福 音
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2009年
著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌)

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福音259
 2009年12月
「父なる神様」「この一事を知るために」「クリスマス・カロル」


聖書の神は 三位一体と聞いても
  格別の喜びでもなかったけれど
神様が 私たちのお父様であり
救い主なるキリストであり
真理を悟らせてくださる聖霊であることが
今朝は とてもうれしい

イエス様が 祈る時には
「天におられるわたしたちの父よ」と
  祈りなさいと 言われたから
「天のお父様」と祈っていたけれど、
  内から溢れ出た呼び方ではなかった。
ところがある日、神様は私たちのお父様だと
天には、すべての人にとって
  完全な父がおられると聖霊に教えられて
「天のお父様」と呼ぶのが
  たまらなくうれしくなった。
この世の父は様々。良き父も悪しき父もいるだろう。
でも、一つ確かなこと。
天には完全な、私たちの父がおられる
この世にありながら天の父を「おとうさま」と
呼ぶ幸いを知らされたのは 晩秋の夜

 お母さん、私が家で生まれる時、あまりの難産で、周りの人は皆、母子共に死ぬだろうと思ったと、話してくれましたね。その上、その時は父も重病で、隣の部屋で寝ていたから、祖父と祖母は、3人の葬式を一度に出す心配をしていたとか。
 今でこそ笑い話になっているけれど、その時の状況を思えば悲惨極まりないですね。まあ、それが、それから60年。お母さんも私も、病弱なはずのお父さんも、みんな元気に守られて、この初冬の美しい日の光を浴びている。
何と不思議なことでしょう。
 普段は考えたこともない自分の誕生のことなど、なぜこうして書き始めたのだろう・・・と思って、ふと気づいたのですが、枯れ葉が舞い、寒さが身にしみる12月になって、「赤子のイエスさま 草のうぶぎ、ゆりかごがわりの飼葉おけ」と歌い、イエス様の誕生を記念するクリスマスのせいかもしれません。人は年と共に自分の死を思うことはあっても、生まれた日を思い起こすなんてめったにないことですから。
 キリストの誕生月に自分の誕生を思い起こすなんて、申し訳ない話だけれど、でもきっと、どの人にもかけがえのない誕生物語があって、その一つ一つに神の奇跡が満ちている。世界中にどれだけの人がいても、現実はどんなに悲惨であったとしても、たとえ生みの親から捨てられたとしても、生まれてすぐに死んでしまったとしても、人はみな神様に望まれて生まれてきた大切な人。私は父なる神様を知って、そのことだけは疑うことができなくなりました。
 なのになぜ人は、愛し合って幸せに暮らすことができないのか。弱い人と強い人が助け合って平和に生きることができないのか。誰だって、憎み合うよりは愛し合いたいと、殺し合うよりは共に生きたいと願っているはずなのに、世に争いは絶えず、どうして今だに戦争がなくならないのか。ところがお母さん、それが、決して社会の問題でも、他人の問題でもなく、私自身の内なる罪の問題なのだと気づいた時、イエス・キリストが私の救い主となりました。罪を清め、憎しみの世界から愛の世界に移し入れてくださるイエス様に出会った喜び、今では、このお方こそ私の命だと信じています。
 人の命ははかないものです。でも、イエス様によって与えられた新しい命は永遠の命。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 私は若き日に、聖書を煎じ詰めればこの一言になると教えられました。そして今では心の底から、人はこの一事を知るためにこそ生れてきたのだと信じています。
 何の親孝行もできない私だけれど、お父さんもお母さんも、共にこの永遠の命に生きることができますようにと、その祈りを忘れたことはありません。
「なにもかもありがとう」と一言、「これからも祈っています」と一言、言いたくて。

 子供たちと一緒に、3D映像でディズニーの「クリスマス・キャロル」を見た。3Dの映画を見るのは始めてだったが、ともかく、ずっとジェットコースターに乗っているような感じで、その動きの速さに時々気分が悪くなり、もう3Dはこりごりだと思ったが、この世で一番の奇跡とは、やはり一人の人が造りかえられることなんだという感動だけはしっかりと残った。その夜、本棚にあるのになぜか読んでいなかったディケンズの「クリスマス・カロル」をあわてて読んだが、この本の訳者、村岡花子さんが「毎年クリスマがめぐって来るごとに私はディケンズのクリスマス・カロルを読む」と言っているように、私も毎年12月には必ず、この本を読み返すことになりそうだ。
 時は19世紀半ば、場所はイギリスのロンドン。主人公のスクルージは、「けちで貪欲な、がりがり爺で、秘密を好み、交際を嫌い、かきの殻のように孤独な老人であった」。その上、がむしゃらに怒鳴り立て、誰かが「クリスマスおめでとう」などと言おうものなら「へん、ばかばかしい!」と毒づいていた。そのスクルージが一夜にして心を入れかえ、「クリスマスおめでとう」と喜び祝い、どこの町にも村にも、かつてなかったほどに善い友、善い主人、善い人間となったのだ。どうしてそんなことが起こったのかは、読みだしたら最後、思わず引き込まれて息もつかずに読み終えてしまうほどに巧みなディケンズの文を読んでいただく他ないが、ここに描かれるスクルージの姿は、まさにルカ福音書5章31節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」というイエス様の御言葉が成就した最高の見本である。154節「言っておくが、このように一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」という喜びこそ、イエス様がこの世に来てくださったクリスマスの喜びでなくて何だろう。
 これこそクリスマスの奇跡、クリスマスの恵み。あと数日に迫った2009年のクリスマスにも、こんな素晴らしい奇跡が、どうかいたる所で起こりますように。


福音 №258 2009年11月
「イエス様に出会うため」

 ずっと若い日に夢見たものだ。この人と一緒に居られるならもう何もいらない、と思えるような人に出会ってみたい。この人のためなら命を捨てて惜しくない、そんな人に出会いたいと。
 そんな夢が実現するなんて、それこそ夢のような話だけれど、今雨の音を聞きながらしみじみと思う。若き日の夢はかなえられた。祈ることさえ知らないで、ただ思っていでただけなのに、神様はこんなに確かに応えてくださった。
 イエス様と出会わせてくださった。
 イエス様と一言で言っても、ともかく無限大のお方だから、一生かかってイエス様の素晴らしさを知らされていく、それが私の人生なのだと思うと、この雨の音さえうれしくなる。
 雨の日のイエス様、元気いっぱいの日のイエス様、辛くてたまらない日のイエス様・・、イエス様の見え方は毎日違うなあと思っていると、夏に行った富士山の姿を思い出した。
 湖のほとりから眺めた富士山、雲に隠れてうっすらとしか見えなくなったり、ああっ!て声をあげたいほど美しい姿を現わしたり。その裾野の樹海を歩いていると、一年中溶けない氷の穴があったり。バスで行ける5合目まで登って周遊道を歩きながら、間近に見る富士山は走って登れそうな気がした。そこで出会った木々や岩や小鳥や花たち。今頃は雪におおわれて白い富士山だろうなあ。
 富士山一つでも、これほどの広がりがあって、すべてを見尽くすことなんてとても出来ない。ましてや、イエス様はその富士山も海も空も、私たち人間も、宇宙も、ともかくすべてを造られたお方なんだから、イエス様を知ってると言ったって、新幹線の中から一目見て、富士山のすべてを知ったような気になっているのと同じだけれど、でも、それでも、イエス様を知った喜びは、筆舌に尽くしがたい。
 聖書の言葉をもって語りかけてくださるイエス様。空や風や夕焼けによって語ってくださるイエス様。人とのつながりの中に、ご自身を現わしてくださるイエス様。この頃の私は、御翼の陰に隠してくださるイエス様に夢中だ。

