福 音

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2012
著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌)

福音 №295  201212

リストマークイエスの誕生」 「レポートです」


 12月、寒さも厳しくなって集会でもクリスマスソングを歌うこの頃、「イエス様の誕生」に思いを馳せて、マタイ福音書1:18~24をくり返し読んでみました。
 普段は新共同訳聖書を使っているのですが、この箇所は何となくピンと来ないので、塚本虎二訳で読んでみると、なるほど・・・と、ぐっと身近になったので、塚本訳で書きます。
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 さてイエス・キリストの誕生はこのようであった。・・・・イエスの母マリアがヨセフと婚約の間柄で、まだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になっていることが知れた。夫ヨセフはあわれみぶかい人であったので、これを公沙汰にして女を晒し者にすることを好まず、内証で離縁しようと決心した。しかしなおもそのことを思案していると、主の使いが夢でヨセフに現れて言った、「ダビデの末なるヨセフよ、心配せずにあなたの妻マリアを家に迎えよ。胎内にやどっている者は、聖霊によるのである。男の子が生まれるから、その名をイエス(訳すると、神はお救いになる)とつけよ。この方がその民を罪からお救いになるのだから。」これはみな、主が預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためにおこったのである。・・・・
  見よ、乙女が身重になって男の子を産み、
  人はその子の名をインマヌエルと呼ぶであろう。
インマヌエルを訳すると、神はわれらと共なりである。ヨセフは眠りから覚めると、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を家に迎えた。しかし、子が生まれるまでは、一緒にならなかった。そして子が生まれると、その名をイエスとつけた。
..........................................

 これでも分かりにくいのは、マリアとヨセフが婚約の間柄だったということ。婚約中なら何もそんなに思案しなくても別れればいいではないか、と思ってしまいます。でも、それは私たちの感覚であって「ユダヤでは、婚約は法的には結婚と同じであった。婚約中に死ぬと離縁状を出して処理したほどである。ユダヤの結婚観の高さを示している」という解説(関根正雄講義)で深く納得しました。今の日本の様々な混乱は、結婚観の低さから生じているのかも知れません。
 このイエスの誕生の箇所から、多くのことを教えられ、読むたびに喜びがあふれます。「聖霊による」「罪からお救いになる」「神われらと共なり」、それともう一つ、「ヨセフは・・・命じられたとおりにし」という御言葉による喜びです。

 「胎内にやどっている者は聖霊によるのである」 マリアが聖霊によって身ごもったことを、不可解には思いません。マリアだけでなく、私たちも「聖霊が宿ってくださる神殿である」1コリント6:19とあり、「聖霊によって新しく生まれさせる」テトス3:5ともあります。また、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」1コリント12:3とあるように、私たちがイエス・キリストを信じることができるのも、聖霊が働いてくださるからです。土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れて人を生きる者とされた神は、ご自身が人となられるのにマリアの胎をお用いになったです。神様の御業を測り知ることはできないけれど、私たちの救いがすべて聖霊の働きによるのは確かなことです。このクリスマス、心を静めて聖霊をお迎えしたいと思います。

 「この方がその民を罪からお救いになる」 イエス様を信じたら困難がなくなるという訳ではなく、信じても信じなくても同じような苦難は起こるでしょう。ただ一つ決定的に違うのは、罪から救われること。神様の愛が分かるようになり、どんな状況の中でも、十字架の主を仰ぐことができるのです。

 「神われらと共なり」 神の子なるイエス様が私たちのところに来てくださった。そして今も信じる者と共にいてくださる。これに勝る喜び、平安はどこにもありません。終わりの日には「神が人と共に住み、人は神の民となる」黙示録21:3という御言葉が成就することを思い、希望に胸躍ります。

 「ヨセフは眠りから覚めると、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を家に迎えた。」という御言葉に、人としての光栄を思います。神に従う時にこそ、人は美しく生きられるのでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」ルカ1:38と答えたマリアと「命じられたとおりに」した夫ヨセフ、こんなにもこの二人を慕わしく感じるのは、今年がはじめてのような気がします。
 良きクリスマスをお迎えください。
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 この毎月の「福音」、これは神様に提出する、月に一度のレポートなのだと気づきました。ほら、通信制の学校などで学ぶ時、レポート提出の義務があるように、神様の学校で日々学ばせていただくのだから、月に一度くらいはレポートを提出しなくては申し訳ない、そんな思いで書いているのだと。
 始めはどんなに拙くても、一人の人にでもイエス様の喜びを伝えたい、キリストの十字架の愛と赦しを、人は死んで終わりじゃない永遠の命を伝えたい、そんな思いだったような気がします。でもそれだけなら、そのような思いが溢れてきた時だけ書けば良いわけで、何も毎月書く必要はなく、とても伝道にならないような内容では、読まされる方も迷惑な話に違いありません。それでも、私がこうして毎月書いて送るのは、キリストの十字架が神様と私の縦の関係と兄弟姉妹(人間)の横の交わりを完成してくださるためであったように、神様に提出したレポートを何人かの方にも読んでいただいて、神様との関係だけでなく人とのつながりも大切にしたいと願うからです。ご迷惑でなければ、「ふ~ん」と思ってお読みいただけると嬉しいですが、なんといっても私の信仰生活のレポートですから「そんなもの読まない」と言われる方は、どうぞご一報くださいますように。

 先日、韓国から派遣されて日本で伝道している宣教師の方が来られて、「無教会の歩みでご苦労なさるのは何ですか」と問われ、「無教会は組織がないから、誰からの命令も束縛も受けません。自由です。この喜びを満喫しています。無教会であることの苦労などありません」とあっさり答えました。でもよく考えると、無教会には確かに人からの命令や束縛は何もないけれど、だからといって、神様からの命令や束縛がないわけではありません。イエス様が「愛せよ」と言われるから愛せないながらも愛そうと努め、「従え」と言われる時は何をおいても従い、それでも従い得ない時には泣いて詫びねばなりません。誰にも何も言われないからと、神の言葉に従おうともせず、「信仰のみ、信仰のみ」と唱えて満足しているわけにはいきません。だから、この月一回のレポートは、神様学校で養われている私の最低限の努めだと今は感じてるというわけです。たとえ内容はどんなに不十分であっても、神様学校に「不可」はないから安心です。


