福 音

(2003年)
著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌)


アケボノソウ


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 Tさんへの手紙」「信仰と希望と愛に出会うために」

 Tさん、病院に行くたびにあなたを見舞うようになって、もう6.7年は過ぎましたね。始めの頃はスプーンも持てなくて、食事介助をしてもらっていたのに、いつの間にか、「まだ感覚はないんやで」と言いながら不自由な指を器用に使って工作をするようになり、その作品の素晴らしさは病院でも評判になりました。でも、今だから言いますが、その頃からあなたはちょっとだけ気難しくなり、あれだけの努力を思えば無理はないけれど、同じ寝たきりであっても自分は特別なんだという意識が、言葉の端々に感じられるようになりました。それから、少しずつ体調が悪くなり、主治医や看護婦さんとの関係がこじれたり、工作もできなくなって、あなたの特別な苦しみの日々が始まったように思います。いつ行っても、食事の欄は0とか2割とかで、テレビを見ては世の不正を憤っているあなたに、何をどう言えばいいか分からなくて、病院には行ってもあなたの部屋に立ち寄らないことも度々でした。
 そしてこの間、本は読まないというあなたに、思いきって「聖書」を持って行った時、あなたの心の叫びを聞き、今さらながらその苦しみの深さに胸が詰まりました。聖書を開き「ほら、信仰と希望と愛はいつまでも残るって」と指さすと、即座に「私には、信仰も、希望も、愛もないから。生きていて喜ぶ人がいるわけじゃなし、死んだって悲しむ人がいるわけじゃなし、だから食事もなるべく食べないようにしている」って。「でも、神様はTさんを愛していてくださるから」「ほら、神は愛ってここに書いてあるし、思い煩うなってここに書いてあるし」と次々聖書を開き指さす私に「こんな学問もない、まともな本も読んだことのない者に、そんな高尚なことは分からん。」と言いながらも、「希望をもって生きなくてはだめ」という言葉だけは受け取ってくださったのですね。次に行ったとき、「本は読めてないよ」と、相変わらず世の不正を憤りながらも、食事のボードが10になっているのに驚きました。
 しかし、60年以上もこの世をすべてとして生きてきた人に、「読んでみたら」と聖書一冊手渡して済むわけでもなく、さて、どのようにキリストの救いを伝えたら良いのかと祈り考え、考え祈り、まずこのクリスマスにささやかなプレゼントとして、この手紙を書くことを思いついたのです。絶えず人の出入りする病室では話しにくいことも、手紙だとハッキリ書くことができます。せっかく生まれてきて、一人死を待つだけの日々なんて、考えるだけでもたまらないから、あなたを救うために来てくださったイエス・キリストをどうしてもこのクリスマスに伝えたいのです。

 「赦せない」出来事、その一つのことで苦しみ抜き今の病気にもなったことを、以前あなたは話してくれましたね。でも、赦さないことが、あなた自身をどんなに苦しめたか、結局自分まで破滅させてしまうということを、あなたは味わい知ったはずです。
 そうなんです、Tさん。あなたは「赦さないこと」が真っ正直な人間の姿だと信じているようですが、「赦さないこと」は、神様から見て人間の正しい姿ではないのです。もちろん、あなたの苦しみの深さが私などに分かるはずもないけれど、でも、ここが肝心で、人間にとって、たとえどんなことであっても、赦さないより赦すことが正しいんだって事。
どうしてこんなことを書くかというと、赦したいのに赦せないと苦しむ者には神様によって道が開かれますが、赦さない自分が正しくて、赦せないのは相手が悪いからで相手の責任だと思っている限り、道は開けないからです。
 10歳以上も年下の私が、Tさんにお説教しているように感じたら、ごめんなさい。でも、赦さないことは罪であり、罪は人を死に至らせると聖書にありますが、Tさんを見ていると、まるでそのモデルを見ているようで、そこから救われる道があるのに、そのことを黙っている訳にはいかないのです。「赦さない」どころか、実は、私たち自身が「赦されなければ生きては行けない」存在だと気づいた時から、私たちの新しい人生は始まるように思います。
 以前、「愛とは赦し」であると、話したことがありますね。私も神様の恵みによって、「赦し赦される喜びの生活」を体験することがあります。それは天国の喜びとしか言いようのない喜びです。その時、愛と赦しは一つであると知るのです。
 Tさん、神様の愛と赦しを知るために、さて、どうすればよいかというと、やはり聖書を読むこと祈ること、この二つから始めるのがいいように思います。始めるといっても、聖書を読むこと祈ることは私たちが天に召される(神様を信じる者には、死は終わりではなくて、神様のもとに呼ばれて帰ること、文字通り天に召される)日まで続くわけで、まあ、それが信仰生活そのものなのです。
希望のない自分には魂の救いが必要であり、それを与えて下さるのはイエス・キリストをおいて他にないと信じて聖書を読んでみてください。必ず何かが分かってきます。
私が聖書を読み始めた頃、あるおじいさんが教えてくれました。「聖書を読んでも、始めは砂を噛むようなものです。でも読んでいって、一つ分かったと思う言葉があれば、その日はそこまで。また次の日、何かしら心に感じる言葉に出会うまで読むのです。それを続けていけば、いずれ聖書が面白くなってきましょう。」 キリスト信仰と一口で言っても、それは実は命がけのものであり、自分のすべてを注ぎ込まなければそんなに簡単に分かるものではありません。でも、Tさんの真っ正直な性格、若き日には命がけで仕事をし、不自由な手であれだけの鉛筆立てや美しい箱、白鳥などを作り上げたあの熱意があれば、残る生涯をもって必ずイエス・キリストに出会うことができると信じています。求め続けるなら「求めなさい。そうすれば与えられます」というイエス・キリストの言葉がどんなに真実であるか、あなた自身驚きをもって実感されるに違いありません。
 祈りは、即実践です。私たちを罪から救うため、イエス・キリストを与えて下さった聖書の神様に祈るのです。その神様は天地万物を創られ、今もすべてを支配しておられるお方、そして、私たち小さき者の祈りに耳を傾けてくださるお方ですから、どうぞ信じて祈ってください。

   神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
   独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

   
                                        ヨハネ3:16

 クリスマスとは、Tさん、あなたを救うためにキリストがこの世に生まれてくださった記念日なのです。


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唯一の神 人間であること  「バカの壁」の問題  №186 2003年11月

 あなたが「この本読んでみたら」と持って帰ってくれた本、出張に行くお父さんが「一度読んでみたいと思ってたから」と、カバンに入れて出かけました。そして次の日、帰ってきたお父さんはかなり真剣な様子で、私にもすぐに読むように、そして、その本の間違いを箇条書きにしてあなたに送るように、と言いました。お母さんは世間のことに疎く、この養老孟司著「バカの壁」という本が、4月に発行されて10月で28刷もされるほど売れているなんて、ちっとも知らなかったけれど、ともかくお父さんに言われてすぐに読みました。医学部の教授というだけあって、やたらと脳の話が多くお母さんには難しいところも多かったけれど、お父さんが何を心配しているかは、すぐにわかりました。 
 「本来、神というのは人間が昔から頭の中に作ってきた存在です。人間はそうやって頭の中に作ったものを、実際に外に作り出すという作業を続けてきたわけです。」というような文章が、所々に散りばめられていることからもわかるように、一神教の神を信じ、「絶対の真理がある」などと思ってしまうことが自分と違う立場のことを見えなくする「バカの壁」となっていると言うのですよね。早く言えば唯一の神様を否定して、「人間であればこうだろう」という人間中心の世の中を作ることが日本人にはふさわしいと。
 小さな時から素直で、神様がおられるということは今自分が生きているということくらい自明なこととして受け取っていると思っていたから、あなたがこの本に共感しているとしたら、やっぱりショックです。でも、あなただけじゃなくて、学生の間でよく読まれているのかしらと思いつつ、いったいこの本は世間ではどのように評価されているのだろうとインターネットで調べてみました。すると、ちゃんと「感想文」というコーナーがあるんですね。そこに、「なるほど、そのとおり」と声をあげて拍手したい文章が載っていました。たので、写しますね。
 「養老さんの文章(発言)は、医学や関連のことに関しては丁寧に慎重に書かれていますが、宗教や哲学や政治や社会科学に関しては大雑把で、乱暴な話の展開が見られます。基本的な知識不足もあり、間違った前提で話が進んだりします。この本でもおおよそ科学者らしからぬ話の展開が見受けられました。哲学、宗教の基本的な確かな知識をもとに話を進めないと、後で恥ずかしい思いをされるだろうし、ご専門のことまで信用を失うのではと感じさせる本でした。」
 知識も理解力も乏しいお母さんには、こんなふうにスッキリと言うことはできないけれど、でもお母さんが心で感じたことをそのまま文章にしてくれていた、という思いです。