 ある具体的な出来事を通して、自分の愛のなさを見せられて、ああ、この怠惰、怠慢、自己中心性がイエス様を十字架につけたのだと思い知らされて、苦しみながら歩き回っても行くところはなく、うずくまっても苦しくて、ついに小さな声で「イエス様」と御名を呼べば、なんとそこはイエス様の御翼の陰だった。ああ、私にはこんな隠れ場があったのだと、イエス様はご自分の御名を呼ぶ者のために、こんな隠れ場を用意していてくださったのだと知って、詩編91編を開いて読んだ。

  いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
  全能の神の陰に宿る人よ
  主に申し上げよ
  「わたしの避けどころ、砦
  わたしの神、依り頼む方」と。
若き日から、まだ見ぬイエス様を慕い求めてきた者にとって、91編14,15節は大きな喜び。なつかしい口語訳で読むと。
  彼はわたしを愛して離れないゆえに、
  わたしは彼を助けよう。
  彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
  彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。
  わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に栄光を与えよう。

神様のもとに帰る日まで、私たち一人一人にどんな日々が用意されえているかは分からないけれど、たとえどのような日々であっても、そこでしか出会えないイエス様に出会うための日々。その人にだけ備えられた日々。大切に大切に生きていきたい。

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神様の与えてくださる幸いは、
ごく自然で目立たないから、
当たり前のように思ってしまうけれど、
秋晴れの空も、うすむらさきの野菊の花も、
一つ一つが神様の愛の御業であるように
朝毎の小さな習慣も、
神様の憐れみによって守られている。

なんと幸いなことだろう。
朝目覚めて、夫と共に聖書を読み祈るという
ささやかな習慣。
一日の始めに神様を思い
御言葉をいただき、感謝をささげ、
「今日もあなたの御心に歩ませてください」と
ひとすじの思いで祈る。

クスッと笑ってしまう。
こんな見栄えのしない、あるかなきかの私たちに、
神様の「幸い」が与えられるなんて。
でも・・・だから、だから伝えたい。
神様の幸いは誰にでも与えられるんだってこと。
「渇いている人はだれでも、
  わたしのところに来て飲みなさい。」
と、キリストは今も呼んでいてくださるってこと。
「わたしを信じる者は、決して渇くことがない。」
というキリストの言葉は、
本当に、本当なんだってこと。

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*「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」コリント信徒への手紙Ⅱ 918

 主日礼拝でこの御言葉にであって、あっと驚いた。この御言葉だけを取り出して読むと、なんだか抽象的に聞こえるけれど、8章、9章とパウロがコリントの信徒たちに、エルサレム教会への献金を惜しみなく捧げるようにとくり返し勧める根拠が、この御言葉にあるのだと知って、深く納得した。
 そうか、そうだったのか。神様は私たちが「いつも」「すべての点で」「すべてのものに」「十分で」「あらゆる善い業に」「満ちあふれるように」「あらゆる恵みを」「満ちあふれさせることが」おできになるお方。その神様の豊かさに圧倒されて、喜んで捧げる者にしてくださいと祈りを合わせた。


福音 №257 200910

小題:リストボタン素朴と純真 リストボタン低さと神の義のよろこび

二つの翼によって人は地上の事物をこえて高くのぼる。

素朴と純真とがこれである。

わたしたちの意図は素朴であるべく、

わたしたちの願望は純真でなければならない。

素朴は神を思い神を望み、

純真は神を味わい神を保つ。

  「キリストにならいて」由木康訳 p81

 心に主の平安と喜びが失せて、自分が情けなくてしようがない時、祈っても祈ってもイエス様の御声が響いてこない時、ふっと気づく。ああ、私は素朴と純真から遠く離れている。さまざまな思い煩いや、人への気遣いに疲れ果て、本当の自分を見失っている。

 秋が来て彼岸花の真っ赤な花は枯れ、長く伸びた茎も倒れ、濃い青緑の葉が伸びはじめた。からからに乾いた土に、静かな秋の雨も降りはじめた。

 さあ、帰ろう。主イエスのもとに。素朴な思いと、純真な願いを抱いて、イエス様のもとに帰っていこう。


天の神様にお祈り申します

先日わ 大変ご迷惑かけて申しわけ有りませんでした

散歩買物 有りが度う

本当にすみませんでした

車の運転にわ 気を付けて下さいね お元気で

「わたしは世の光である。」

 Iさんから、思いのこもった一枚のハガキが届いた。月に2回くれるいつものハガキとは書き出しが違う。「天の神様にお祈り申します」、この一言に込められた思いが痛いほど伝わってきた。

 この前Iさんを訪ねたとき、とてもとても申し訳なさそうに「ポータブルトイレのものを捨ててほしい」と言った。お安い御用と蓋を開けてびっくりした。信じられないほどの量だった。「どうしたの?」と聞くと、お腹が苦しかったけれど10日ほど我慢していて、今日苦しんで苦しんでやっと出たという。「どうしてそんなに我慢するの、下剤でももらえばいいのに」と言うと「体の調子が悪いと言うと、もうここではいられなくなるから」と。一歩も歩けない半身不随になって20年、病院を転々としてきた身寄りのないIさんにとって、やっと入れた介護付き老人アパート。一日でも長くここで過ごしたい気持ちは分かるけれど、そのためにIさんがどんなに涙ぐましい努力をしているか、思い知らされた一コマだった。

 自分の身の不自由さ、人に世話をかけることの心苦しさ、申し訳なさ・・・、そんな思いが「天の神様にお祈り申します」という書き出しになった。聖書を開いてやっと見つけたであろう「わたしは世の光である」というキリストの言葉を、最後に書いた。こんなIさんのことを、イエス様はどんな御思いで見ていてくださるのだろうか。

 「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ6:35)と主イエスは言われた。また、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18:14)とも言われた。弱く貧しい者、どうしようもない困苦をじっと耐え忍んでいる者に、今も注がれている主イエスのまなざしを疑うことはできない。

 Iさん、あなたの書いてくれた「わたしは世の光である」という御言葉のとおり、イエス様こそ私たちの光。どんな真っ暗な中でも消えない光。そのイエス様がいつも見守っていてくださるから、これからも希望をもって生きていこうね。困った時には「イエス様、イエス様、助けてください」と御名を呼び、うれしい時には感謝を捧げ、Iさんの好きな「この花のように」を歌っていてください。Iさんと出会わせてくださった神様に感謝して、私も一緒に歌います。

    この花のように 美しい心を 神様ください 小さな私にも


「低くあれ  恵みは わたしが与えるから」  

「低くあれ  わたしがあなたを満たすから」

と、主が言ってくださった。

  愚かなまでに 主を求め

  悲しいまでに 主を慕う

そのようであらせてくださいと せつに祈る。


 今年の無教会全国集会のテーマは「神の義のよろこび」だった。「神の義のよろこび」という言葉がはじめはピンとこなかったが、色々なお話を聞いているうちに、そうか、そういうことかと、ひしひしと迫ってきた。