福音 294  2012年11月

リストマークイエスさまに 正しい懲らしめ


原点に帰らなければと思う。
人となられたイエスさまに
荒野で誘惑を受けた時も、
  ただ神を拝し、神に仕えたイエスさまに
病む人、悪霊に取りつかれた人を憐れみ
  惜しみなく力を注がれるイエスさまに
「貧しい者は幸いだ、思い煩うな」と
  諭されるイエスさまに
力なき者、小さき者を慈しまれるイエスさまに
人々の真ん中に立たされた恥ずべき女を見ないで
  ががみ込んで地面に字を書くイエスさまに
「汝らの中、罪なき者まず石をなげうて」
  と言われるイエスさまに
弟子たちの足を洗い、
  腰の手ぬぐいでぬぐわれるイエスさまに
ゲッセマネの園で悲しみもだえ、それでも
  「御心のままに」と祈られたイエスさまに、
十字架の上で、「わが神、わが神
  なぜわたしをお見捨てになったのか」と
  叫ばれたイエスさまに
こうして、全人類の罪を贖い、今も生きて
  罪人の友となって歩まれるイエスさまに
このイエスさまに帰らなければと思う。
このイエスさまの御声に
  今日も聴き入らなければと思う。

 先日のメール集会は「エレミヤ書」46章だった。その日は一日中いろいろあって、夜になって、とりあえず読まなければと走り読み。こんな読み方をしてはダメだなあと思いながら、すーっと流して、最後の一節の前で、はたと立ち止まった。

  わたしはお前を正しく懲らしめる。
  罰せずにおくことは決してない。

何も聖書を斜め読みしていることで、罰せられると感じたのではない。そうではなくて、この御言葉に込められた神様の深い愛を感じたのだ。この御言葉の前に、まず

  わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと
  主は言われる。
  わたしがお前と共にいる。

とあり、神様は僕ヤコブ(選びの民)を全き愛で包んだ上で、「わたしはお前を正しく懲らしめる」と言われるのである。
 懲らしめ、それは罪ゆえの苦しみだと、今の私は思っている。罪と苦しみは表裏一体であって、罪には苦しみが伴う。それが懲らしめであり、もし苦しみという懲らしめがなければ、罪を罪と感じることも、認めることもできないのだ。
 抽象的に罪について考えているだけなら苦しむこともないだろうが、現実の生活ではそうはいかない。つい先日も、ある具体的な自分の心の動きが罪に根ざしていたと気づかされ、苦しんだ。プライドゆえか、コンプレックスゆえか、愛のない心は言うべきことを言わずにすませた。積極的に何かをしたのではない、だから、心の動きくらいは時間がたてば忘れるだろうと思っていた。だが、神様はそれが心の動きであっても、あったことを無かったことにはなさらない。どんな些細なと思われる罪であっても、「わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない」と言われる。そして、その懲らしめによって、罪とはこのように苦しいものだ、ああ、こんな苦しい思いをするのなら、もう二度と悪しき心など持つまいと思わせてくださったのだった。
 自分の罪に苦しむ時、これからは神様を一心に見つめ、御言葉に生きよう。人の顔を見て怯んだりすまい、悪しき感情に流されたりすまい、誰に対しても善意以外持つまいと決心するが、いつしかまた逸れてしまう。それでもその度に、罪を悟らされて苦しみ、「助けてください」とすがり祈り、ついには神様の喜びに満ち溢れさせてくださる。
 罪を罪のままで放っておかれることなく、御言葉によってその罪を悟らせ、悔い改めに導いてくださるとは何という恵みだろう。そしてその悔い改めにはこの世では得られぬ、何ものにも代え難い、天的な喜びがともなうのだ。これが、主イエス様が、日々私たちの足を洗ってくださるということなのだと、感謝があふれる。

 水曜集会では、新約の学びの前に旧約聖書を一章ずつ読んでいる。先日は、申命記15章だった。その中の「奴隷の解放」の箇所から。

 同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、6年間奴隷として仕えたならば、7年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。・・・・もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、「わたしはあなたのもとから出ていきたくありません」と言うならば、あなたは錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。申命記15:16

 ここを読んで、奴隷という人権を剥奪された最悪の状態に、愛のゆえに留まりたいという人がいたのだといたく感動した。愛とは、数々の権利や自由意志さえも放棄させるほど、人を豊かに深く満ち足らせるものなのか。そして、気づいた。そうだった、キリストの奴隷と自ら名のったパウロも、他の多くの弟子たちも皆、キリストの愛のゆえに、その愛に満ち足りて、キリスト以外の一切のものを欲しなくなった。それゆえに、キリストの奴隷として、死ぬまでキリストにお仕えしたいと願ったのだ。もちろん死んだ後も、永遠に。
 人が人を支配しようとする時は、権力や、脅しや、金品や・・・それらの力で支配しようとする。しかし、キリストはご自身の命を与えるほどの愛をもって、私たちを支配してくださる。この愛の支配を一度味わい知った者は、「わたしはあなたのもとから出ていきたくありません。あなたのものである、十字架の印を私にも与えてください」と心から願うようになるのだ。こんな喜びは、キリストの他どこにもない。


福音 293 2012年10月

リストマーク御手の傷


彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、
わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5