 次に、お母さん自身が感じたこと、それはおかしいよと思ったことを正直に書いてみますね。それは、お母さんがどうして神様を信じ、なぜキリスト教なのかということと深く関わっているから、この機会に書いておきます。
 養老さんはこの本の中で次にように言っています。「一神教の世界というのは、ある種の普遍原理です。万能の神様が一人。イスラム教にせよ、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、そういう教えです。それが世界の三分の二を占めているんでです。そうでない人たちはどういう普遍性が提示できるかというと、そんな大層なものを持ってはいない。しかし、こちらは『人間であればこうだろう』ということは考えられる。それは、普遍性として成り立つわけです。人間であれば、親しくなった人間を殺すかという話になって、それはしないだろう、という、ある種の普遍性を必ず持てるはずなのです。今後日本がもし拠って立つとすれば、そう言う思想しかない。・・・・・・イスラム教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、ユダヤ教徒だろうが、あんた、人間でしょう、という考え方です。『人間であればこうだろう』ということは、普遍的な原理になるのではないか。」
  お母さんは、あまり難しいことはわからないし、うまく説明はできないけれど、でも、「人間であればこうだろう」という原理では、人は本当の意味では生きられないって、自分の経験からわかるんです。「人間であれば、親しくなった人間を殺すかという話になって、それはしないだろうという、ある種の普遍性を必ず持てる」なんて、いったい何を根拠に言っているのでしょう。人は親しくない見知らぬ人を殺すこともあるけれど、よくよく知っている人も殺すことは毎日の新聞を見ればわかります。その方が多いでしょう。そして、もし本当に人を殺してしまったとき、そんな自分も人間だから仕方がないと受け入れて生きていけというのでしょうか。それとも、そんな者は人間失格だから生きる値打ちがないというのでしょうか。
 他の人のことは差し置いて、自分の心を見つめるとき、「人間であればこうだろう」くらいの納得の仕方では、生きられない。人間だからこそ真実でありたい、誰に対しても愛を持っていたいし、、他の人がより良く生きる手助けをしたい。本気でそう願っています。でも、現実のお母さんはあなたも良く知っているように、そんな願い通りには決して生きていない。怠惰であったり、軽い気持ちでいい加減なことを言って他の人を傷つけたり、簡単に人を裁いたり。
 正しくありたいと願っても正しくあり得ない、表面的には良い人になれても、心の底から良い人間にはなれない。その矛盾が私たちの内に宿っている罪であり、罪の問題をうやむやにして、人は本当の意味で生きることなどできないのです。、その矛盾が解決できなければ何をしても、魂の深い平安や喜びを得ることはできません。
 お母さんがなぜ信仰を求めるようになったかと言えば、「人間であればこうだろう」という、その人間の罪に耐えられなくなったからであり、その罪を赦し、新しい命に生かして下さるお方としてキリストに出会ったのです。あなたも小さいときから日曜学校で聞き続けたキリストの十字架によって、お母さんは新しい命に生きる道を見いだしたのです。
キリストの言葉を思い、その十字架の愛を思うとき、自分ではどうすることもできない暗く重い心に光がさして、いつしか晴れ渡った青空にようになるという罪の赦しの喜び、神の子とされた感謝は、誰が否定したって失われるものではありません。
 私たちに今日も命を与えて生かしていてくださる神様を否定して「人間であればこうだろう」という生き方は、それこそ人間という壁の内側でもがいているようなもの。
 今もあなたの心の戸をたたいていてくださるキリストの御声が、どうか聞こえますようにと祈っています。

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がおられる  啓示ということ  復活 2003年10月

 主よ、憐れんでください。
   絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。
 あなたの僕の魂に喜びをお与えください。
 わたしの魂が慕うのは
   主よ、あなたなのです。
    詩編86:3~4

 秋風が吹き、コスモスが揺れ、葡萄の甘さにうっとりとしても、主よ、もしあなたを知らなかったら、私の心には空虚さという穴がぽっかりと空いていたことでしょう。わたしの魂が慕って止まなかったのは、あなたご自身でした。あなたがおられると、そしてあなたこそ、この美しい世界の造り主だと知らされて、私の心は満ち足りています。夕暮れになり、オレンジ色の火星を見上げ、ほんのりと残る金木犀の香りに包まれてあなたを思い、あなたの平和に満たされるのです。
 あなたがおられると、ただそれだけを伝えたい。「人生って空しいよね 」と、溜息をつている人に。「ひとりぼっちだもの」と、沈んでいる人に。「もう、どうにもならない」と、生きることを止めてしまった人たちに。「それでもわたしはあなたを愛している」と言ってくださる主がおられると、伝えることができますように。

先日、礼拝で詩編46編を学びました。一節ずつ解説を聞きながら読み進め、10節を読んだとき、ええっと驚きました。
  主は地のはてまでも戦いをやめさせ、
  弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
(詩編46:9口語訳)
と、あるではありませんか。   
 今日本は、再び戦争参加ができるように平和憲法を変えようとしており、日本に限らず、いつの時代だって、この世から戦いが断たれたことなどありません。まして、この詩が作られたのは今から2700年近く前。人間の歴史は戦争の歴史と言っていいほど、数限りない武力による戦いがくり返される中で、この詩人は「主は地のはてまでも戦いを止めさせる」と宣言しているのです。ああ、これが神の啓示ということなのだと悟りました。詩人の思いや考えや願いではなく、神様ご自身が詩人にそのことを啓示されたのだと。その時、聖書は神の啓示の書であるということに、ハッと目を覚まされる思いがしました。
 何と不思議なことだろう、神様がご自身を現された書物が今ここに、わたしの手元にあるとは。この中に、神様の深く大きなご計画がすべて啓示されているとは。もっともっと大切に、力を入れて聖書を読まねば、神様がこの聖書の中に啓示してくださった真理に、もっともっと心を尽くして耳を傾けねばと思います。

 あなたこそ、生ける神の子キリストです。 マタイ16:16
  キリストは、一度だけ人となってこの世に来られました。私たちと同じ人間となられて、ご自身を現されたのです。私たちの身代わりとなってその罪を贖い、私たちを神様と和解させるためでした。今思います。私はどうしてこんなことを本気で信じ、ここにすべてをかけようと思うようになったのだろうと。神様の啓示の書である聖書を読むうちに、その説き明かしをくり返し聞くうちに、それが本当だということが私にも少しずつ啓示されてきたのです。それも単に頭の中だけの理解ではなく、日々の生活を通して、様々な人間関係や思わぬ出来事を通して、どうしようもない自分の罪を知らされ、キリストによらなければ生きてはいけないことを知らされたのです。「求めなさい、そうすれば与えられます」という約束どおり、ただ、求め続けたが故に、イエス様こそキリスト(救い主)だと啓示してくださったのです。

