福音 №420   20235

思い煩うな

 

 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 マタイ6:28-29

 

倉吉に住む友人と、「野の花同好会」と称して、散歩で見つけた野の花を電話やメールで報告し合っている。友人曰く、「野の花の名前を調べたり、知らない花を見つけたり、散歩が楽しみになった」と。「次の朝ドラは、牧野富太郎。本を2冊買って読んでる」と教えられ、私も(初めて)朝ドラを見るようになった。彼女から届いた野の花だより、今年になってからでも、「寒さが厳しいのにコマツヨイグサが咲いてた」「我が家の庭にヒメオドリコソウを見つけた」「タネツケバナ、ツクシ、ホトケノザ・オランダミミナグサなど春の花いっぱい」「散歩で身も心も爽快、イチリンソウを押し花にした」「次々と春の花がいっぱい!山際にはルリソウとオオタチツボスミレが咲いてた。」「今日はイチリンソウの群生を見たよ。奇麗だった」と写真付きの報告に私もうっとり。「山渓カラー名鑑・日本の野草」という同じ図鑑を使っているので、名前がわからない場合も、写真を添付してお互いに調べ、これは〇ページにあると分かると喜び倍増!ここ数日は、ヒメジオンとハルジオンの見分け方で盛り上がっている。

 

「鳩が木に入ったけど」という夫の声に、少し気をつけて見ていると、小枝か何かをくわえた鳩が、庭の金木犀の木に入った。ベランダから数歩、まさか、でも以前もヒヨドリが巣をしたのを思い出して、次の日。何と、もう卵を抱いているような姿の鳩にびっくり。今年は新芽の勢いがすごくて葉におおわれて巣は見えない(そして、ご近所の迷惑になってはいけないから、雛が巣立ったら枝を切ってしまうつもりだ)けれど、いただいたライカの小さな双眼鏡で見ると、葉の隙間から鳩が目の前にいるようにはっきり見える。なんと可愛い目、首にシマがあるからキジバトと観察していると、家族が増えたようなうれしさ。イエスさまは「空の鳥をよく見なさい」と言われたけど、絶好のチャンスだ。

 

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。マタイ6:26-27

 

ところが鳥を観察していると、イエスさまはなぜ人に「思い悩まなくていい」例として、空の鳥をあげられたのか、分からなくなる。どう見ても鳥と人間では違いすぎる。だいたいアダムとイブの時代から人には、「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・・お前は顔に汗を流してパンを得る」と言われているではないか。それはもちろん人が神に背いたからだが、罪をもたない鳥や花を、人間と同じ土俵において「野の花を見よ、空の鳥を見よ」と言われても、真似できるわけがない・・と思ってしまう。

そんなことを考えながら、来週の礼拝聖書箇所、「ヨブ記」38章の予習をしていて、

「あなたに尋ねる。わたしに答えてみよ」という神の言葉に、

天が地を高く超えているように

わたしの道は、あなたたちの道を、

わたしの思いは、あなたたちの思いをはるかに超えている。イザヤ55:8-9

との御声が聞こえる思いがした。

ヨブは思いがけない艱難辛苦を受けて、3章からずっと、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない」「どうか、わたしの言うことを聞いてください。」と自分の正しさを主張、その立場を譲らず叫び続け(私たちはヨブ記を読み続け)やっと、38章。

「主は嵐の中からヨブに答えられた」と、待ちわびた神の答え。

ところが、神はヨブに苦難の意味を教えるどころか、「あなたに尋ねる。わたしに答えてみよ」と、神がヨブに問いかける。

 

わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。・・・

  お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるのか・・・

  死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるのか・・・

                       ヨブ記3841217

罪ある人間が、空の鳥のように思い煩わず生きられるはずがない、どころではない、

人間が、神の創造「大地を据え」「朝に命令し」「死の闇の門」など、見たはずがない。

なのに、神は自分の正しさを主張して止まないヨブに、「わたしに答えよ」といわれる。

 

「神はヨブに問いつめられるようなあわれな不自由な神ではなく―従ってヨブの作った偶像ではなく―正にその逆に世界を創造した神、従ってヨブの創造者であり、ヨブに答えを要求する神なのである。人が神を求める方向が逆転して、神が人を求め給うことに気付き、神の側から絶えず生かされることが、聖書の信仰である。その逆が凡ゆる宗教の道である」

こう記される関根正雄・ヨブ記註解は、キリストこそ「神の側から人の方に向いて下さった」最後決定的な神の恵みの出来事であり、人生、あらゆる不可解な苦難の中にあって「神の世界支配の秩序への信仰は」キリストの十字架にあらわれた神の義によって保証されていると、感動的に解き明かされていた。

 

空の鳥と人では違いすぎます、とつぶやく者に、イエスさまの御声が聞こえるようだ。

「鳥も人もわたしが創った。」

「わたしを主と崇めながら、わたしの愛と赦しを信じないのか。」

「わたしが、あなたを罪のままで放っておくと思うのか。」

「わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのものだ。」

 

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。マタイ福音書6:32-34