 東の空に金星がひときわ美しい夜明け前、一人の姉妹を思い、この祈りだけはどうしても聞いていただきたいと祈った。ならば、何かを捧げなければ。自分は何も痛まないで、ただ「お願いします」では申し訳がない。何か苦しまなければ、何か痛みを負わなければと思い、「そのためなら、どんなことでも受けます」と言おうとしたが、それは怖くて言えない。神様から与えられる試練なら、それに耐えるだけの力も与えられるだろうが、自分から望んだ試練は自分の力で耐えねばならない。そんなことできるはずがないと、怖くなるのだ。
 どうすればいいのだろうと、輝く星たちを見上げた時、下の方にキラキラ光る小さな星を見つけた。かつて、遠くから顕れて「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」と御言葉を語ってくれた、あのなつかしい星。その御言葉を思っていると、そのとき、主は御手をのべて「ほら、あなたの痛みはわたしが負った。あなたの傷はわたしが受けた」とご自身の傷を示してくださった。
 キリストの十字架だけが、私を救い、姉妹を救い、世界中の人を救うのだ。それに何かを添えて、もっと救いを確かにしたいなど、金星の光にロウソクの明かりを足して、もっと明るくしようとするくらい愚かなことなのだ。
 そんな愚かな者にも、「あなたの傷はわたしが受けた」と御手を伸べてくださる主がおられる。この主が救ってくださるのだと喜びにあふれたとき、あっ、ひとすじの光。星たちが「それでいいよ」と流れ星を見せて、祝福してくれるかのようだった。


 讃美の歌には、イエス様の御手の傷を歌ったものがいくつかある。なぜか、不思議なほどそれらの讃美に心ひかれる。まず、聖歌646番。新聖歌には入っていないので、もうほとんど集会で歌うことはないのだが、私には忘れられない歌で、4番まで歌詞を暗記している数少ない歌の一つである。

尊き血をもて贖いませる
    主にまのあたり会うとき
いかばかり胸は恵みのゆえに
  感謝に満つることならん
わが主をわが主を われ御側に立ちて知らん
わが主をわが主を われ御手の傷にて知らん

主にお会いして、この方こそ私の主だとわかるのは、御手の傷によって。イエス様と私は、その傷によってこそ深く永遠に繋がれているのを思う。

 次は新聖歌453番。

  汚れし巷歩む 人をば引き上げ
  主イエスは傷のある手 開きて語りぬ
  「愛する汝がために 負いたる傷なり
  重荷を解き降ろして 休らえ静かに」

愛のしるしは、その人のために負うた傷だとしたら、私の日々が何の傷も受けず、痛みもしないことを誇ってはならないのだ。

 新聖歌221番、「ああ主のひとみ」は多くの人の愛唱歌だ。

  昨日も今日も 変わりなく
  血しおしたたる 御手をのべ
  「友よかえれ」と招きつつ
  待てるはたれぞ 主ならずや

今も生きておられるイエス様が、神に背いて止まない私たちをどんな思いで見つめておられるかを思う。美しい清らかな手ではない。血だらけの手である。その手を伸べて「あなたの罪はわたしが負うた、さあ、帰りなさい」と招いてくださる。どうして帰らないでおられよう。

 何年頃のものか分からないが、確か「いのちのことば」の巻頭言だったと思う。書店からの帰り、電車の中でくり返し読んだことを覚えている。そのページを切り取ってしまっておいたらしく、赤茶けた紙が引き出しの奥から出てきた。そうだった、「たとえ人が何をしようとも、いま愛されている以上の愛を神からうけとることはできない」という言葉に、十字架の愛とはそういう愛なのだと、深く心打たれたのだった。筆者の名前はないけれど、ここに写します。よろしければお読みください。

  「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エヘ°ソ4:32)

 聖書の教える「優しさ」とは何だろうか。それは、キリストの優しさからだけ来る優しさなのである。では、キリストの優しさとは、世間一般のいう「優しさ」とどこがちがうのだろうか。十字架があることである。つまり、手のひらに傷を持った優しさである。「神がキリスト(の十字架)においてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合」うこと。これが、キリスト者(キリストの者)たちに求められている優しさなのである。つまり、私たちも手に傷を負う優しさを求められているのである。
 キリストの優しさの背後にあるキリストの赦しの偉大さは、私たちクリスチャンの行いが証ししている。しかも、善い行いでなく悪い行いがである。数々の罪を犯した私の手は、罰を受けるべき手である。しかし、罰としての傷は、不思議にもキリストの御手についているのだ。私の行いは、全部あの傷の痛みの中に引き受けられている。そしてキリストは、私の行いとは全く無関係に私を受け入れておられる。彼の優しさは、今も、これから先も、私の行いによっては全く影響を受けない。
 「たとえ人が何をしようとも、いま愛されている以上の愛を神からうけとることはできない」(ロイド・ジョイ・オジルヴィ)
 クリスチャンの互いの優しさも、行いと無関係の優しさであるはずである。相手の行いによって影響されない優しさ。相手から良いものを受けようと、悪いものを受けようと、今以上にも以下にもならない優しさ。いつでも同じだけ開かれた受容の手。こういう手になるためには、私の自己中心の両手は、何度も傷つき、そして癒されなければならないのだろう。キリストの御手の温かい傷によって・・・。(F)


福音 292 2012年9月

*      「御言葉を思って」


 互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ人への手紙10:2425

 今年も京都桂坂の地で、近畿無教会集会を開くことができた。「良い集会でしたね」という言葉が、吹き始めた秋風のように、ごく自然に聞こえてくる。「マラナ・タ(主よ、来てください)」と、主を待ち望むテーマだった。主は確かに来てくださった。
 私たち準備会も何をしたのでもない、ただ続けてきたのだ。日程を決め、講師を考え、プログラムを作り、それだけをくり返してきた。そこに、主が来てくださる。何という恵みだろう。キリストの集会とはそうなのだと思う。信じる者が集まって、主を待ち望む。そこに主が来てくださる。特別集会だけではない、2、3人の家庭集会でも、主を求めて集まるなら、そこに主が来てくださる。聖霊の風がすーっと吹き、永遠の中に憩わせてくださる。この罪の世にあって、奇跡のような恵みだと、改めて思う。

 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい(ピリピ4:6
 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(2ペテロ5:7