 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。                     使徒言行録2:32
 (復活)この歴史的事実が本来キリスト教のすべてであった。もし使徒たちにとって、キリストが十字架にかけられ、墓に葬られたままで終わったならば、キリスト教を世に伝える勇気を彼らは持たなかったであろう。
 復活のことを切り離して考えれば――死んで、ただ葬られただけの「神の子」など、われわれに何の役に立つであろうか。そういうことは誰も信じないであろう。逆に復活という事実からキリストを神の子と結論することは、きわめて論理的に一貫した推理である。 ・・・・・もしキリストが屈辱にみちた死をとげ、しかも正しい審きを行う神の力が全然あらわれずに終わったとすれば、誰もキリストと同じ道を歩み、また、すべてのことにキリストを範とする真の勇気を失うであろう。そうなれば、悪が勝利を得て、この世における最高の力であることを証明したことになる。
 ・・・・・キリストの十字架の死は、善の最も恐るべき敗北であり、その復活は善の最大の勝利である。         カール・ヒルティー「幸福論第3部・信仰とは何か」より 

 先日、ヒルティー「幸福論・信仰とは何か」の読書会で解説を聞きながら、改めて思わされた。復活、ここにキリスト教のすべてがかかっている。「主は復活された」、これこそ私たちへの最大の福音、グッドニュースなのだと。すなわち、一点の罪無き神の子を十字架に付けるほどの悪の力はついには滅ぼされ、必ず善が勝利する。イエスの復活はそのことの証明であり、神様の愛と正義の証拠であり、そして今も昔も、この一事を証するのが生けるキリストに出会った者の務めなのだと。

  神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。                第一コリント6:14
 驚くべき事件が日毎に報じられる世の中、私たちの身に今日何が起こらないとの保証もない。ある家庭集会で、聖書を学び始めたばかりの人が、はじめて声に出して祈ったのは、「こんな世の中、不安でしょうがありません。自分でもどうすればよいか分からないのです。」という、正直な叫びだった。この世でどんな不条理なことが起ころうとも、神様は信じる者に復活という最大の勝利を与えてくださる。そのことを信じることなしに、どんなに美しい秋空の下にあっても、私たちの心に真の平和はない。
 主よ、私たちを日々復活の喜びに生きる者としてください。

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「求めるものはだれでも 2003年9月st07_m2.gif

「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」 マタイ7:8
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイ11:28
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」 ヨハネ7:37     
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 ロマ書10:13 
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」  2コリント5:17

 だれでも、どんな性格であっても、どんな境遇であっても、どんな人であってもイエス様は招いていてくださる。だれでも、善人でも悪人でも、心や体が弱い人も強い人も、どんな人であっても神様のもとに帰れるようにと、救い主イエス様をこの世に送って下さった。だれでも、今日までどのように生きてきた人でも、どんな人であってもただ信じるだけで罪を赦し、神の子としてくださる十字架の力。

 この世には実に様々な人がいる。その誰をも疎外しない、誰をも喜んで迎えてくださる、それが神様の愛であり、キリストの救いである。 イエス様の地上での日々がそのことを証している。当時、人々と交際することを禁じられていたライ病人と食事を共にし、売春婦と蔑まれていた人にも親しく語りかけ、死刑になるほどの極悪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたイエス様。イエス様の前には、すべての人が救われねばならない罪人なのだ。そして、イエス様は今も「だれでも」と招いていてくださる。
「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ6:35

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「共にいる」

強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア記1:9)

 「主は共にいる」、この言葉をはじめて聞いたのは、信仰を持って最初に参加した一泊聖書講習会の、確か自己紹介の時間、司会者がヨシュア記第1章を読み上げたときだった。だから、もうかれこれ30年も前になるのに、その時聞いた「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」という御言葉への感動は今も忘れられない。
 それ以来、この御言葉によって私自身が支えられると共に、多くの人もまた「主が共におられる」ことによって喜び、生かされていることを知らされてきた。
 
 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。(イザヤ43章)
 
 「非常に困難な問題が起こり、すぐ行かねばと私は船に飛び乗りました。船の中ではこの御言葉を握りしめ、この御言葉だけを一心に思っていました。するとまったく絶望的な状況にも関わらず、支えられ、守られているのを覚えることができました。」 ある集会の近況報告会で、初老の婦人がしぼり出すような声で証された。

 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。(イザヤ書43章)
 =私たちにとって大事なことは、イエスから何かをしてもらうことより、イエスが共にいてくださることを知ることである。=
 「そうなんです。「わたしはあなたと共にいる」という御言葉をいただいて、それで何もかも解決したわけではなかったのです。現状は何も変わらない。何も変わらない苦しい状況のただ中に、主が共にいてくださる。それが私の喜びとなり、力となりました。」
 主が共にいてくださる恵みを味わい知った、若い姉妹の証だった。

 わたしが共にいる
 治らなくてもよいではないか
 わたしが共にいる
 長患いでもよいではないか
 わたしが共にいる
 何も出来なくてもよいではないか
 わたしが共にいる
 それでよいではないか
 或る晩
 キリストがそう言って下さった。

 肺ガンで天に召される2ヶ月前の原崎百子さんのこの詩は、いつも主と共に生きてきた人生の証でもある。

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23

何という約束だろう。神様が、主イエス様が、この家に一緒に住んでくださるとは。天地万物を造られた大いなる主、宇宙の果てまで御支配なさる力の主。その主は、背く人をどこまでも追い求め、罪を贖い、赦しを与え、信じる者といつも共にいてくださる。家庭にも病院にも施設にも、ひとりぼっちの日にも一緒に住んでくださる。
 
小さな貧しい家庭であっても、そこに主イエス様が共に住んでくださるなら、どんなにか美しい家庭となることか。暗くなると家に明かりを灯すように、主イエス様がわが家の光となってくださるなら、もう闇の力をも恐れることはない。「父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」と約束して下さる主よ、困難な問題を抱えて生きる一つ一つの家庭に、どうかあなたが一緒に住んでください。あなたが共にいてくださるなら、人はどんな状況の中にあっても、生きることができるのです。

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「再臨」  2000年8月

草原の向こうから、真っ赤な太陽が昇ってくる。

主が来られる。

その確かさに、再臨の日を思って胸が高鳴る。

  ああその朝、ああその朝

  義の日は出て輝かん

ああその朝、ああその朝

救い主にわれら会わん  (新聖歌151)

希望は神からのもの。

神を知らなければ、希望はない。

 

いつまでも残るものは、信仰と、希望と、愛。

信仰も、希望も、愛も、神から来る。

心を神に向けるとき、

一心に神を見上げるとき、

信仰と希望と愛が天より降ってくる。

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「永遠の命」  2000年8月

 聖書を読み続けていると、信仰の世界が見えてくる。ある時はおぼろげに、木立の向こうにある深い湖のように。ある時ははっきりと、霧が晴れて山々が姿を現すように。

 イエス様の言葉に、素直に聴き入るなら、神様が私たちに与えようとしておられるものが見えてくる。この世の人生論でも、この世の幸福論でもない、それ以上のものが見えてくる。

  はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる 者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ5:24) 「わたし」とはイエス様、「わたしをお遣わしになった方」とは神様のこと。イエス様の言葉を聞いて、神様を信じる者は、「永遠の命を得、裁かれることなく、死から命へと移っている」と言われる。あいまいに、たぶん永遠の命を得るだろう、いつか命に移るだろうではなく、はっきりと、信じる者は「死から命へと移っている」、と言われている。

