「世界の目標」「私たちの人生の目標」について、ごく簡単に要約してみます。

 

「聖書ではこの目標について多くのことが語られている。しかも書の主たる目的の一つは私たちにこのことを想起させることである。」p72

聖書の目的の一つは、世界と人生には目標があることを私たちに思い起させることであるという。世界と人生、全ての道には終わりがあって、旧約聖書はそれの予感であり、新約聖書でははっきりと「最後に御子イエスが現れるとある。私たちはこれを書かれている通り全く単純に理解しよう」と明快に語りかける。そのためには

「世とその欲望は過ぎ去る。しかし神の意思を行う者は永遠に留まる」1ヨハネ2:17

を考えさえすればよいと、聞く者(読む者)の心に刻まれるような説き明かしが続く。

 

世、この欲望と痛みをもった世界には、人の誕生、成長、衰弱、死があり、私たちの考えには、真理も誤りもある。私たちには徳や優れた点もあるが、影の部分もある。人間的な計画による政治、工業、科学、福祉、宗教は人に幸いをもたらすが、しかしたいていは災いをもたらす。私たちには喜び、知恵、富、進歩もあるが、毎日見ているように、不自由、心痛、病気、貧困、停滞、死もある。

 

「この世界の只中に、それらとは違った何かを、この世界からまったく離れている何かを拓き、開始された一人の人がかつておられた。このお方こそイエスであった。」p73

「彼が開始されてものは、神の意思の行為であった」

 

この言葉を心にくり返すだけで、「われは道なり、真理なり、命なり」と言われるイエスが立ち上ってくる。

今も御手を伸べて「わたしを通らなければ、だれも父()のもとに行くことができない」と呼んでおられるイエスさまの御声が聞こえる思いがする。

 

今は、イエスも、イエスが父なる神によってこの世で始めたことも隠されている。拒否され、忘れ去られている。「しかし最後にはイエスが、主権をもったお方として、はっきりとした姿で立ち給うであろう。」

「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるのである。」ルカ17:24

これが全ての事物の終わりなのである。これが目標であり、全ての世界の歩み、人類の歩みの目標である、と語られている。

 

その時には、イエスから大いなるまばゆい光が射し出る。そして過去に起こった時間の一亥たりとも、この光の当たらないものはない。彼は生ける者と死せるものとを裁くために来たり給う、ということが起こる・・・

「その時には身分の高いものや低いもの、利口なものや愚かなもの、こういう顔をしたものやああいう顔をしたもの、というような区別はない。その時には私たち全てに唯一つの質問が投げかけられるであろう。すなわち、あなたは自分の道をどう走ってきたのかと」p76

個人だけではない、さまざまな共同体も答えねばならないであろう。「あなたがたは与えられた時間において、永遠のために生きたか、それとも空しいもののために生きたか、と。」

 

しかし、「恐れることはない」と語りかける。ヨハネはこのことを、悔い改めを迫る説教者のようにではなく、子供(私たち)を良く知っている父のように、この手紙を書いているのだから。

「子どもたちよ、私のところにとどまれ。」

「あなたがたはイエスのものだ」

「あの審判に備えてあなたがた全てのために万事良く準備されている」

「イエスはあなたがたのために神の意思を行われた。イエスはあなたがたのために、時間の中で永遠を開始された。」

「あなたがたの罪は赦された。」

「イエスのもとに留まりさえすれば、最も深い根底においては、正しい行いが始まっている。」

 

正しい行い、

「ほんの僅かな勇気と誠実と善、自由な言葉と愛の行為、無邪気な笑いと憐みの涙という、人々が気づくようなイエスからの小さな贈り物があれば、その者はナザレのイエスと一緒だったのである。」

「そうだ!彼のもとに留まれ!」と結ばれている。

 

アーメン主よ、あなたのもとに留まらせてください。