 ある信仰の姉から、この二つの聖句をくり返し聞くうちに、本当にこの聖句こそ日々の生活を生きるための最上の処方箋だと思うようになった。処方箋とは患者の必要のために医師が書くものだろうが、イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」と言われているから、この聖句は、医者であるイエス様が、世の重荷に耐えかねて、頭が痛い、心が沈むとフラフラしている私たちの必要のために、パウロやペテロを通して書いてくださったものに違いないと思うのである。
 イエス様の処方箋は簡単明瞭、「神に打ち明けなさい」「神にお任せしなさい」。自分の失敗や過ちに気落ちしたら、さあ、その場で、そのままの自分で、「神に打ち明けなさい」という御言葉を思い起こそう。思いがけない苦難に押しつぶされそうな時、これからどうなるのだろうと不安が広がる時、そんな時こそ「神にお任せしなさい」という御言葉を信じて、心を神様に向けよう。何と言っても次の御言葉が心強い。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」私たちのすべてを知っていてくださる神様が、「あなたのことを心にかけている」と言ってくださるのである。愚かさも過ちも責めないで、このどうしようもない者を黙って引き受けてくださるというのである。

 体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。2コリント5:6

 ずっと以前、NHKの大河ドラマだったかも知れない・・・、参勤交代で江戸に妻を残して自分の領地に帰る大名が、妻と語らう場面。「私がこうして江戸にいる一年と、お前一人でゆっくり過ごすこれからの一年と、どちらが良いか」。妻はほほ笑みながら静かに答えた。「あなたと共に過ごす一年、あなたを思って過ごす一年、わたしにはどちらも愛おしい日々でございます」。 私はこの言葉を美しいと思った。「別れるくらいなら、死にます」などというのは愛ではない。その人を想うて生きる喜びがある。
 こんな時代劇の一場面から、イエス様への思いを書くのは不謹慎だと言われるかもしれないが、第2コリント56節のパウロの言葉を思って、「あなたと共に過ごす日々、あなたを思って過ごす日々」という言葉が、妙に嬉しいのだ。
 地上でのこの身体の日々を終えても、天から与えられる住みかを上に着て、永遠の命に生きる。聖霊によってそのことを知っている私たちはいつも心強いのですが、「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」とある。
 そうだと思う。主イエス様はこの世にあっても、いつでも、どこでも、求める者と共にいてくださるが、やはりこの「体を住みかといているかぎり、主から離れいることも」確かなのだ。今はこうしてイエス様を思って過ごす日々。そしていつか、文字通り顔と顔を合わせてお会いし、共に過ごす日々。わたしにとってはどちらも愛おしい日々。

 「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」ヨハネ13:14

 愛するとはその人の足を洗うこと。その人を敬い、心から大切に思うこと。
 かつて、子供たちに日曜学校で教えたっけ。パンの絵を描き、イエス様は命のパンだと。羊と羊飼いを描いて、わたしたちは羊、イエス様が羊飼いだと。ちっともうまく伝わらなかったなあと思っていると、ある人が書いていた。「伝道は同情である。同感である。他人と同じ立場に自分を置くことである。教育ではない」。
 またある人が話していた。「アル中のこの人を変えなければ、家のないこの人をどうかしてあげよう、なんて考えていた自分が恥ずかしくなった。私など思いもよらない御苦労をされてきたのだとわかった時、お一人お一人に尊敬の念があふれてきた」。それでこそ本物、これこそ足を洗うこと。
 子供の心にも届いた話を聞いた。家庭で親から虐待を受けていた少女が、教会に行って「神様は何でも知っていてくださる。 神様は何でも聞いていてくださるから、人に言えないことでも神様にお祈りすればいい」と教えてもらい、その日から神様が少女の友なった。大きくなった少女は結婚して子供ができて、今では家族そろって神様を信じていると。苦しみに耐えた一粒の麦は、確かに豊かな実を結ぶ。 

 絶えず祈りなさい。1テサロニケ5:17 =祈れないときこそ、祈る=
 
 ちょっと思い通り行かないことがあって、何となく気落ちして、テレビのスイッチを入れてみたりして。でも、見るものも何にもなくて・・・。まだまだしなければならないことがあるのに力が出ない、やる気になれない、さてどうしようと迷った時、う~ん、何となく「イエスさま」と声に出してみる。「イエスさま」と小さな声で。あら不思議、何を祈っているでもないのに、いつしか心は広やかに自由になり、あの人この人に善きことを祈っている。思い通りに行かなかったことも、イエスさまがフォローしてくださると信じることができて、さあ、前進。
 「イエスさまってすごい!」と心の底から感動する。祈れない時こそ祈る、祈れなくても「イエスさま」と、御名を呼ぶ。イエスさまは本当に、信じる者にとっては力の源なんだって、どうしても書きたくて。


福音 №291 20128

リストマークマルコ福音書から


 イエス様に会いたくなると、福音書を読む。昨夜も、夜中に目が覚めたので「マルコによる福音書」を1章から読んだ。10章あたりまで読むと、頭がぼんやりしてきたので、最初の、十字架のイエス様に出会いたいという願いは断念して、もう一度眠ることにした。
 横になっても、5章の悪霊に取りつかれて昼も夜も叫びながら、石で自分を打ちたたいていた人の苦しみが思われて、そのたった一人の人と出会うために、ゲラサの地にまで行かれたイエス様のお心を思った。

 今回この箇所「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」(マルコ5:1-20)を読んで特に迫ってきたのは、このゲラサの人に取り付いていた悪霊の凄さだ。以前から悪霊の名「レギオン」とは5千人もの軍団だと聞いて知っていたが、その悪霊の力の凄さが身にしみて分かってはいなかった。今回読みながら、その悪霊が豚の大群に入ると2千匹もの豚が崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んでいく・・・という情景が思われて、何と、そのすべての悪霊がこの人一人に取り付いていたのだと思うと、気が遠くなりそうだった。