 いくら素直に読んでも、永遠の命、すなわち神様の持っておられる命がいただけるなんて、こんなとてつもなく大きな言葉を、このちっぽけな頭の中に納めることはできない。これは完全に人の思いを超えている。神の言葉であって、人間が考えたり、作り出したりできる言葉ではない。神の言葉、それゆえにそのまま信じるより他にない。そのままで、信じ受け取るべきものなのだ。

 この御言葉に静かに聴き入るなら、神様から人への最大の賜物は、永遠の命であり、死から命に移されることだとわかってくる。神様は愛だから、すべての人に最高のものを与えようとしておられる。人間にとって健康が最高のものなら、神様は誰一人病気にせず、すべての人に健康を下さったに違いない。知性や理性が人間にとって最高のものなら、神様は知的障害の子供たちを造られなかったに違いない。神様はある人には健康を、ある人には障害を、ある人には裕福な家庭を、ある人には貧困を与え、人の目には不平等と思われるようなことをなさるけれど、それは一人一人を永遠の命という最高の賜物へと導くためなのだ。私たちは罪赦されて、永遠の命を得、死から命へ移されるためにこそ、この世に生まれ、今日という日を生かされている。

 この世のどんな楽しみも、満足も充実も、神様のくださる罪の赦し、永遠の命の前には、色あせる。神様からの最高の賜物、永遠の命を受けなければ、人として生まれてきた甲斐がない。

 その最高の賜物を受けるために、イエス様の言葉を聞くこと、そしてそのイエス様をこの世に遣わされた神様を信じること、それだけが求められている。決して無理難題ではない。神様が与えて下さった今日という日に、神様が与えて下さった聖書を読んで、イエス様の言葉に耳を傾ける。すると、確かに見えてくる。信仰の世界が見えてくる。人間にとって、本当に大切なことが見えてくる。このつかの間の人生も、永遠なる神様の御手の中にあるのが分かってくる。この肉体は滅びても、死なない命の与えられていることが分かってくる。

 ただ信じるだけで、心から神様を見上げるだけで、確かに私たちは死から命へと移される。

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「大丈夫、神様がおられる。」  2000年8月

大丈夫、神様がおられるから

大丈夫、神様は知っていてくださるから

大丈夫、神様が善きにしてくださるから

大丈夫、神様は愛していてくださる。 

 両親がいなくて、いても何かの事情で家庭で育てられなくて、施設に預けられている子供たちのことを聞いた。「ぼく、3才の時からずっとがまんしてるのに、お母さんを待ってるのに・・・」と、泣きじゃくられて途方に暮れてしまったという。あまりにも切ないという。悲しいよね、「おかあさん」って、甘えられないなんて。いじめられてもかばってくれる人がいないなんて。その子供たちの辛さや寂しさを思えば、一人一人抱きしめて耳元でささやいてあげたい。「大丈夫、神様がおられる」と。

 神様は私たちに、この世での平穏無事や、家族円満を約束してはくださらない。「悲しいことや苦しいことがないように、辛い思いをしないように守ってあげる」とは、言ってくださらない。でも、幼い頃からひとりぼっちだってことも、じっと我慢してきたことも、神様は知っていてくださる。何もかも分かっていてくださる。

 その子にも分かる日がきっと来る。あの時の悲しみや辛さは、決して無駄ではなかったと。すべてが神様の大きな大きな愛のご計画の内にあったのだと、分かる日がきっと来る。

 その日まで、一人一人のことを祈り続けるのはクリスチャンの仕事。いつの日か「神様は私に一番良いことをしてくださった」と、その子供たちが心から告白する日まで、祈り続けるのは、神様の愛と真実を知らされた、私たちの仕事。

 主よ、祈らせてください。一人一人の上に、あなたの御業の成就する日まで。そして、語り続けさせてください。「大丈夫、神様がおられる」と。

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「立ち帰れ」  2003年7月st07_m2.gif

庭に出ると、ムクゲの花が歌っている。

神様は愛、神様は愛、と歌っている。 

 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。(イザヤ44-22

 「帰れ、帰れ、わたしに帰れ」と、神様はいつも呼んでおられる。神様のもとにだけ、まことの平安があり、希望があり、清い喜びがある。神様が共にいてくださるなら、どんな困難の中にも、今日を生きる新しい力が与えられる。信仰生活を続けてきて、もう、その事実を疑うことはできない。神様を離れては、世界中をあげると言われてもうれしくない。いつもいつも神様のもとにいたい。イエス様の愛と真実を思っていたい。

 よくよく分かっているのに、ふと気がつくと、私の心はどこかをさまよっている。満たされぬ思いを抱えて、溜息をついている。いったいどうしたことだろう。あの喜びは、わきあがる感謝は何処へ行ってしまったのだろう。

 その度に主の御声に耳を傾ける。「帰れ、帰れ、わたしに帰れ」と呼んでおられる主の御言葉を思う。しかし「神様に帰らなければ」とあせっても、内なる何かが拒んで、どうにかしてこの世で手近な慰めが得られないかと、ますます心が散漫になってしまうことがある。だが、そんな時ほど人間的な甘えは拒まれ、不思議に人まで遠ざけられて、心を通わなくされて、寂しさや空しさは募るばかり。惨めな自分を思い知らされる。

 そこまで追いつめられないと命の御言葉を求めないわたしの強情さと、そこまで追い込んででも、ご自身のもとに導き返してくださる神様の愛。

 キリストは十字架について、私たちが神様に帰る道となって下さった。連れ帰るために、命まで捨ててくださったキリストの愛を忘れて、安易な道を歩もうとするとき、自分の満足を第一とするとき、いつしか心はさまよい始める。ただ主の憐れみによってだけ生かされていることを忘れて、傲慢になり心の奥でこの世や人を見下すとき、聖霊は去って行かれる。しかし、そのような民にも、

 =反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた(イザヤ65:2)と主は言われる。

 =わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。(エゼキエル33:11)と主は言われる。

 「帰れ、帰れ、わたしに帰れ」と、神様はいつも呼んでおられる。

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「赦しと愛」   2003年7月

 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(1ヨハネ1:9

 心が重く、何故かモヤモヤしてスッキリしなくなると、誰かにどうにかして欲しくなる。あの人なら分かってくれるだろうと電話をしてみても、自分でさえどうすることも出来ないモヤモヤを、他の人がどうにか出来るはずもない。最後には、みんなから見捨てられたような気分になり、惨めな自分だけが残る。

 このモヤモヤは内なる罪のために違いないと気づかされ、「罪を告白するなら赦してくださる」という聖句を思う。告白するだけで赦されるなんて、虫が良すぎるような気もするけれど、でも、私がどう思うかなど問題ではない。納得できようができまいが、この頭で考えることより、御言葉の方が確かなことだけは信じている。ただ御言葉を信じて、神様の前に思いつく限りの罪を告白する。

 私のほとんどの罪は、愛の無かったこと。表面はにこやかにしていても、少しでも相手に裏切られたと感じたときは、心の底では私もまた相手に対して心が冷えてしまう。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」との御言葉をよくよく知っていながら、人を簡単に裁いてしまう。

あの子に憎まれるのは

私に愛がないからです

どんなにひがんでいても

愛は憎しみをうものを。

病床にあって毎日二十通内外の心のこもった手紙や葉書を書き、人々を励まし続けたという樫葉史美子さんの詩が思われてならない。

 こんな愛のない私を、神様は赦してくださるだろうか。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」との御言葉を再び暗唱し、御言葉にすがって、一つ一つ告白する。昨日も作業所で、気にいらない指導員の人に冷たい視線を向けてしまった。そんな自分が信じられないけれど、それが本当の私の姿。そのことも告白して、神様に赦しを乞う。神様はとがめだてもしないで聞いてくださる。覚えている限りの罪を一つずつ告白していくと、不思議に心が軽くなっていく。