 ルターは「われわれは乞食だ」と言ったという。私たちはすべてを神に求める。自分では何一つ持たず、ただお恵みにすがる乞食。罪なる私たちを神の子としてくださるキリストの十字架に現された神の義。それは何の功もない乞食という低さの中でこそ、満ちあふれる喜びとなる。

 神の義とは、「罪人と不義な者を罰する義」ではなく、「憐れみをもって信仰により私たちを義としてくださるもの」。その「神の義」は「お父さんのプレゼント」というのと同じという説明があり、とても分かりやすかった。お父さんのプレゼントは、お父さんのでありながら、そのプレゼントは私のもの。神の義も神様のでありながら、受け取ったら私のものとなる。「義なる神が、罪人である私に義を与えてくださる」という! 何という恵み、何という喜び。


ところで、わたしたちは、このような宝(神の義のよろこび)を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(Ⅱコリント4:7)


 「神の義のよろこび」を学んで、讃美歌271番が私の心の歌となった。今までも何度も何度も歌ってきたけれど、「いさおなき我」とは私のことだった。Iさんや、弱さと貧しさの中で生きる友人一人一人のことだった。

いさおなき我を かくまで憐れみ イエス愛し給う み許にわれゆく


福音 №256 2009年9月

小題:リストボタン詩編147 リストボタン黙示録の小さな学びから

ハレルヤ。

わたしの魂よ、主を賛美せよ。

命のある限り、わたしは主を賛美し

長らえる限り

わたしの神にほめ歌をうたおう。

 
君侯に依り頼んではならない。

人間には救う力はない。

霊が人間を去れば

人間は自分の属する土に帰り

その日、彼の思いも滅びる。

 
いかに幸いなことか、

ヤコブの神を助けと頼み

主なるその神を待ち望む人

天地を造り

海とその中にあるすべてのものを造られた神を。

 
とこしえにまことを守られる主は

虐げられている人のために裁きをし

飢えている人にパンをお与えになる。

主は捕われ人を解き放ち

主は見えない人の目を開き

主はうずくまっている人を起こされる。

主は従う人を愛し

主は寄留の民を守り

みなしごとやもめを励まされる。

しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。


主はとこしえに王。

シオンよ、あなたの神は代々に王。

ハレルヤ。

 秋風の吹くさわやかな水曜日、赤ちゃん連れの若いお母さんからもうすぐ60才というおばさんまで、6名の者が集められて、みんなでヨハネ黙示録16章を学んだ。不思議だなあと思う。この水曜集会が始まったのはちょうど27年前の9月。小さな子供を連れた2人で聖書を読み始め、いつしか毎週5人7人と集まったり、また2人3人になったり、でも決して途絶えることはなかった。何故なんだろうと思う。「主がそれを望まれたから」。そうとしか言いようがない。どんなに小さくても主の名による集会、エクレシアとは神様のものなんだと、今しみじみ思う。日曜日の礼拝の時にも、いつもそう思う。この地上で生きる私たちに、天国の前味を味わわせてくださるひととき。主を讃美し、心を合わせて祈り、御言葉に聴き入り、永遠の喜びに満たされるたぐいなき恵みのひととき。会堂も牧師も特別な指導者もなく、あるのは聖書と主を慕って集まる数人の人だけ、その小ささ、貧しさをも主は慈しんでくださるのだと味わい知らされた27年間だったように思う。


 ヨハネの黙示録は一人で素読してもとても分からない。数冊の注解書を使って共に学んでも、決してよく分かったとは言えないけれど、でもどの章にも、神様から私たちへのメッセージを確かに感じながら読み進めてきた。16章には、神の最後の裁きとして恐ろしい7つの災害が記されているが、特に印象的なのは、いくら裁かれ苦しめられても、人々はなおも「神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった」ことである。

 「世の終わりにはどんな徴があるのですか」と問う弟子たちに、イエスはお答えになった。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。・・・そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ福音書24章) 世の終わりには様々な苦難の中で、御国の福音が全世界に宣べ伝えられるという。苦難と共に福音を聞かされると言うことは、苦しめることが目的ではなく、その苦しみによって人々が悔い改め、神に帰るのを待っておられるということだ。しかし多くの場合、苦しみは人を益々かたくなにする。そのことをバークレーは次のように書いている。「これらの災害に合った人たちは、神をのろい、侮辱し、けがしごとを言ったが、悔い改めなかった。これは神の慈愛と峻厳とに無感覚になった人の姿である。(ロマ書11:22)順境にあって、恵まれていた時に神の恵みを感謝しなかった者は、災害の折りの神の厳しさの前にも改心しない。」

 この解説は私たちに大きな励ましを与えてくれた。私たちは来るべき苦難を恐れて投げやりになったり、絶望したりする必要はちっともない。日毎の生活の中で、ほんの小さなことにも神の愛を思い、感謝し、今も御手を伸べていてくださるイエス様につながっているなら、苦難の時にも神様は必ず守ってくださる。

 キリストによってすべてが新しくされる再臨の朝。いつも目を覚まして、その日を思い、その日を望み、「愛し合いなさい」というキリストのただ一つの戒めを日々の勤めとして、今日という日を生こう。

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(2ペテロ3:8~9)


福音 №255 2009年8月
リストボタン「祈り・人知を超える神の平安」

 主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピの信徒への手紙4:47)

 8月8日の夜、近畿無教会集会では恒例の「内村鑑三を読む」の時間を、4つのグループに分かれてもった。準備委員の司会ということで、私も第4グループを担当したが、今年はなかなか感想が出なくて困った。フィリピ書関連の内村の文章を9個ほど並べてあるのだが、誰かが少し感想を言っても後が続かない。語り合うと言うところまで進まない。後で聞くと、「みんなで思う存分話し合えて本当に良かった」というグループもあったから、ひとえに司会者である私の拙さの問題だと心痛むが、9個の文章のうち、ただ一つだけには、集まった10名全員の発言があった。それが、フィリピ書4章4節からの「祈り」に関する、次の内村の解説である。

 ☆たぶん祈祷にかかわる教訓で、これより完全なものはないであろう。これは最も常識にかなった教えである。心配なことは大小にかかわらず神に告げよ、そうすれば平安が臨むというのである。あなたがたの祈願はすべて聞かれるとは言わない。平安があなたがたの心と思いを守るという。こうして祈祷は祈祷以上に聞かれるのである。また、祈りとは、祈祷と願いと感謝であるという。祈祷は自分をむなしくして神に頼る心の状態である。願いは祈願である。そしてこれに過去の恩恵に対する感謝を加える。こうして完全な祈祷になるのである。
 聞かれる聞かれないの問題ではない。ただ神に告げるのである。知らせるのである。そうすれば人の思いを超えた平安がキリストにあって信者の心と思いを守るという。平安が心を占領して、雑念がこの平安を乱すことは無いというのである。(続一日一生、より)