 「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」マルコ5:3-5

 こんな想像を絶する苦しみの中、この人はなぜ生かされていたのか。この人だって死にたかっただろう。死んだほうがどんなに楽かと思っただろう。だから、石で自分をうち叩いていた。この人を見た人も、どうしてこの人は、こんなになってまで生きているのだろう、と思っただろう。でも、このゲラサの人は生きていた。いや、生かされていた。ただ一つのことのために。イエス様と出会うために。

 そして、ついにその日はやって来た。この人が自分から呼んだのでもない。誰かが見るに見かねて「助けてやってくれ」と頼みに行ったのでもない。それでも、イエス様は知っておられた。遠くゲラサの地で悪霊の虜となり、荒れ狂っている人のことを。そして、この人と出会うためにだけ、ゲラサの地まで出かけて行かれた。「汚れた霊、この人から出て行け」と悪霊を追い出し、神の似姿に造られた人間としての尊厳を取り戻させるために。
 このゲラサの人だけではない。私もまた、イエス様に出会うために生まれ、生かされて来たのだと思った。私だけではない、神によって造られた全ての人は、このイエス様に出会うために生まれ、生かされているに違いない、と。

 今、この世に何の希望も持てず、死にたいと思っている人がいるなら、そんなあなたを探し求めおられるイエス様がいることを知ってほしいと思う。「人の子(イエス)は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われるイエス様に出会うために、あなたは今日も生かされているのだと。
 たとえ世界中の人が「お前なんかいないほうがいい」と言ったとしても、自分でもいない方がいいと思っても、イエス様だけは決してそうは思われない。「わたしはあなたのために、命を捨てた。あなたはわたしのものだ」と言ってくださる。
 このイエス様の言葉に賭けて、生きる人生!って、いいなあ・・・と思っていると、いつの間にか眠っていた。

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 それともう一つ心に残っていて、朝になって考えたのは、イエス様が「汚れ」について話された箇所・マルコ:1423だ。

 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 この頃、マーケットで山積みにされている野菜が安ければ安いで気になって、60も過ぎた私はともかく、若い人や子供たち、特に赤ちゃんの食べ物には気をつけないといけないとのことで、さあ、みんなが集まる夏休みはちょっと気を引き締めなければと思っていたが、この箇所を読んで、食べ物以上に心しなければならない問題に、ドキっとした。
 子供たちに悪いのは放射能汚染された食べ物だけではない。大人が何気なく発する悪しき言葉、たとえ言葉にしなくても悪い思いこそ、人の心を汚す。食べ物は良いものと悪いものと、ある程度は選別して与えることができるだろう。でも、自分の心を清くして悪いものが決してでないようにし、良いものだけを与え続けるのは不可能に近い。盗み、殺意、姦淫というと、日常生活からは遠いように思っても、テレビをつければそれが現実の社会だと言わんばかりに映し出される。それらはすべて、人間の心から出てきたものなのだ。ねたみ、悪口、傲慢と、この心の悪を除染する薬品はどこにもない。

  人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。エレミヤ17:9

 人が救われるとは、このとらえ難く病んだ心が、いやされ清められることである。一人一人の内なる罪が取り除かれなければ、どんな経済的な豊かさも、万全の社会保障も、この世に平和をもたらしはしない。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」ヨハネ1:29と言った洗礼者ヨハネの言葉は今も全地に響いている。

  主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。
  あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。
  あなたをこそ、わたしはたたえます。 エレミヤ1714


福音 290 2012年7月

*      主日礼拝 :2テサロニケ1章


 雨も上がり緑輝き、クチナシの香る風のさわやかさに御国の喜びを思う、日曜の朝。
 まだ神様を知らなかった頃、日曜毎に思ったっけ。さあ、今日は何をしようか、予定のある日はいいけれど、何もなければ退屈だったり。それが、日曜日は神様を礼拝する日、イエス様の復活を喜び祝う日だと知らされて、私にとっても日曜日が天国の前味にあずかる最高の日となった。
 7月というのにひんやりと快く、机の上には薄紫の花をつけたミントの枝と、朝開いたばかりの深紅のバラを一輪。その日の礼拝は、新聖歌37番をもって始まった。

   主よ命の言葉を 与え給えわが身に
   われは求むひたすら 主より賜う御糧を   新聖歌37

 命の糧なる御言葉を慕い求めてはじまる礼拝。集まった一人一人が自分の聖書を開いている。そんな当たり前のことが何ともうれしい。「マイ聖書」、線を引いても、書き込みをしても良い聖書。こんなふうに自分の聖書を持てることを当たり前とは思うまい。自分の聖書など持てない時代の方が長かったのだ。この聖書が私のもとに届くまで、どれだけの人が迫害に耐え、愛の労苦を重ねてきたことだろう。神と人への感謝なくしてこの聖書を開くことはできないのだと、今思う。

 聖書箇所は、「テサロニケの信徒への手紙二」1章。
輪読の後、15分間、一人静かに御言葉に聴き入る。「朝の15分があなたを変える」というキャッチフレーズで、朝毎の聖書と祈りへの勧めがあったけれど、確かに15分というのは絶妙な時間だなあと感じる。聖霊が臨んでくださるための静まりにピッタリの時間かも知れない。その後、その日の当番の人が話し始める。

  「パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」1:1-2

 第一の手紙を書いて間もなくこの第二の手紙を書いたのは、なおも迫害と苦難の中にある人々を励まし、第一の手紙に書いた「主が来られる日」について誤解しないように教え、その日を待ち望むにふさわしい生活を示すためであった。挨拶の内容は、1も2も同じだけれど、この手紙では「わたしたちの父である神と主イエス・キリスト」という言葉が2度くり返され(新共同訳)、神はわたしたちの父なのだ、イエス・キリストはわたしたちの主なのだ、わたしたちは一つなのだと、パウロの熱い思いが伝わってくる。