  誰でも 一人残らず

  美しい心の人に見えるように

  そしてどんな人にも

  感謝と愛のおいめを

  感じるように

  私はなりたい。(樫葉史美子) 

罪を告白し赦されたしるしは、回りの人が美しく見えはじめること。どの人も愛おしくなり、手を取り合って喜びたくなる。こんな私が赦された。愛の無いまま、真実の無いまま、軽薄で人の痛みも苦しみも分からないような者が、そのままで赦された。主よ、あなたの御言葉は、何と真実なことでしょう。明日はまた人を裁き、怨んでしまうかも知れない者も、今、罪を告白し赦しを乞うゆえに、ただそれだけの故に明日のことは問わないで、今日の私をそのままで赦してくださる。明日のことはまた明日赦しを乞えばよい。「そんなにいつまでも、赦してください、赦してくださいばかり言っているようではダメですよ」と厳しく言われたことがあるけれど、私の一生はきっと主に赦しを乞い続ける一生に違いない。でも、赦されるたびに、この世のものとは思われぬこんな清い深い喜びが与えられるなら、一生、赦されながら生きていきたい。

ごめんなさい

心で思っても

口に表さなければ駄目

さあ思い切って!

エス様はみつめていらっしゃる

ごめんなさい!

涙がすーっと耳たぶをぬらして

冷たく去っていく畳の足音をきいていた・・・・

けれどエス様は微笑んでくださった   ああ エス様はゆるしてくださった。

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キリスト教無教会四国集会から  御言葉   福音 №181  2003年6月st07_m2.gif

 雨模様の緑美しい松山の地で、6月14~15日、今年もキリスト教無教会四国集会が開催された。
 「四国集会は本当に、ただ主キリスト・イエスにある、兄弟姉妹の集まりと言うことだけで、この会の目的は主の御名が清まり、主の御栄光があがりますようにという、ただ一つの、それだけのことでありまして、その純粋な一つの目的が、30回の集会をづっと貫いて維持され流れてきて、さらに将来に向かって進もうとしておる姿は、本当に素晴らしいと思います。
 どうぞ皆様、この流れを支えていくものは、私どもの主イエス・キリストに対する祈りではないかと思います。また、次回以降も、この四国集会の流れが続いて参りますように 、祈りを持って次回を迎えたいと思います。 本当に今回はありがとうございました。」 四国集会開催県の最後の挨拶を、今テープで聞き返しながら、今日まで30年も続いてきた四国集会の目的と、それを支えてきたものが何であったか、奇しくもこの挨拶の中にすべてが言われているのを思い、胸が熱くなる。
 私もまた、日々の生活において、主の御名が清まり、主の御栄光があがることだけを求めて行こう。そしてその日々の流れを支えるものは、絶えざる祈りであると知らされ、祈りを生活の中心において歩もう。そんな新たな思いに満たされて、あの松山友輪荘でのさまざまな情景を思い起こす。
 「神の国」というテーマでなされた今年の四国集会。4人の講師の方から「神の国」に関する聖書講話がなされた。マルコ福音書5章25~34節から「招かれた人」、マタイ福音書7章21~23節から「神の国にふさわしい人」、マタイ福音書5章1~12節から「人生の目的は神の国に入ることである」そして、ルカ福音書12章31~32節「ただ、神の国を求めなさい」の講話では、新旧約聖書全体を通して神の国の正確な知識と理解、そして、その実在の証が生き生きと語られた。
 その他、自己紹介の時間も小グループの感話会も、早天祈祷も特別讃美も、すべての時間が、確かに神の国の愛と平和に満ちていた。そして、それらのプログラム以外の時間にも、主は私たちと共にいてくださって、神の国の姿をありありと見せてくださった。
 最初に会場に入った時から、何かが違っていた。大勢の人が出入りしているのに静けさがあり、この世のものではない真実が満ちているのを感じた。開会までにはまだ大分時間があると、空いている席を見つけて腰を下ろして目をやると、深々と頭を垂れて黙して祈るお二人の姿があった。そして会場に満ちている静けさと真実がそこから流れでているのを知った。
 食事の時間、短く感謝して食べ始めると、少し離れたところに、一人黙して祈る人の姿があった。目の前に食事が用意されているのも忘れたかのように、深い静けさをたたえて祈っている。何人かが共に頭を垂れて、その内の一人が声をあげて祈っているところもある。食事中の人、すでに食べ終わって歓談している人たちもいるのに、皆が神の国の平安に包まれて、5000人のパンの奇跡の喜びに満ちていた。
 眠る前に、誰かと共に祈りたいと訪れた部屋では、すでに祈りが始まっていた。いや、もう祈り尽くして、最後の祈りとなっていたが、みんなで心を合わせて祈るこの真実な祈りが聴かれないはずがないと、新たなる確信が与えられた。聖霊によって一つとされた姉妹たち。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と、主イエス様のお声が響いていた。
 別れ際に、始めて参加した人のために涙を流して祈ってくれた友。手を取り合って、祈りを合わせてくれた人。人間の思いをはるかに越えて、キリストの愛の香るところ。これが神の国でなくて何だろう。「主イエスが共にいてくださるなら、そこが私たちの神の国、それが私の天国です。」と、別れ行くお一人お一人の笑顔が語っていた。
 来年、高知での四国集会のテーマは「伝道」とのこと。そのことに思いを凝らして、これからの一年、互いに祈り合いつつ、神の国前進のために励むことを得させてください、主よ。

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネの手紙4:712

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御言葉

 イエス様のお言葉は単純率直で、素直に従うとき、その意味の深さが分かる。あれもしたい、これもしなければと心はやる時こそ、心を静めて御言葉に聞く。
 いろいろと思い悩むよりも、「ただ、神の国を求めなさい。」と言われるから「今抱えているこの問題を、どうか神様、あなたが支配してください」と祈る。(国・バシレイアーとは支配、王国などの意味で、神の国とは神の支配であると学んだ) 他の人のことなら、「どうかあの人をあなたの清い霊で支配してください」と祈る。自分のことも「主よ、わたしの心をあなたが支配して、自分の欲や感情で動き回ることがないよう守ってください」と祈る。どんな頑固な人の心も、どんなに荒れ狂っている人の心も、神様が支配してくださるなら、その人の心は平和に満ちるだろう。私にも、すべての人に必要なのは、神様にご自身の愛と真実をもって支配していただくことなのだ。
 私は誰にも支配されたくない、私は私の思いのままに生きるんだ、という人がいるなら、その人はまだ自分の本当の姿を知らないに違いない。自分が自分を支配するとき、どんなに自己中心で、どんなに自分に都合の良いことばかり考えるか。それがこの世の混乱と不和の源である。自分や家族の一人一人を正しく支配するなどできることではない。だからと言って他の人に支配されるのはたまらない。人間は人間を支配してはならない。また人間に支配されてもいけない。人は正義と愛の源なる神にのみ支配されるべきなのだ。その神は私たちから遠く離れてはおられない。今日も共にいて、祈りを聞き、導いていてくださる。

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主にある交わり 希望 神様のなさること    福音 №180 20035st07_m2.gif