 一人一人の発言を聞きながら、こと「祈り」に関しては、全員が深い関心を持ち、独自の経験を持ち、自分なりの思いや考えを持っているのがよく分かった。
 思えば、確かに「祈り」こそクリスチャンの心臓である。ドックドックと音をたてて全身に流れだしている命そのものである。心臓が止まれば人は死んでしまうように、全く祈らなくなれば、その人と神様との関係も絶えてしまっているに違いない。
 そんな大切な一人一人の祈りへの思いに、もっとしっかりと耳を傾けるべきであった。そうすれば、そこから話し合いも深められていったはずだ。だがそうできなかった自分の心の浅さ、愛のなさに気づいたとき、「聞かれる聞かれないの問題ではない。ただ神に告げるのである。知らせるのである」という言葉の重みがズシーンと伝わってきた。祈りとは、限界だらけの人にではない、神に告げるのである。神に知らせるのである。その人のすべてを知っておられ、心の汚れも過ちも、言葉にしない罪の思いさえすべて分かっておられるのに、なおも責めないで、裁かないで、さげすまないで、十字架の愛をもってどこまでも耳を傾けてくださる神様に告げるのである。その時、人のどんな愚かさや醜さ、罪深さによっても微動だにしない神の平和が、告げる者、知らせる者の心に満ちてくるというのである。その平和によって私たちは守られるというのである。

 私たちは祈ることができる。たとえ人に向かって発言できなくても、神に向かって祈ることができる。私たちは祈りをもって聞くことができる。たとえ人がどんなに不十分なことを語ったとしても、神が愛のベールで覆ってくださるようにと、祈りをもって聞くことができる。主の名によって集まることの幸いを改めて思う。
 
 誰でもが、「おとうさま」と限りない親しみをもって祈ることができるように、祈りの道を開いてくださった主イエス様。そのイエス様の教えてくださった祈りに、今静かに聴き入ってみたいと思った。
 ルカによる福音書11章1~13節 「祈るときには」

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ、御名が崇められますように。
  御国が来ますように。
  わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
  わたしたちの罪を赦してください、
  わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
  わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


福音 254 2009年7月
リストボタン「わたしの救いはとこしえに続き」「不平や理屈を言わず」

天に向かって目を上げ
下に広がる地を見渡せ。
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
わたしの救いはとこしえに続き
わたしの恵みの業が絶えることはない。  (イザヤ書51章6節)

 聖書を読んでいると、見えてくるものがある。どうしようもない人間の罪の姿と、そんな人間を救おうと、限りのない忍耐をもって待っておられる神の姿。「愛の賛歌」(1コリント13章)で、まず「愛は忍耐強い」と言われているのが身にしみる。
 主日礼拝で、第一週に「列王記」を学ぶようになった。神の神殿を造ることに全力を注ぎ、完成の日には感動的な祈りをささげ、「地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように」とイスラエルの全会衆を祝福したソロモン王が、繁栄の中で年と共に堕落し、ついに神の呼びかけにも耳を傾けなくなった。「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった」とある。ついに王国は分裂するが、その罪は留まるところを知らず、歴代の王に受けつがれていった。そんなイスラエル民族が罪の結果として迎えたバビロン捕囚。
    バビロンの流れのほとりに座り 
    シオンを思って、わたしたちは泣いた。
    竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
    わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、
    わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
    「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
             (詩編137:1~3)
 想像力に欠ける私でも、この詩人のことばには胸が痛くなる。このような、人の目には絶望的な異教の地で、神はなおもイスラエルの民に呼びかけられたのである。「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業は絶えることはない」と。
 時至って、この預言の言葉はキリストの十字架によって成就した。全人類の上に成就した。キリストの十字架こそ、信じるすべての者にとって「とこしえの救い」となり、絶えることのない神の「恵みの業」となった。天が消えることはあるかも知れない。地は朽ち果ててしまうかも知れない。たとえそこで、人がぶよのように死んでいっても、十字架によって示された神の愛が絶えることは決してない。
 この神の愛を信じて生きる。この神の愛にすがって生きる。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」と言われる神の言葉を、胸に秘めて生きていく。聖書を読んでいると、そのような生涯でありたいと切なる願いが生まれてくる。
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 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピ書2:1416)

ああ、そうか、そうだったのか、と合点がいった。
 この御言葉は、おそらく一番最初にピリピ書(口語訳)を読んだときから、心に残っていた。30年以上、私の心の中で星のように輝いていたことになる。でも、この御言葉は、ずっと人ごとだった。素晴らしいクリスチャンの人を見るたび、なるほど、この闇の世に星のように輝いているなあ、すごいなあ、御言葉は真実だなあ、と感動していた。ところが、今回、フィリピ書を読んでいて、もしかしたらこれは人ごとではなく、読む者一人一人への語りかけかも知れないとふと気づき、まさか私にも、と思って恐ろしくなった。
 今の世が「よこしまな曲がった時代」であることに反対する人はいないだろう。こんな世にあって「非のうちどころのない神の子として、星のように輝き」なんて、奇跡のようなことではないか。私が御言葉をよく読みもせず、人ごとだと勘違いしたのも無理はない。「とがめられるところのない清い者」「非のうちどころのない神の子」なんて、絶対無理!と叫んでしまいそうになって・・・、だが、心を静めて読み返してみると、なにも「清い者になりなさい」とも「星のように輝きなさい」とも言われてはいない。そうではなく、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」と言われているのだ。「そうすれば」、清い者となり、星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう、と。
 なるほど、私がいっこうに清められない理由がよく分かった。聖書の勉強が足りないからでも、祈りの時間が短かすぎるからでもない。日々の生活の中で、不平や理屈が多すぎるのだ。口語訳では「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」とあるが、なるほど、つぶやきや疑いが多すぎるからなのだ。
 神様を信じるとはこういうことなのだと思う。不平や理屈を言わないで、与えられた今日を喜んで生きる。負わされた荷が重くて倒れそうになったら、つぶやく前に「助けてください」と叫べばいい。神様は、私たちがどんなに弱くともそれを責めたりはなさらない。でも、「助けを求めることもしないで、不平や理屈ばかり言っている人を、清めようにも清めようがないではないか」と悲しそうに言われる。
 さあ、セミたちもいっせいに鳴き始めた。「切り取り自由でございます」と立て札のあるムクゲの花をもらってきてテーブルの上に活けた。たった一日の命を、つぶやきも疑いもせず喜んで咲いているムクゲの花に励まされて、せめて今日一日、この私も不平や理屈を言わず喜んで生きていよう。


福音№253 2009年6月
リストボタンフィリピの信徒への手紙 メール集会

 今年の近畿無教会集会は「フィリピの信徒への手紙」を学ぶことになっている。短い手紙でもあるし、10分もあれば通読できるから何度でも読んでおこうと思っている。

 しかし、すごい。読む度に、こんな世界があるのだと圧倒される。今年のテーマは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1:21)という著者パウロの言葉であるが、この手紙を読む度に、これが生きるということなら、私は今日までいったい何をしていたのだろうかと思ってしまう。ところが、そこが不思議なのだが、読んでいると、こんな私はダメだと落ち込むのでなく、このパウロの生きている世界にいつの間にか引き上げられる。そして、この喜びに満ちた世界こそ本当で、私はほんの少し垣間見るだけだけれど、それでも、人はこのように生きることができるんだと、生きるって何て素晴らしいんだと、目の前がパーッと開けていく。