  「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」1:3

 キリストの福音を伝えたパウロが感謝せずにはいられないほど、テサロニケの人たちの信仰は成長しているという。その後を読むと分かるように「ありとあらゆる迫害と苦難の中で」である。神を信じ、キリストを見上げて耐える苦しみは「神の国のための苦しみ」であり、そこに信仰の成長があるのだと知って、深くうなずく。
 そして信仰の成長は、愛の豊かさとなって現れる。「お互いに対する一人一人の愛」が満ちている集まりこそ、まことのキリスト者の集まりなのだ。かつて、ページがバラバラになるほど読んだ、ボンヘファー「共に生きる生活」の一節を思い出す。

 「小さなことに感謝する者だけが、大きなものを受けるのである。・・・もしわれわれがその中に置かれているキリスト者の交わりに対して、たといその交わりの中にはすばらしい経験もなく、人目を引く豊かさもなく、多くの弱さと小さな信仰と困難さがあるだけだとしても、その交わりに対して感謝することができず、・・・いつも神に不満を訴えているならば、・・・神がわれわれの交わりを成長させようとして下さるのを、妨げることになるのである。・・・兄弟のためにとりなしをしなさい。あなたに委託されていることを行い、神に感謝しなさい。」

 互いの愛こそが信仰の実りであり、感謝する者だけに与えられる神の賜物なのだ。

  「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。」1:6-7

今回の学びで印象的だったのは、「休息」という言葉の説明だった。主が再び来られて報いとして与えられるのが、ほっとひとやすみ!というような休息だったら、どうも喜びが湧いてこないなあと一人読みながら感じたが、ここでの休息とは、労苦を解かれ主と共に新しい命に満たされることだと聞き、ワーッと喜びが広がった。また、

  「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」1:8-9

 という箇所の説明も、よく分かった。神を認めない人が終わりの日に受ける罰とは、「主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離され」ること。すなわち、神様、イエス様の愛から全く切り離されてしまい、悔い改めの機会を失ってしまうこと。確かにそれこそが「永遠の破滅」なのだと思うと、「ならば今この時にこそ、人々の救いのために、わたしの十字架にすがって祈りなさい」と、主の呼びかけが聞こえる思いがする。最後に
「わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。」1:12

という御言葉に、アッと驚き納得した。そうなのだ、私たちが、神(主イエス)をあがめる時、私たちもまた、人間としての誉れを受けることになるのだ。もし私たちが神をないがしろにするなら、私たちもまた人間としての尊厳を失い、堕落の一途をたどることになるだろう。
 心の限りに神様をあがめる時、私たちの心も高く上げられる。苦しい日にも、悲しみの夜にも、何も出来なくても、ただ主に望みをおき、御名をあがめさせてくださいと、あふれる心で祈りを合わせ、神の国の賛美を歌い、緑の風に包まれたうるわしい礼拝は閉じられた。

 こうして日曜毎に、命の糧なる御言葉をいただき、
永遠の安きを 待ち望みて 君(主イエス)の来ますを 切に祈る
と歌う幸いかに。


福音 289   2012年6月


イエスは・・言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。」

ヨハネ福音書14:23



*      しあわせ 共にいる


しあわせは形でなくて
いつも心にあるのだと
言いかけてふと空に 虹を見つけました

 運転中にオーディオから流れてきたこの歌詞が、何とも美しい虹のように思えて、それから何人の人に話しただろう。「しあわせって、健康であるとか、家族がいるとか、大きな家があるとか、そんなことじゃなくて、しあわせって心の中にあるんだよね、きっと」。そんなことを今更のように熱く語る私に、「そうだね」と言ってくれる人もいれば、「でも病気で独りぼっちで、お金もなくて、しあわせなんてあり得ない」と、今更のように言う人もいる。若い頃の私なら、それに強く反論できなかったかも知れないが、年と共に様々な人と出会い、その人たちと少しでも深く関わることによって、世に言うしあわせの形が整うことと、しあわせとは無関係であると、今なら断言できる。しあわせは形でなくて、しあわせは「あなたの近くに、あなたの心にある」のだと。
 「しあわせが形じゃないなんて、あたりまえ。でも、心にあるって言われてもねえ」と言う人もいる。本当に、しあわせなんてあるのだろうかと、私も思っていたのかも知れない。中学の卒業文集に「幸福とは、欲望を制限することである」と書いたくらいだから。でも、これもまた今なら断言できる。しあわせは、欲望を制限することでも、数々の不幸を遠ざけることでもない。しあわせはあるもので、天にも地にも満ちている。
 しあわせとは、神様の愛、その愛の結晶であるイエス様。どんな悲惨の中にも、絶望的と思える所にも、しあわせはやってくる。自分の内からは悪い思いしか出てこなくて、どうしようもない空虚感にさいなまれて、惰性で生きるしかないと思っていたのに、そんな私にさえ注がれた神様の愛。イエス様がご自身の命にかえて、注いでくださった愛。それがしあわせだと、私は信じている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが「・・・どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。ヨハネ福音書1:3839