 「本当に、世界中の人に、『ごめんなさい』って謝りたい気分やわ」と言うと、「私も同じ。世界中の人に謝りたいよ」とAさんが言う。久しぶりに会って、「お茶でも飲みにおいでよ」と誘って、紅茶を飲みながら、お互いに理由は何も言わないで、ただ「世界中の人に謝りたい」という思いだけが一致している不思議に驚いた。「何故か悲しくて、心が痛むときは、誰かに『ごめんなさい』って言いたくなるよね」と言うと、「私なんか、どんなに謝ったって謝りたらないわ」と、またもや一致する。
 「ぶどうの木のところ、読もうか」と言うと、「うん、読もう」と、二人で声をあげて読んだ。
   わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ15章)
 「イエス様につながっていたら、必ず実を結ぶって書いてあるから、どんなことがあっても、イエス様につながっていよう」と言うと、「聖書に書いてあることは、みんな本当だものね。信じてる。神様を忘れると、生きているのも、もうどうでもいいって思ってしまうから。」
 久しぶりに見るAさんの笑顔がうれしくて、「主イエスはわたしのすばらしい友」と声を合わせて讃美し、「神様、あなたを信じます。イエス様、いつもあなたにつながっていますので、天の御国まで導いてください」と共に祈る。
 今はまだ、礼拝には参加できないでいるAさんとの、主にある交わりのひととき。「日曜日、10時になると『今、みんなで聖書読んでる』って思わない時はないんよ」というAさんの心を、イエス様はどんなにか愛おしんでいてくださることか。
  たった二人の御言葉と祈りの時も「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」との約束通り、主は豊かに祝してくださって、神様の憐れみの深さを味わい知らせてくだる。「世界中の人に謝りたい」と言う二人の悲しみに、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」との御言葉をもって、イエス様は確かに答えてくださった。

   心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(ペテロ3:15

 半身不随になっての車椅子生活、家族もなく、まだ60代なのにこの老人病院を死ぬまで出られないと聞けば、どうにかして天国の希望を伝えたいと思う。キリスト教が若い時から立派な生き方をしてきた、教養豊かな人たちだけの宗教ならいざ知らず、イエス様が特にお心にかけられたのは、この世にあっては希望の持てない、貧しく弱く人たちだった。だったら、寝たきりになって「この身体で若い人が一人助かるのなら、今すぐ、どこでも臓器移植をしてもらいたい」と言う60代の男性にも、「この足さえ立てば、家に帰って留守番くらいはできるのに」と嘆く90代の女性にも、イエス・キリストにある永遠の希望をどうにかして語りたいと思う。人は希望があれば生きられる。人間としての向上心も持てる。より良く生きようと努力もできる。他の人への思いやりも生まれるだろう。だが、希望がなければ、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」と、虚しい享楽的な人生を送るばかりになってしまう。いや、老人病院の中では飲み食いさえ自由でなく、享楽ともほど遠い生活なのだから、ここでこそ真の希望が語られなくてはならないはずだ。
 だが、人に希望を語るとは何と難しいことか。自分の内にある復活の希望、天国の希望を話すより他になく、でもいくら話しても、神様もイエス様も知らない人に分かってもらうのは至難の業だ。それでも、御言葉を折々に耳元でささやいているなら、神様が用いてくださるかも知れない、悔い改めを与えて下さるかも知れないと、今日もOさんを散歩に連れ出すエレベーターの中で「神様は愛」「イエス様は罪からの救い主」「信じる者には永遠の命がある」と、ポツリポツリとささやいてみた。「あんたは神様を信じとるから、希望があるんやな。ほなからそんなにうれしそうなんやな」との言葉に、そのことが分かってもらえただけでも、今日の散歩は特別うれしかったよ、0さん。

    地とそこに満ちるもの
    世界とそこに住むものは主のもの。
(詩編24:1
 この世界すべて、地球も宇宙もアルプスも、風に揺れる木々も空飛ぶ鳥たちも、海もその中の魚たちも、どこまでも続く砂浜も、もうすぐ咲くササユリや白く香るクチナシも、みんなみんな神様のお造りになったものだと思っていると、なぜか心が明るくなってきて、思わず「神様」と小さな声で呼んでみる。

    イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、
    わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ロマ書4:25
 神様は私たちの「天のお父さま」で、神様に背いて生きている私たちのを救うため、イエス・キリスト様をこの世に生まれさせてくださった。イエス様は私たちに神様のご意志を伝え、苦しむ人たちを助けて神の子であることを見せてくださり、最後には「彼らの罪をお赦しください」と祈って、私たち全人類の罪の身代わりに十字架の上で罰を受け死んでくださった。そして、そのことを信じるだけで、有り難く受け取るだけで、私たちも神の子としてくださり、復活の命を与えて下さる。
 始めて聞けば、不思議に聞こえるかも知れないけれど、頭の良い人にしか分からないというのでは決してない。特別な体験や、研究に研究が必要だと言うことでもない。幼子のように信じればたりる。素直に求め、素直に信じる者に、主イエス様は現れてくださるのだから。
    こららのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
    幼子のような者にお示しになりました。
(マタイ11:25)

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信じるすべての人に! 復活の希望  2種類の悲しみ

   イエスは主 イエスは主 死からよみがえられた主
   すべてのものは ひざをかがめて あがめんイエスは主と
(プレイズ51)

 信仰によって大きな働きをした人の伝記などを読むと、感動する。ああ、こんなに生きられたらどんなにいいだろうかと、自分の平凡さがつまらなく思える。深く学んだ人や、特別な苦しみの中から救われた人の話を聞くと、自分がいかにも浅はかに思えてくる。
  涙を流してパンを食べなかった人
  思いなやむ夜々を
  ベッドに寄って泣きあかさなかった人
  その人は神を知らない。
ゲーテ
という、ずっと以前に読んだ本の一節が思い出されたりして、私は未だ生きることの深淵を知らないに違いないと、がっかりしそうになる。
 がっかりして、それでも他にすべもなく、「イエス様」と御名を呼んだ。すると、何とこんなつまらない、こんな浅はかな者にもイエス様は「わたしは主、あなたの主、わたしはあなたと共にいる」と言ってくださった。
 イエス様とは何というお方だろう。人生を深く深く生きている人にも、私のようにただイエス様にすがっているだけの者にも、同じように「主」であってくださり、深い者にも、浅い者にも、賢い者にも、愚かな者にも、善い者にも、悪い者にも、誰をも退けることなく、その一人一人の主となってくださり、その一人一人を救ってくださるのだ。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」とイエス様は言われる。
だれでも、だれでもなんだと、たまらなく嬉しくなる。その重荷の大きさを人と比べる必要もなく、疲れ具合を計る必要もない。
ただイエス様を求め、イエス様のもとに行くなら、その一人一人を知っていてくださって、どの人にとっても、ただ一人の主となってくださる。ああ、イエス様は確かに神さまだと心が燃える。
 2000年ほど前、この地上に歩まれたイエス様は、ご自身が地上を去って行かれる時、
「わたしが行けば、弁護者(聖霊)をあなたがたのところに送る」と約束してくださった。だから、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」
と。
人としてこの地上を歩まれたイエス様に出会った人は、当時イスラエルに住んでいた中でもほんの一握りの人。
そのイエス様に会うためには、人混みをかき分けて、それが無理ならいちじくの木に登って待ちかまえなくてはならなかった。
だが今、イエス様は目には見えない聖なる霊として、時間も空間も超えて、どんな人のところにも直ちに臨んでくださる。
信じ求めるすべての人に「わたしは主、あなたの主、わたしはあなたと共にいる」と語りかけてくださる。

   神よ、わたしの内に清い心を創造し

   新しく確かな霊を授けてください。
(詩編51:12

 復活祭の朝に咲こうとツツジの蕾も大きくふくらんで、土手の若草も輝きを増し、主を讃美しているようなこの朝。
    わたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。と切なる祈りがあふれてくる。
そして、信じる者に約束された復活の命とは、
この雪よりも白く清い新しい命なのだと知らされ、どんなにか復活が待ち遠しく、慕わしくなる。
  「人の悪を思わず」と百回念じても、良きことだけを思い、語り、イエス様の御心のままに生きようと千回決心しても、決して日々そのようであることはできない。
心低くありたいと願いながら、ふと気づくと自分を正しとして人を裁いている自分がいる。
気づく罪、気づかずに為している罪、そのことによって他の人にまで害を及ぼしていると思えば、もう前を向いて歩むことはできなくなる。
 しかし、私たちには希望がある。信じる者には希望がある。復活という希望がある。
たとえこの世にあって、罪汚れをぬぐい去ることはできなくても、かの日には、復活の朝には、一点の罪なく汚れなき新たな命に生かされるという希望がある。
 主イエス様は、復活の命を与えるために、私たちの罪を十字架の上に贖ってくださった。
私たちが、清く雪よりも白い、新しい命に生きるために。

