福音 №422   20237

「ヨブ記」

 

わたしは裸で母の胎を出た。

裸でそこに帰ろう。

主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ。」ヨブ1:21

この、ヨブの見事な神への信頼の言葉で始まった「ヨブ記」を、20217月から、第一日曜毎に読み続け昨日、ちょうど2年間で読み終えた。42章を24回で学んだわけで、決して丁寧な読み方ができたとは思わないけれど、でも最終回になって、今までのどの学びよりも重みのある学びになった思いがして、感謝した。

「無垢な正しい人」だと神も認めるヨブを、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」とせせら笑う。「人間の信仰なんて、所詮ご利益あってのこと。何もかも奪ってしまえば、ヨブだってあなたを呪うでしょう」というサタンの手に渡されたヨブは、全財産も息子、娘も失い、それでも「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と、神をたたえることを止めなかった。

そのヨブの姿に、「地上に彼ほどの者はいまい」と言う神に、サタンは「いや、人は自分の命のためなら全財産だって差し出すもの、彼の骨と肉を苦しめるならあなたを呪うに違いない」とけしかける。ここに、ヨブを信頼してサタンに「おまえのいいようにするがよい」と任せる神と、何としてもヨブを神から引き離そうとするサタンの戦が始まった。

まもなく「サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた」とあるが、その時のヨブの言葉は忘れられない。

「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」

 

しかし、重い病気の苦しみは今日も昨日と同じではない、日を重ねると苦しみは何倍にもなると以前読んだことがあるが、ヨブも遂に叫び始める。

「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか・・・」 そのヨブの嘆き、訴えをかわきりに、見舞いに来た3人の友人との論争が延々と続くことになる。

いくら苦しくとも自分の潔白を主張して譲らないヨブに、友人たちは「その苦しみは神に背いた結果に違いない、人はみな、自分の犯した罪のゆえに苦しむのだ。神は憐み深いお方だから、罪を認めて神にすがれば癒されるだろう」と、だんだん攻撃になっていく。そんな中で、ただひたすら神に向かって叫び続けるヨブ。

今一度、3章から31章までを読み返し、人生の幸不幸を応報思想で片づけようとする友人たちの批判的な言葉に比して、どこまでも神を求めるヨブの真実、その言葉は生きていた。

「神は悪を行う者にわたしを引き渡し、神に逆らう者の手に任せられた。平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き、首を押さえて打ち据え、・・・彼らは容赦なく、わたしのはらわたを射抜き、胆汁は地に流れ出た。・・・」16:11-13

読んでいると、先日大塚国際美術館で見たイーゼンハイム祭壇画、グリューネバルトの「キリストの磔刑」、2メートルを超える「正視に耐えない」イエス像とヨブの苦しみが重なって、ヨブの嘆きと訴えにイエスさまの苦しみが映し出されているようにさえ思われた。

そのことを、十字架を愛して止まない友人に伝えると、「イエス・キリストは、私たちが負うべきありとあらゆる罪を負い、悲しみ、苦しみ、痛み、恥、苦難の限りを味わって死んでくださった。そのことを想像するだけで今の私は、イエスさま!と叫んでしまいます。まだ磔刑の絵とは向き合えないなあ・・・」との返信があったが、これまでの歴史の中での、ありとあらゆる理不尽な苦しみ、罪の苦しみのすべてが、あのキリストの磔刑には刻み込まれていたのだと得心した。

また、「ヨブ記1315節、文語訳では『彼われを殺すとも我は彼に依り頼まん』となっていました。昔、結核療養所でキリストを信じた人が、次々と死んでいく。そんな中で、このヨブの言葉を合言葉のように、励まし合ったものです」と話してくださったFさんの言葉を思いだした。

 

38章に至って、ヨブの求め続けた神の答えとなるが、この神の答えは、ヨブだけでなく、読む者みなを圧倒してしまうに違いない。(ここだけでも、読んでいただきたいです)。

「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいのか」と、神の創造という絶対性の前に、人間の分際を忘れ、神に従う自分の人生は幸せなはずだと思い上がっていたヨブの潔白は、木っ端みじんに砕かれる。ついに、「どうしてあなたに反論などできましょう。・・・もう主張いたしません」と悔いくずおれるヨブに、神は2度目の答えで、ベヘモット(かば)や、レビヤタン(わに)の姿を誇らしげに語りつつ、

「お前を造ったわたしはこの獣をも造った」、「天の下にあるものすべてはわたしのものだ」

とヨブへの深い愛を示される。すべての創造物を「極めて良い」と言われた神の愛が、混沌と虚無に陥ってしまった自分にも向けられている、こんな自分もまた神の経綸の中にあるのだと知らされたヨブはついに、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」と、神の全能と愛を讃美し、神の勝利を高らかに歌いあげた。

 

ヨブ記は、ヨブにとってはあまりにも理不尽な苦難を通して、「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」と嘆くヨブを、自分のための信仰から、神を神とする神中心の、真の信仰に至らしめられた、神の愛と導きの記録であるように思う。

ヨブのしたことはただ一つ、誰に何と言われても、神を求めることを止めなかった。「どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。」とヨブはただ神に向かって訴え、祈り続けた。

Fさんに教えられたように、私もまた「彼われを殺すとも我は彼に依り頼まん」と、最後まで神を求める者でありたい。