 師であるバプテスマのヨハネから、すぐ側を歩いているイエスこそ「神の子羊(メシア)だ」と聞いて、イエスについて行った二人の弟子。ご自分に従って来る二人を見て「何を求めているのか」と言われたイエス。
 「何を求めているのか」という言葉には、心の奥底までさぐられる。今、私はこうして6月の福音を書いている。これは何を求めてのことなのか。夫は今日も重いカバンを引いて「出張」と一言、出かけていった。何を求めてのことなのか。今朝の新聞には「大飯再稼働 首相決断へ」とあった。首相の決断、それは何を求めてのことなのか。すべての人の言動は「何かを求めて」に違いない、たとえ自分でもその真意に気づいていないとしても。それが何なのか、耳を澄ませば、今もイエス様の「何を求めているのか」という御声が聞こえる思いがする。 
 イエス様は幼子を愛された。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。幼子は、「何を求めているのか」、自分が求めているものを全身で表現する。それが周りの人にまで分かるほどに。
 先日、近畿集会の準備会があって、そこに一人の幼子がいた。その素直な姿、つぶらな瞳に「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」というイエス様の言葉を思った。その小さな女の子が、天使のように見えたからかも知れない。そんな経験ははじめてだった。会合が終わり、帰ろうとして車に乗るとその子が泣きだした。「一緒に行く」と言葉で言わなくても、その子が「何を求めているのか」みんな分かった。その子は誰かと少し一緒にいると、別れるときには泣くのだという。車が走りだしても「一緒にいたい」と泣きじゃくるその子の愛を、私は忘れない。
 イエス様に「何を求めているのか」と言われて、「どこに泊まっておられるのですか」という弟子の返事が腑に落ちなかったけれど、そうか、それは「一緒に行きたい、あなたのいるところに私もいたい」ということなのだ。だから、イエス様は「来なさい、そうすれば分かる」と言われ、二人はついて行って、イエス様のもとに泊まることができた。「何を求めているのか」と問われたなら私も、素直な心で、「イエス様、あなたと一緒にいたい」と言おう。どのような所であっても、「あなたの行かれるところに私も行きたい」と言おう。言葉に出さなくても、誰でもが「ああ、この人はイエス様と一緒にいたいんだな」と分かるように生きていよう。あの幼子の愛のように。

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「オウム菊池容疑者逮捕、逃亡17年」と、テレビでも新聞でも報道している。「もう逃げなくていいと、ほっとしています」という言葉に、罪の苦しみがにじみ出ている。一度犯した罪は、いつまでも、生涯負い続けねばならぬものだと改めて思う。でも、菊池さんに限らず、人はみな、何らかの罪を背負って生きている。多くの場合、警察に追われるようなことはないから、忘れてしまえばそれで無かったことにもなるが、どんな小さな罪も心のどこかには残っていて、それが心を暗くしたり、無気力にしたり、人との真実なつながりを妨げたりする。罪の赦し、それなくして人の心に平安はない。罪からの解放、それなくして人は決して自由には生きられない。イエス・キリストこそが、イエス・キリストだけが私の救い主だと信じるのはこのためだ。このお方だけが、私の心に平安を与えてくださったから。このお方だけが、私を自由にしてくださったから。このお方だけが、取り返しのつかないはずの人生を、全く新しくしてくださったから。


福音 288 2012年5月

*        「希望」「主にある姉妹」


 「キリスト教には希望があるから、私はその希望を伝えたい。」と彼女は言った。「ええっ、希望って、死んでも復活するとか、天国に行くとか、そういうこと?」と聞くと、「そういうこともあるけど、でも、今この世でのこと。ほら、この世ではダメな者はどこまでいってもダメじゃないですか。貧乏は不幸で、重い、治らない病気になったら最悪で、美人はうらやましがられて、ぶさいくな者は劣等感をもつような、そんな世の中って、希望がないじゃないですか。でも、聖書を学び始めて、ダメも、不幸も、最悪も、劣等感も、それらをはるかに超える平安や、喜びがあるって分かって。どうしようもないと思っていた私が、こんなにも神様に愛されているんだって分かって。だから、この世がすべてと思ってあきらめている人に、希望があるって伝えたいんです。」
 小さな子供を抱えて、体の不調を持ちながら、それでも目を輝かせて語る彼女の姿に、イエス様ってすごいなあ・・・と、圧倒された。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
  わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。イザヤ55:8

 窓を開けば、緑に萌える桜の木々。一月前にはピンクの花びらが風に舞って、天使のようだと見とれていたのに、今は5月の光を受けて、緑の葉っぱがさわさわと風に揺れている。耳を澄ませばウグイスの声も聞こえる。本当に、希望は神様のもので、神様から来るのだと、造られたすべてのものが語っている。

 「待てば海路の日和あり」。これは聖書の言葉ではないけれど、この言葉を思うと涙がにじんだりする。うまくいかないことはいっぱいあって、もうどうしようもないよと足がすくんで、それでも待っていれば、神様を信じて待っていれば善い日がある。いつ頃からだろう、心底そう思うようになった。そう信じて待って、そうなったというのではない。善い日があるなんて思えなかったのに、私の思いを超えて、あの人にも、あの人にも、善い日がやってきた。そうか、なるほど、神様を信じて待てば海路の日和はあるんだと、これが神様がおられるということなのだと、今つくづく思う。自分の知恵や力がすべてなら、人間がすべてなら、この世がすべてなら、どこに希望があるだろう。でも、人の思いをはるかに超えた神の御思いがある。人の考える道とは異なる神の定められた道がある。
 その、神の究極的な御思いは、キリストの十字架によって現され、御国への道はキリストの復活によって
開かれた。そして、キリストの再臨を待ちながら私たちは今日を生きる。これが希望なのだと、すべての人に開かれた、全世界を、宇宙を包んでいる希望なのだと、心は高く舞い上がる。
 しかしこのような歓喜は、常に現実によって、この世の呻き苦しみの中に引き戻されねばならない。イエス様と共に歩むとはそういうことなのだと、味わい知らされた一日から。