 この手紙は、パウロがフィリピにいるキリスト信徒たちに送った手紙であるが、まずパウロのその人たちを思う思いがすごい。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証してくださいます。」(1:8)「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」(4:1)と呼びかける。人が人をこれほど清い愛で愛せるはずがない。これはまさに、パウロがこのような愛でキリストから愛されており、その愛がフィリピの人たちに流れ込んでいるのだ。キリストの愛がパウロに満ちて、満ちあふれた愛がフィリピの人たちに注ぎ込まれる。愛の源流をたどればいつも主イエス・キリストがいる。

 このキリストを知ることのあまりのすばらしさに、他の一切のものが塵あくたと見えるパウロにとって、ただ一つの願いは、このキリストを告げ知らせることだった。そのためなら、自分が監禁されることも、血を注ぐ(殺される)ことさえ喜びだという。ねたみ心でパウロを苦しめる人がいても、その人が伝えているのがキリストであるなら「わたしはそれを喜んでいます。」というのである。キリストを知ることは、こういうことなのだ。真にキリストを知るとき、キリストのあまりのすばらしさのゆえに、「自分が、自分が」という自分へのこだわりなど木っ端みじんにされるのだ。思えば人はこの「自分」のゆえにどんなに苦しんでいることだろう。「自分を捨てて、わたしに従いなさい」と主イエスは言われた。なのに私たちはいつも「でも、この自分が捨てられない」と嘆いている。自分に苦しめられながら、その自分を捨てることができないというジレンマに陥っている。このどうしようもない自分を捨てる方法はただ一つ、キリストを知ること。今も「わたしに従いなさい」と呼びかけていてくださる、すべての愛の源泉である生けるキリストに包み込まれることなのだ。

 信仰とは生き方でもある。「私はこれこれを信じています」といくら言っても、それがその人の生き方と何の関わりもなければ、ほとんど意味がない。「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3:1011)というパウロにとって、まさに生きるとはキリストであったに違いない。信仰に生きるとは、何という熱意をもって、決意をもって、今日という日、今という時を生きることであるか。そのような熱意があってこそ、その熱意の源であるキリストは伝わっていくのだ。 

 目標を目指してひたすら走るパウロは言う。「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(3:1719) 

 キリストを信じるだけで救われるという。死ぬ間際にでも、イエス様にすがればいいと言う。本当にその通りである。すべての人が死ぬ間際にでも「イエス様、お救いください」と叫んでほしいと切に切に願う。だがこの長い人生で、この世のことしか考えなくて、どうして死ぬ間際にだけイエス様を求めることができるだろう。わが腹を神として生き、この世のことしか考えてこなかった者が、死ぬ間際になったからといって罪の悔い改めができるとは限らない。「だから、わたしの愛する人たち、・・・恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは言うのだ。

 私たちを救うために、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」に歩まれた主イエスを思うなら、どうしていつまでも「冷たくも熱くもなく」なまぬるいままでおられよう。何度決心してもふと気付くとまた、なまぬるく何の役にも立たぬ者になっているけれど、でもそんな者でも、いつも「主はすぐ近くに」いてくださる。

 このキリストを唯一、最高の喜びとして、主が与えてくださった兄弟姉妹と「心を合わせて福音の信仰のために共に戦いたい」。こんな熱い思いにされるのは、パウロの生きたキリストが今も伝わってくるのだと、フィリピ書を読む度にうれしくなる。


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 「これ、一番簡単な携帯。プリペイカード入れておいたから、使ってみたら?」と、娘のプレゼントで使い始めた携帯が、こんなにもうれしい役に立つとは。

 今年の2月からTさんと始めた「メール集会」、と言っても、そんなに難しいものではなく、お互いに聖書の同じ箇所を読んで、一つでも心に残った御言葉があれば伝え合う、というだけのもの。マタイ福音書の1章から始めて、毎日1章ずつ続けてきたけれど、ヨハネの福音書になって、毎日1章はきついなあ・・ということになり、新共同訳聖書のタイトルごとに読み進めることにした。確かに、毎日1タイトルくらいがちょうど良い。

今朝のTさんからのメール。

 (ヨハネ17章)「イエスの祈り」では、21節「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」という、イエス様の祈りが心に残りました。神様の愛が伝わってきます。神様を信じる人が多く与えられますように!私も祈ります。

 遠く離れていて一緒に集会はできなくても、メールで御言葉のやり取りをするだけで、「主にあって一つ」と実感できる。その上に、「庭にこんな花が咲きました」と写真まで送りあえるのだから、有り難さ満喫。「み言葉メール集会」どうぞお試しください。


福音 252 2009年5月
 リストボタン
「御言葉の恵み」「36回・四国集会」

 わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。 (テモテⅡ2-13)
 「なぜ」と問うて、たとえ何の答えも見つからなくても、問えば問うほど泥沼だなって感じても、そこに、たった一つの真実があれば、人は生きていける。そのたった一つのものと出会うために、人は生きているのかも知れない。
 先日、雨の続く標高1500メートルの旅先で、夜明け前、まだ暗い内に、ふと何かの気配を感じ窓を開けた。闇の中にたった一つの星、その光は冴え「わたしだ」と語っていた。「ああ主よ、あなたは人々がみな疲れ果て、眠っているときも、片時も私たちを忘れることなく、そのように見ていてくださるのですね」。この主の真実に寄りすがって生きればいい。何が分からなくなっても、この主の真実を信じ抜けばいいのだと、その光は告げていた。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。  (ルカ福音書9:23)
 イエス様のお言葉にじっと耳を傾けていると、キリスト教ってシンプルだなあ、と思う。あれこれ難しく考えて頭で理解しても、それで力が与えられるというのでもない。お言葉にじっと聴き入って、一歩だけ従って。また聴き入って、次の一歩を。そうしていると、先に立って歩んでおられるイエス様が見えてきそうな気がする。