 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 

   神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを

    生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
2コリント7:10

 0さんはなぜあれほどまでかたくなに、神様を拒むのだろうか。人生の途上で出会った全く思いがけない不幸に、貝のように心を閉じたまま十数年、神にも人にも一抹の期待も持たなくなったようだ。人間あのように耐えることができるのかと思うほど、外目には淡々としておられる。「あきらめた」と言う。「突然見えなくなって、それから数年苦しみ抜いていつの間にかあきらめた」と。誰がどう言っても、何をどのようにしてもこの目は見えないのだという苦しみが0さんをあきらめへと追いやった。あきらめると一口で言っても、その苦しみがいかに深く大きいかは0さんの心が固まってしまって正常に機能していないことから察せられる。「0さん、祈ればいいのに」と言うと、「祈ったってどうしたって、目が見えるようにはならんから」と言う。神様の話をしようとすると、嫌がっているのが伝わってきて、何も言えなくなる。
 先日、同じように失明したある人から貴重な証を聞いた。「この肉の目は見えなくなったけれど、でもそのことで、以前には見えなかった大切なことが見えるようになりました。神様は私に良いことをしてくださった。」と。
 死に至る悲しみと、まことの命に至る悲しみと、私たちにはいつもこの二つの道が開かれているのを思う。

 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ロマ書5:3~4)

 どんな時にもこの御言葉を心に深く刻み、主の御名を呼び続けることができますように。
そして、0さんのように希望をなくしている人にこそ、生けるキリストの力が臨みますように。

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主イエスを信じて。イエスの御言葉。神を神として生きること。

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くときも イエスを信じていよう。
民は民に国は国に敵対して立ち上がり方々に飢饉や地震が起こるときも、イエスを信じていよう。
不法がはびこり、多くの人の愛が冷えるときも イエスを信じ続けよう。
イエスの名のために、人々に憎まれ、殺されるときも ただ、イエスを信じていよう。
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と、主イエスが言われるから。 (マタイ24

国々は騒ぎ立ち
地上の王は構え、支配者は結束して
主の油注がれた方に逆らう。
(詩編2)
こんな時こそ耳を澄ませて、主イエスの御声を聴こう。

悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書い
てある。」(マタイ4)
   この世にあって権力を振るい、繁栄を謳歌することを、退けられたイエス様。
  「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 と、貧しさの中を歩まれたイエス様。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9
 今もイエス様は行かれる。叫びのあるところ、涙のあるところ、悩み苦しむ人々のもとへ。世の憎しみと反逆の中を、争わず、叫ばず、進んで行かれる。
 正義を勝利に導くまで、傷ついた小さな者を捨てることなく、弱り果てた者が倒れないように支え続けてくださる。
そして、殺してはならない、憎んではならないと知りながら、一つことあれば悪しき思いの噴出する私たちの罪を十字架に付けてくださった。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10
   十字架のイエスを見上げるなら、どうして戦争などできるだろう。極度の苦痛の中から「彼らをお赦しください」と、とりなしてくださる主イエスの御声を聞くなら、 どうして「私は正しい」などと言えるだろう。
   「わたしがあなたのその」憎しみを受けているではないか。わたしがすべての人の怒り、怨みを見に負うて、こうして苦しんでいるではないか。もう、殺し合うのは止めなさい。」と主は言われる。
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:38-39
   人々が実行しようがしまいが、従おうが従うまいが、イエスの言葉は変わらない。
その言葉が永遠の真理であることに変わりはない。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
   イエスの言葉のどこを読んでも、敵を武力でうち負かせとは言われていない。
剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
   と言われる。「それでは、剣で殺されてしまったらどうするのか」と問う人にお答えになった。
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。 (マタイ10:28
わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ)
   主にありてぞ われ死なばや
   主にある死こそは いのちなれば。(讃美歌361

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 朝、小雨の降る庭に出ると、バイモの蕾を付けた茎がぐんぐん伸びて、もう30センチを超え数日中に花開きそうだ。キンミズヒキやアキノタムラソウなど萌え出たばかりの若草、その独特の色合いは花にも劣らず美しい。蕾のまま寒さに耐えていたユーリオプスも、小さな黄色い花を咲かせている。
 夜、ベランダから空を見上げて驚いた。何と美しい星、青い光が瞬いている。
 夜と昼の境には、朝焼け、夕焼けと天の御国を映し出したような大空。
    世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。(ロマ1:20)
と、ローマの信徒への手紙にあるが、確かに、すべての被造物が神を語っている。この神を神として生きること。心の内に悪しき思いや、むなしさが広がるとき、この神に心を向けて清い力を受けること。それこそ造られた者が、造ってくださったお方をあがめることなのだ。しかし、人は神を素直に認めようとはしない。あえて神を否定して、その当然の報いを身に受けている。
   神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
   彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
 物質的豊かさのただ中で、生きる目的も希望も失った若者が、肩を寄せ合って死んでいく。「人は神なき世界に生き続けることはできない」、と声なき声をあげながら死んでいく。人は生きるようにと、永遠に生きるようにと造られたのに。
   どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
   わたしはだれの死をも喜ばない。
   お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 (エゼキエル18:32
どうか、天地に満ちるこの神の御声が希望をなくしたすべての人に届きますように。

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新しい心  「戦場のピアニスト」から №177 2003年2月st07_m2.gif


神よ、わたしを究め
  わたしの心を知ってください。
  わたしを試し、悩みを知ってください。
  ご覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
  どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。


詩編139:2324 


私やっぱり間違っていました。
私は、Aさんの本当の救いを祈ったことがありませんでした。
もったいないって思っていました。
制限付きの祈りをしていました。
さっき、その握っていた物を放すことが出来ました。
A
さんの魂が、本当に救われ、
A
さんが信仰の喜びに達するように祈ります。
今後もそう祈れるよう、祈ってください。

信仰の友からのメールに、生きて働かれる聖霊を讃美せずにはおられない。

  =「私やっぱり間違っていました。」=
この何気ない一言、だが、このことを心底分からせてくださるのは聖霊。
  理屈では自分の間違いが分かっても、心の深いところでは決して受け入れることがで  きない。どんな時も、だって、だって、と百も千も自己弁護をしている自分がいる。
聖霊だけが、心の奥深くに漂う罪を示し、そのことを認めさせ、
そして「私やっぱり間違っていました」と、素直な心に造りかえてくださる。
主よ、私にもこの幼子の心を与えてください。

  =「Aさんの魂が、本当に救われ、
    Aさんが信仰の喜びに達するように祈ります。」=

キリスト者の他者への祈りは、救いが目的となる。
  「健康でありますように。辛い思いをしませんように。仕事がうまくいきますように。
  家族が仲良く、また事故や災難に遭いませんように。」
人の心から自然に出てくる数限りない願いや祈りがあるけれど、
聖霊によって祈るとき、その人の魂の救いを祈らざるを得ない。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
と、主イエス様が言われるから。

主よ、あなたは何と素晴らしいお方、
あなたは、私たちの内にある根深い罪に気づかせてくださり、
そして、その罪から私たちを解き放ち、
あなたの愛を注ぎ入れてくださる。
それが、あなたのなさり方。
それが、あなたのとこしえの愛。