 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(ルカ24:16)
「この遮られるという言葉の原語には、引きとめる、抑制する、などの意味があります」と聞いて、そうか、時に心が暗くなって、イエス様が分かりにくくなるのは、何ものかによって心が抑制されるからだと気がついた。
 抑制と聞くと、私はすぐに老人病院で使われていた抑制帯という白い帯紐を思い出す。立ち上がらないように腰を縛り、点滴を抜かないように手を縛る。それを見るたびに、辛いなあ、辛いなあと思っていたけれど、実はこの私も、イエス様が分からないように、見えない紐で心を縛られることがあるのだと気がついた。縛られると自由がなくなるから、苦しくなり、不平不満、怒りやあきらめなどで、心はだんだん暗くなる。
 これは悪循環だ。嫌なことがあって、その嫌なことばかり思っていると、それがいつしか抑制帯になって自分を縛ってしまう。これは、サタンの巧妙な罠に違いないけれど、一度縛られると、自分では解けず、誰かに解いてもらわなければならない。暗い思いに囚われてしまった心を自分で解くのは難しい。
 今回私は、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」という、この短い聖書の言葉で、イエス様が見えなくなっている自分に気づき、気づいた時、目が開かれ、この私もまた主の恵みと平和の中に生かされているのだと、喜びがあふれてきた。御言葉が抑制帯を解いてくれたのだ。
 どんな事情があっても、どんな理不尽なことがあっても、暗さだけを見つめていてはいけない。そこにも、主イエスはいてくださる。いや、暗い所にこそ、主は光となっていてくださる。どんな暗さの中でも、主イエスがおられることに気づけば、ここも「神の国」と分かるはず。「愛する主の御手の中」と分かるはず。
 その時、また前を向いて歩き始めればいい。「イエスさま、ごめんなさい。ありがとう。」と、小さな声でささやいて、小さな歩みを続ければいい。
 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイ1:1314)
******************************
 5月16~17日、愛媛・松山の地で第36回四国集会が開催された。
 「パウロの手紙を読みますと、すぐお気付きのとおり『主の恵みと平安』で始まり、『主の恵みと平安』で終わっています。この事は、真のキリスト者には、時代が、社会が、周囲が、どんな変わっても、何時でも、何処でも私達の主イエス・キリストの恵みと平安があるんだと、と言うことを知らせているんだと思います。そのような思いを込めて、テーマは『主の平安』とさせて頂きます。」
 という案内をいただいて、集会が終わって二日目、今こそこのテーマをかみしめている。本当だなあ・・・と、ほのぼのとうれしさが込み上げてくる。
 今回特に心に残ったことを、自分のために記しておくと
 クリスチャンと言っても、目に見える部分は多種多様、性格も違えば、感性も違う、境遇も違うし、賜物も違う。お互いに様々な思いが生じても当然だろう。そんな中で、主の恵みに満たされて、心に平安と愛を保つために、なくてならぬのは「心の低さ」だと、そんな当たり前のことを今回も強く教えられた。心が本当に低くされている人は、どんな時にも、相手に良きものを注ぐことができるのを見る思いがして、自分の高ぶりが恥ずかしくてたまらない。
 正直な言葉、正直な態度、正直な祈りこそ、神と人の前に尊いのだと、教えられた。言葉も態度も祈りも、きれいに見せようとしなくていい、感動的でなくていい、良いことばかりでなくていい、正直がいい。神様はすべてご存知なのだから。この正直が難しいから、少しは飾りたくもなり、いいことばかり言ってしまうのだが、年と共に正直になるように、そんな年を取りたいと思いました。
 内村鑑三の
「唯、正直を以て万人に接し、至誠に依って、神に勝利を期す」という詩を、改めて味わっています。


リストボタン福音 251 2009年4月
小題:
「共に復活の喜びを」

 主において常に喜びなさい。
 重ねて言います。喜びなさい。 フィリピ4:4

 Y様 いまだお目にかかったことはなく、今日までに頂いたお手紙の文面から、お菓子屋さんをされていること、おばあちゃん孝行のお孫さんがおられること、近くの教会につながっておられること、それくらいのことしか存じ上げませんが、なぜこうして今月の「福音」をあなた様への手紙とさせていただきたいと思ったのか、まず、そのことから書かせていただきます。
 先日、ちょっと荷物を送ろうと思って、宅急便の袋を押入れから取り出しました。宅急便の袋はしっかりしているので古いものも取ってあるのですが、その袋を開けると何と封をしたままの手紙が底にあるのです。びっくりして見ると「宮田様 Y」とあり、ああそうか、あの時お菓子に添えてお手紙も送ってくださっていたのだと気づきました。お菓子はすぐにいただいて、手紙の方は1年4ヶ月も袋の中で眠っていた訳です。どうぞお許しください。切手まで添えてくださっていて「続いて甘えさせて頂きますので、宜しくお願いいたします」とありました。Yさんに「福音」をお送りするようになって、もう十数年になりますが、まあ、こんな拙いものをあきもせず読み続けていてくださるのだと、目頭が熱くなりました。
 そしてYさん、今日は春4月というのに大阪の最高気温は27度とも報じられる晴れ渡った美しい日。明日がイースターですが、一足先に今日、あなた様と共に主イエス様のご復活を心から喜び祝いたいと、ペンを取ったしだいです。

 静かに目を閉じ、主を待ち望み、さあ、讃美をいたしましょう。Yさんにもお好きな復活の歌がおありだと思いますが、今日は私が司会をしますので、選ばせていただきます。
 始めに讃美歌151番。ある方から「私の葬儀の時にはこの曲を」とお聞きしてから、私にとっても忘れられない曲になりました。復活祭が近くなると毎年一人歌いますが、年と共にこの歌詞が身に沁みて、私の葬儀の時にもと願っているのです。どうぞ、声を合わせて歌わせてください。
  1)よろずの民よろこべや 主イエス陰府にかちませば
   死のちから はや失せはて 人のいのち限りなし  
  2)主は栄えの御座にまし みつかいたち妙に歌う
   「主イエス死にかちたまえば 人は永久に生くべし」と
  3)明日を待たぬいのちもて 悩みたえぬ世に住めば
  耐え難く悲しかるを 今は死なぬ身となりぬ
  4)涙の谷雨晴れて 御国の道のどかなり
   いざ歌え しらべ高く 主のみ栄え 世のさちを
私には今、特に3番が心に沁みます。明日の命さえ定かでない私たちには、この世に生きている限り悩みも悲しみも続くものだとつくづく思います。それに、世界中の苦しみや呻きに少しでも耳を傾けるなら、どうして心痛めずにおられましょう。そんな中に「今は死なぬ身となりぬ」という、驚くべき喜びのおとずれ! 私たちは今、ここに立って生きているのです。この世が、私が、どんなに罪にまみれ汚れ果てていようと、主イエスはすでにその罪を滅ぼし、新しい命を注いでいてくださる。「あなたの罪は贖った。わたしと共に生きるのだ」と語りかけていてくださる。何という恵みでしょう。

 次に、聖書を読ませていただきます。聖書箇所も、私が選ぶことをお許しください。今日はヨハネ111727節「イエスは復活と命」とタイトルのついた箇所を読みます。
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。・・・・マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。・・・・」 イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」・・・
 この御言葉を、生涯忘れることはできません。「わたしは復活であり、命である」というキリストの言葉を信じたとき、死んだように固く暗かった心が溶けて愛に満ちた命が流れはじめた。私にとってキリスト教とは、一言で言うならこの命なのです。ここでマルタが言っているように「終わりの日の復活」については、イエス様ご自身がヨハネ6章でくり返し言われています。でも、イエス様の本性が復活であり、命そのものであるなら、イエス・キリストを信じるとは、今その復活の命につながることであり、今死なない命を生きる者となるはずです。そして、これを理論ではなく日々の生活の中で、罪赦されて新しい命に生きる喜びを実感し、告白としていくことこそ、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活してくださった」(ロマ書4:25)主の御愛にお答えすることでありましょう。
 Yさん、心のままに一方的に書いてしまいましたが、もしよろしければ、次は、Yさんにとっての「復活の喜び」をお聞かせいただけるなら、どんなにうれしいことでしょう。
 最後にお祈りをいたします。
 「ハレルヤ、私たちの天のお父様。この光に満ちた美しい日に、主イエス様の復活をお祝いできますこと、何よりうれしく感謝いたします。今、あなたの御前に共に集っておりますYさんとは、お互いに顔も知らず声を聞いたこともありません。でも、そんなこと何でもありません。ああ主よ、私たちは共にあなたをお慕いしております。あなたこそわが主、わが神と信じております。そしてあなたのお送りくださったイエス・キリストを罪からの救い主と信じ、十字架に寄りすがって生きております。
 桜の花びらが天からの風に舞うこの日、どうか私たちを復活の命で満たしてください。私たちだけでなく、すべての死ぬべき者があなたに立ち返り、新しい命に生きることができますように。この罪の世に、あなたの十字架と復活の恵みが小さな一人一人に届きますように。御名によって。」


リストボタン福音 №250 20093
内容: 
コヘレトの言葉

 旧約聖書に「コヘレトの言葉」というのがある。口語訳では「伝道の書」となっているように、旧約時代の伝道者の言葉である。
 今回、「コヘレトの言葉」を改めて読んで、これは面白いと思った。何が面白いかというと、一つ一つの言葉が、溜息が出るほど本当で、正直で、何の飾りもないのがいい。深い知恵の言葉と共に、疑問も嘆きもありのままに書いてある。人生について書かれた百冊の本を読むより、この15pを読んだ方がはるかに良いと思う。さすが伝道者、さすが聖書だと感動する。
 「コヘレトの言葉」には、空しい、空しいと書いてある。王であり伝道者たる者が「空しい」では始まらない。でも、私の信仰の出発点も「空しい」だったから、だから、よけいにこの書に引かれるのかも知れない。空しいことの理由として、大まかに二つ。この世のことはすべて繰り返しである、そして、「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」3:22「未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。」10:14とあるように、死の問題が一つ。確かに、死後に何の希望もなければ、死ほど空しいものはない。次に、では、せめて生きている間に人生何らかの結果が出ればいい、でも現実はそうではない。「善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。」8:14「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと」9:3。これはヨブ記のテーマでもある。
こんな空しさの中で、人はどこに喜びや楽しみを見出して生きたらいいのか。コヘレトは言う。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。」2:24「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福でよいことだ。それが人の受けるべき分だ。」5:17 と。

 この「コヘレトの言葉」を読みながら強く思ったのは、これは前編であり、やはりイエス・キリストの言葉こそ後編、完結編であるということ。前編だけでも感動するが、後編を読まなければ前編の謎は解けず、本当のことは分からない。なるほど、「新旧両約合わせれば、聖書の数は66」と歌うはずだ。旧約時代があって新約時代があり、新約があるからこそ旧約も完成するのだ。

 コヘレトの「死後どうなるのかを、誰が教えてくれよう」3:22という問い。「幸福とは何かを誰が知ろう」6:12という半ばあきらめの心境。「生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っている。」9:3という絶望的な嘆き。イエス様はこれらに答えるためにこそ私たちの所に来てくださった。
 人は死んだらどうなるのか。イエス様は「天の国」があるとはっきりと言われる。イエス様の山上の説教は、その天の国の姿を映しているようだ。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」と言われたように、天の国とは、嘆きが喜びに変えられる国であるという。人は小鳥のように、野の花のように神様を信頼し、「神が人と共に住む」国であるという。
 その天の国に入るのは誰か。イエス様は「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけだ入るのである。」と言われた。また、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」とも言われた。幼子のように素直な心でイエス・キリストを信じ、どこまでもすがっていくこと。そして、自分の弱さや罪深さを知った低く貧しい心こそ、まことの「幸い」であると教えてくださった。そしてそのように、イエスキリストを信じる者は「死んでも生きる」と、「信じる者には永遠の命がある」と、ご自身の命をかけて明かしてくださった。
 コヘレトは最後に「すべてに耳を傾けて得た結論。
  「神を畏れ、その戒めを守れ」これこそ人間のすべて。
  神は、善をも悪をも、一切の業を、
  隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。
と書いている。だがコヘレトは、この最後の裁きの時があることを知りながら、その最後の裁きから私たちを、救うキリストの十字架があることは知らなかった。 
 「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」とイエス様は言われた。新約聖書を開けば、イエス様のお言葉を心ゆくまで聞くことのできる私たちの幸いは計り知れない。もっともっと心して、日毎の楽しみ喜びとして、キリストの言葉に耳を傾けたいと思う。


心が騒ぐ時は
イエス様の御名を呼んでみる
  イエスさま
  イエスさま
  どこにおられるのですか

静かに祈っておられるイエス様
御言葉を語っておられるイエス様
病み苦しむ人に御手を伸べ、
孤独な人、罪に泣く人を
 尋ね歩いておられるイエス様
そんな御姿を思いながら探し求める 
  イエスさま
  どこにおられるのですか

一人で祈っておられるイエス様を見つけたら
 私もそっと、その後ろにひざまずこう
人々に語っておられるイエス様に出会ったら
 私も聖書を開いて御言葉に聴き入ろう
イエス様が病む人を癒しておられたら
 私も出かけていこう
 今も病み苦しむ多くの人を忘れないように、
 ほんの少しでもその苦悩の深さを知り、
 何もできなくても、主にすがり祈るために

その時こそ、苦しむ人と共に
苦しんでいてくださる十字架の主に
出会えるだろう。


リストボタン№249  2009年2月

小題:「待つという喜び」・「御言葉を信じる喜び」


 わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
わたしたちは待っています。

(
フィリピ3:20


リストボタン「待つ」という喜び」

 いつだったか忘れてしまったほど以前に、友人から春欄を株分けしてもらった。山の花だからせめて木の側にと植えておいたが、細長い葉が干からびているようで、ここ数年で自然消滅だなあ・・と思っていたら、この冬になって根元から何やら新芽のようなものが出て、それがだんだん伸び膨らんで、これは蕾に違いないと思うようになった。朝毎にほんの小さな庭に出て、春欄の花が咲くのを待つ喜びを味わう。


 そうか、待つとはこういうことなのだ。主イエス・キリストが再び来られるのを待つということは、期待もしないでぼんやりと思っているのとは違う。待つというのは、確かなものを、それが日々刻々と近づいているのを実感しつつ、こんな胸躍る思いをもって待つことなのだ。

 水曜日の聖書の学びで、「今度は新約の手紙を読もう」ということになり、パウロの手紙から順番に読み進め、今年に入ってついにヨハネの手紙にまできた。つたない学びであっても続けていると、どの手紙にも、「イエス・キリストが再び来られる日」のことが書かれているなあ、ということは分かるようになった。来週は1ヨハネ・2章、私の当番なのでくり返し読んでいるが、そこにも

 「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」

2:28
とある。


 こられの手紙を書いた使徒たちにとって、御子イエス・キリストが来られることは、自明のことであり、だから膨らみ始めた春欄の花を待つより、もっともっと確かなこと、もっともっと深い喜びであったのだ。そして、その喜びがあればこそ、どんな闇の力にも、迫害にも負けないで、数限りない人たちが、キリストを今日まで証し続けてきたに違いない。