見よ、わたしたちを救われる神。
わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌、
わたしの救いとなってくださった。
(イザヤ12:2)

 戦争の危機が日毎に報じられるこの頃、機会を得て「戦場のピアニスト」という映画を見た。監督、ロマン・ポランスキーはユダヤ系ポーランド人であり、母親を収容所で殺され、自身はユダヤ人居住区を命がけで脱出して生きのびたという経験を持つと記されていたが、そこには、何のドラマティックな内容もなく、淡々と驚くべき人間の罪、戦争の悲惨が画面いっぱい映し出されていた。その中に英雄的人物が登場するわけでもなく、信仰の力を感じさせる場面も何もない。廃墟と化した隠れ家でドイツ人将校に命じられるままピアノを弾く主人公の姿、そのショパンの響きさえ、私には単にこの映画の一場面としか見えなかった。
 飢えや無差別な処刑に脅えつつ、ついには収容所行きの列車に乗せられる人々の耐え難い姿を見ながら、私は小さな声で「善き力にわれ守られ」というボンフェファーの讃美歌を歌い続けていた。このような狂気の中で、なおも神の善き力に囲まれていると実感しつつ、神にゆだね切って処刑されていった人たち。この映画には描かれていないけれど、その人たちの高らかな讃美に合わせて私も歌い続けた。そうでなければ、どうしてこのような人間の姿に絶望せず、現実を見据えることができるだろう。
 「ユダヤ人=犠牲者、ドイツ人=加害者という単純な図式に陥らない、歴史の真の姿を公平な目で描いて見せた原作の視点は、映画にも忠実に受け継がれている。」とパンフレットにあったが、どのような戦争も人間の罪が引き起こすものに違いはなく、その意味では今の世界もこの映画の延長線上にあり、人間は何一つ変わってはいないのだから。

 キリストの十字架が、人目には敗北のごとく見えて、全人類に救いをもたらすまことの勝利であったように、いかなる苦しみをも神を信じて甘んじて受けた人々の勝利の歌声が聞こえてくる。
   たとい主から 差し出される 杯は苦くても
   恐れず、感謝を込めて 愛する主から受けよう。
(讃美歌21:469番)
と歌う、いのちの歌声が聞こえてくる。

   あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、
   どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。
   そしてできることなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。
   あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

   深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、
   私たちに、聞かせてください。
   私たちのまわりに広がる目には見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、
   あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

   主のよき力に、不思議にも守られて、
   私たちは、来るべきものを安らかに待ち受けます。
   神は、朝に、夕に、私たちのそばにいるでしょう。
   そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう。

         「主のよき力に守られて」ボンフェファー

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「ロマ書の研究」内村鑑三の学びより

  =人はただイエスを信ずるに由りて罪を赦され潔められる。=

 憐れみ深き主は、内村鑑三の「ロマ書の研究」を読むようにと本と友とを備えてくださった。おおっ!はあっ!と感嘆しつつ読み進め、くり返し読む内に、この一行が透き通った深い湖のように、私の心は吸い込まれていった。

  =人はただイエスを信ずるに由りて罪を赦され潔められる。=

 何度も聞いた内容で、良く良く知っているはずなのに、始めてであった言葉のように、心にしみて、涙があふれる。

 このことだけを伝えたくて「福音」を書き始めたはずなのに、この新鮮さは何だろう。

 聖霊が語っておられる。今語っておられる。世界中の人に、富める国にも貧しき国にも、老若男女、健康な人にも病む人にも、全ての人に語っておられる。

  =ひとはただイエスを信ずるに由りて罪を赦され潔められる。=

 =要は我等の熱心如何に存する。=

 人は「ローマ人への手紙」を難しいと言うけれど、分量は小さく通読するのに40分もあればよい。それは決して、歯が立たないと言うほどのものではない。

   =要は我等の熱心如何に存する。=

 これだ、これだ、と思う。

 主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる」と言われた。求めさえすれば必ず与えられる。神は求める者に与えようと、待ちかまえておられる。しかし私は、あれこれ理由をつけてなかなか求めようとしない。罪とはこの、求めようとしない「怠惰」のことである。

 「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」エレミヤ書29:1314

キリスト信仰に無くてならぬのは、この「心を尽くす」という真実さ。いい加減な気持ちで「主よ、主よ」ということのないように、心せねばと思う。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と主は言われる。

   =要は我等の熱心如何に存する。=

イエス・キリストは私たちに二つの大きなことを与えて下さる。その一つが「罪の赦し」そして、もう一つが「どんな時にも共にいてくださる」こと。

  = その名はインマヌエルと呼ばれる。

    この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23

先が見えなくて不安なとき、「主よ」と御名を呼ぶ。

「わたしが共にいるではないか」と、答えてくださる。

 自分の希望する仕事に就いて、望みの人と結婚して、快適な家に住み、みんな健康、子供たちもりっぱに育つなら、それも人生。でも、いつからかそんな生活にあこがれなくなった。今日与えられる小さな仕事に心をこめて、今日共に生きる人を感謝して、家のない人のため、心配な子供のために祈り、与えられた健康をもって病める人を見舞ことができるなら。そんな人生でありたいと願うようになった。

 神様が共にいてくださるとは、決して人からうらやましがられるような生活をすることではない。でも、心に輝くような喜びがある。困ったことが起きないことではない。でも、どこか深い平安がある。

 神様が共にいてくださるとは、隠されていた宝を見つけたような、この世の何ものにも変えがたい喜び。そしてそれはすべての人に開かれている。その喜びを与えるために、主イエス様は来てくださったのだから。

これらの小さき者が一人でも滅びることは、あなたがたの父の御心ではない。  マタイ18:14

 福音書を読むと、イエス様のお心が伝わってきてうれしくなる。イエス様はいつも小さな者に御目を留め、低い者を憐れんでくださる。

 99匹を残してでも、迷える1匹を探しに行ってくださるイエス様。大勢が集まって祈れば、それを聞くと言われないで、「二人の者が心を合わせて祈るなら、それを聞く」と言ってくださる。大きく偉い人になれと言われないで、小さな子供のようであれと言われる。イエス様が弟子として選ばれたのは「無学なただの人」だった。また、イエス様自身、罪人の友と呼ばれた。神殿にレプタ二つを入れる婦人に御目を留め、子ロバに乗られたイエス様。

 ご自身は全てを超えて大きく強いお方なのに、そのイエス様が愛されるのは、いつも、小さな、取るに足りない、寄るべなき者。ただご自身に寄りすがるより他道のない者。

 これが福音なのだ、神様からの良き便りなのだ。誰でも、自分の小ささ、弱さに気づき主イエス様にすがりさえすれば救われる。

 どんな人だって、死の前に立てば、みな無力で小さくて、この世に何の寄るべもない者となる。死は神様が与えて下さる、神様に立ち帰る最後のチャンスかも知れない。最後の最後まで主の救いの御手は伸ばされている。誰一人もれることがないようにと。


祈れる幸い、ゆだねる恵み。

 神様を信じるがゆえの幸いは数限りないけれど、何といっても「祈れる幸い」はその最たるもの。人間世界では「取り返しがつかない」ことが多いけれど、全能の神様に「取り返しのつかないこと」はない。時間も空間も超えて働いてくださる神様に祈るのだ。「神様、あなたが一番いいと思われるようになさってください。」と心を込めて祈るなら、後は神様にゆだねて、私たちは為すべき務めに励むだけ。このちっぽけな頭で考えるどんな最善より、神様のなさることは素晴らしい。私たちの思いも考えもはるかに超えて、驚くべき御業を為される主に「祈れる幸い、ゆだねる恵み」。

この新しい年もあなたが導いてください、主よ。

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