リストボタン「御言葉」を信じる喜び

 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(1ヨハネ3:23

 御言葉ってすごいなあ、と思う。くり返し、くり返し読んでいると、目に見える現実の世界よりもっと確かなリアルなものとして迫ってくる。

 *「わたしたちは、今既に神の子です」

私たちは、キリストの十字架によって罪赦され、既に神の子なのだと、御言葉が告げている。この恵みの御言葉に答えて、私たちも喜んで歌おう。

 ♪ああうれし、わが身も 主のものとなりけり(賛美歌529)と。

聖歌で歌うなら

 ♪罪とがを赦され神の子となりたる わが魂の喜び比べ得るものなし(新聖歌266)と。

 *「自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」1ヨハネ3:2

 私たちの復活の姿がどのようであるか、まだはっきりとは分からない、しかし分かっているのは、私たちが「イエスに似た者になる」ということだと、ヨハネは告げる。ヨハネだけではない、死者の復活の体はどのようであるか、と問われたパウロもまた、「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」1コリント15:49と言う。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ロマ書8:29)と。

 こうして拙いながらも少しずつ聖書を調べていくと、パウロもヨハネも、これらの言葉を聖霊に導かれて書いたのだと、はっきりと分かってくる。聖霊に示されるままに書いたからこそ、場所も時間も超えて、同じことが書かれているのだ。パウロと言う人、ヨハネという人が、自分の経験から考え出したことなら、それがどんなに素晴らしくとも、それはその人だけのものである。時空を超える神の言葉とは決してならない。聖霊に導かれ、聖霊に示されるままに書かれたこれらの手紙は、まことに「神の言葉」だと改めて思う。

 *「なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(1ヨハネ3:23

 イエスが再び来られるその日、イエスにお会いするその時、その希望が私たちの今日を「清く」律するのだという。

 日々の生活に忙しい時も、困難な問題で打ちひしがれる時も、ともかく御言葉から離れないようにと強く思う。御言葉だけが私たちの弱った心を支え、罪から清めてくれる。そしてその御言葉を信じることこそ、私たちが今日を生きる何にも優る喜びになるのだから。
**************************
ある聖書日課の表紙に、「毎日(朝が良い)、15分を主の御前に静まるために、取るようにしましょう。取れない日があっても、やめないで続けましょう。」とあり、これを読むたびに私の心は和やかになる。朝毎に静まらねばならないという義務感ではなく、静まる喜びを知ってほしいと勧められているように感じる。「取れない日があっても、やめないで続けましょう」という一言は、何と大きな慰めであり、励ましであることか。静まってないなと気づいた時から、再び静まって、聖書を読むことを始めればよい。

主は、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と言ってくださるから。


福音 №248 2009年1月

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「神に帰ろう」 リストボタン「子供たちへ」


  神に帰ろう

  神に帰ろう

  何をおいても

  神に帰ろう


 新しい年を迎えて、さあ今年こそ、できる限りのことをしよう、精いっぱい、力の限り労してみたいと思った。毎年そう思うのに、そんな熱い思いは、いまだ実現したためしがない。「良くやった」と自分で思えたためしがない。それでも性懲りもなく、あれもしよう、これもしようと、祈りのリストも作ってみたが、どうも深まらない、何か違う。

 そうでした、神様。まず、あなたに帰ること。あなたを離れて、この私にいったい何ができるでしょう。自分の力で人を愛そうとして、愛せないどころか、かえって傷つけてしまうことのくり返し。そんな愚かな私にもできるたった一つのこと。それはあなたに帰ること。あなたのもとに留まること。


 イエス様は、「まず、良い行いをしなさい」とは言われず、まず「わたしのもとに来なさい」と言われた。イエス様のもとでイエス様の為さることをつぶさに見、イエス様の言われることをしっかりと聴き、イエス様のお心にふれた時、はじめて、「ただで受けたのだから、ただで与える」という良い行いが、ほんの少しでもできるようになるに違いない。 イエス様、そうでした。あなたを信じることが先でした。あなたのもとに行くことが先でした。あなたの御言葉に聴き入ることが先でした。

 今年は「さあ、私の為すべきことは何か、どうすれば力の限りと言えるほど充実した日々になるか」と問うことは止めて、「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。」というコヘレトの言葉に従い、今与えられている、小さなことをなし続けよう。

 そして、今年もただ一つ。神を信じ、主イエスの御名を呼びつつ、御心を求めつつ、一日一日を生きていこう。何一つ大きなことはできなくても、「小さな者には小さな者の務めがある」と、主イエスさまが言われるから。 


  主よ、わたしの心は驕っていません。

  わたしの目は高くを見ていません。

  大き過ぎることを

  わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

  

  わたしは魂を沈黙させます。

  わたしの魂を、幼子のように

  母の胸にいる幼子のようにします。

 

  イスラエルよ、主を待ち望め。

  今も、そしてとこしえに。
         詩篇131編

 

愛するすべての子供たちへ

 「人が生きるって、それだけで大変なことなんだから」。普段は便りのないのが良い便りくらいに思っていても、ふとそう思うと、遠くにいるあなたたちのことが妙に心配になります。親元を離れて一人暮らしも長くなれば、少々の困難ではへこたれない強さも培われていることでしょう。結婚以来、ほぼ家庭の中で過ごしてきたお母さんより、この社会で生きていく力はよほど身についているかもしれない。それはそうなんだけれど、でも、やはり人生は謎に満ちている。思いがけないことも起これば、担いきれない苦難に出会うことだってきっとある。お母さんが心配しているのは、あなたたちがそのような苦難に出会うことではありません。その苦難に負けて、人生を投げてしまうことがないように、そして何よりも自分の力では超えられない困難な問題の前で、正しい道を見失ってしまうことがないように、ということなのです。

 あなたたちにとっては押しつけで、負担だったかも知れないけれど、幼い頃から日曜日には近所の子供たちも来て一緒に聖書を読み、子供賛美歌を歌い、お祈りをしました。今思い返せば、とても「神の愛に満ちた日曜学校」とは言えず、あの頃の子供たちに会えば「ごめんなさい」って謝りたい思いだけれど、それでもただ一つ、わが家の、すべての家庭の、世界の、宇宙の中心は神様なんだって、一人一人の子供たちの胸に刻みたかった。その神様の愛と、どんな時にも共にいてくださるイエス様をくり返し話しておけば、たとえ一度はキリスト信仰から離れることがあっても、きっといつか神様のもとに帰ってくる。力尽きて倒れそうになったときには、きっと「イエス様助けて」と叫ぶに違いない。そう信じたからなんです。

 まあ、もう心配するのはやめましょう。愛とか正義とか口先ばかりで、何もできないお母さんのことでさえ、イエス様は決して見捨てないで今日まで導き続けてくださった。あなたたちのことを覚えていてくださらないはずがない。あの頃、一緒に集まったなつかしいお友達、みんなどうしているんでしょう。あまりにも不十分なことしかできなかったから、赦しを乞いつつ、せめて今日は一人一人の名をあげて祈りましょう。もう取り返しがつかないって絶望しそうな時にも、クリスチャンには「お祈り」という奥の手があるんだってこと、忘れないでね。


 ♪ふくいんのきしゃにのってる てんごくゆきに ぽっぽ

  つみのえきからでて もうもどらない 

  きっぷはいらない しゅのすくいがある それでただゆく ぽっぽ 

  ふくいんのきしゃにのってる てんごくゆきに♪

ポッポの歌と共に、なつかしい聖句を!

  青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ。

  苦しみの日が来ないうちに。

  「年と重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレト
12:1

 

イエス・キリストは 昨日も今日も

また永遠に変ることのない方です。(ヘフ゛ライ書
13:8