 半月ほど前、思いがけずMさんから「いつの日か宮田さんと一緒に,Nさんのお宅に行けたら・・・共にお祈りできたら・・・と夢をえがいております。」とお便りをいただいた。私はMさんやNさんとそれほど親しいわけでもないのに、こんな私を誘ってくださったのがうれしくて、すぐに「ふさわしい時が与えられましたら、お知らせください」とメールすると、その夜には何と、「主なる神さまは必ずNさんを訪問する日を与えてくださると確信しました。目的は3人でご一緒に祈る」と返信があった。次の次の日には、「NさんOKです。では○○駅で時に」とあり、ほんの6行ほどのお便りから10日間で、電車で2時間ほどかかるNさん宅訪問が成ったのであった。
 しかし約束をした後、私もふと考えた。MさんとNさんは何もかも知り合った親友で、そこに私が入って、心を合わせて祈ることができるだろうか。私なんか場違いだったらどうしよう。不安を抱えて、それでもとりあえず 「天のお父様」と一言、天を仰いだら、ああそうだった、神様は私たち3人のお父様。ということは,MさんとNさんと私は三姉妹。何の恐れることがあろう。キリストによって贖われ神の子とされた喜び、再び来てくださる主を待つ希望、何よりもイエス様が共にいてくださる恵みを語り合えばよいではないか。Nさんは今、とてつもない試練の中におられると聞いている。でも、私には、苦難の中にいる方を慰めたり励ましたりする力はない。そうだ、それでは三人でスポルジョンを読むことにしよう。私は「朝ごとに、夕ごとに」を開くたびに心は高く高く舞い上がる。きっとNさんの心も高く高く舞い上がり、歓喜で満ちるに違いない。
 今苦しみの中にある人に対する、想像力も注意深さもない浅はかな私は、当日の箇所をコピーして、M
んとの待ち合わせて、Nさん宅に得々として出かけていった。
 当日の「朝ごとに」の箇所の聖句は「あなたがは、この世では悩みがある」。ヨハネ16:33

「信者よ、あなたはその理由を問うのか。仰いであなたの天の父を見、その純潔と神聖をながめよ。あなたは、自分がいつか彼のごとくなるのを知っているか。あなたは容易に彼の御かたちに似るものとされるだろうか。あなたは、きよめられるため、艱難の炉の中で十分に鍛えられる必要はないか。あなたの汚れを除き、あなたの天の父が完全であられるごとく、完全なものとされるのは容易なことであろうか。・・・・・」

声をあげて読みながら、これはいけないとすぐ気づいた。今苦しみのただ中にある人に、その艱難はあなた汚れを除き、完全なものとするためだなどと言うべきではない。案の定、Nさんは言った。「私は今、この現実を受け止める力が欲しいのです」と。
 イエス様は確かに十字架にかかり、永遠の救いを成し遂げるために来てくださった。でも、イエス様はそれだけでなく、今傷ついて痛む人のため、やり場のない苦しみに呻き悶える人のためにも来てくださったのだ。
N
さんの苦しみを思いやろうともせず、ひとり舞い上がっている自分をどれほど恥じたことか。自分の浅はかさ が辛かった。

 にもかかわらず、Mさんは「三人で神様を賛美できて、感謝でいっぱいです」とすぐにメールをくださった。Nさんからも「昨日は遠路はるばるMさんとおいで下さって、心から感謝し、豊かに恵まれたひとときに、神さまのエールを感じたことでした。」と、何とも慰めに満ちたメールをいただいた。私の「場違いにならないか」という不安は的中したけれど、でも、私たちは神様をお父様とする三姉妹という天よりの声は確かだった。「神様の話をみんなですることは、本当に元気が出るし、楽しいことです。」というNさんの感想。やっぱり私たちの天のお父様はすばらしい!


福音 287  4月

*        「御言葉の力」


 聖書ってすごい、と思う。今読んで、すぐに分かって、効果てき面と言うわけではないが、「聖書の言葉を覚えておくことは、多額の貯金をするより、はるかに価値があります」と言われたおじいさんの言葉は本当だったと、感謝にあふれる。
 何十回も読んで、聞いて学んだイエス様のたとえ話が、ある時、そうか、そういうことだったのかと分かって、天が開けたような思いさえして歓喜でいっぱいになったり、一つの御言葉によって目から鱗、世界中の真理を悟り得た思いがしたり。ともかく、聖書の言葉ほど私の心にダイナミックに働くものはない。本当に、もし聖書を読むことを知らなかったら、元々生きることに意欲的でなかった私が、今日のように喜んで生きられなかったことだけは確かである。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。
 「人は皆、草のようで
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
これこそ、あなたがたが福音として告げ知らされた言葉なのです。(1ペトロ1:2324

  確かにそうだ。「求めなさい。そうすれば、与えられる」という主の言葉を信じて、神様もキリストも分からないまま闇雲に信じて、ただ真実な道を求めて、歩み始めた。
 キリスト集会というものに参加して、「(天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と聞いて、神の愛に圧倒された。
 一人たどたどしく旧約聖書を読んでいて、「主なる神はこう言われる」という言葉に、これは神様が語られたんだと息をのみ、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と聞いて、打ち砕かれ、神様とは本当に、信じる者と共にいてくださるお方なのだと分からされた。
 ヨハネ福音書はどこを開いても命の言葉に満ちている。読みながら「わたしが命のパンである」と聞いたなら、「あなたこそ私の日毎の命のパンです」と心から告白し、「わたしは世の光である」と聞けば、「あなたこそ、闇に迷う私の光です」と真っ直ぐに答える。「わたしは良い羊飼いである」と聞いたら、「あなたが導いてくださるから平安です」と信頼をもってお答えし、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と聞けば、「それは何という恵みでしょう」と感謝をささげる。このように一つ一つの御言葉に応答しながら読み進めるとき、いよいよ御言葉の真実が伝わってくる。

 もちろん、御言葉は慰め励まし、力づけてくれるだけではない。ある時は、心に引っかかることがあり、「『仲間を赦さない家来』のたとえ」を思い起こし、読み進めるうちに、1万タラントン(超多額)の借金を赦していただきながら、百デナリオン(ほんの少額)が赦せない家来とは、この私ではないかと気づかされ、恐れおののき、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」との御言葉に、打ち震える。このように隠された自分の罪を教えてくれるのも聖書の言葉であり、そうでなければ、自分の罪に気づくこともできないのだ・・・

 ここまで書いたら、「ピンポーン」とインターホンが鳴って、「ちょっと話したいんだけど」と、久しぶりの友人の声。もう随分長いつき合いなのに、かつては集会にも何度か参加し、二人で賛美歌を歌ったり、聖書の言葉を書き写したり、声を合わせて祈ったりもしたのに、彼女の仕事の都合もあり、私も家にいることが少なくなり、顔を合わせることもまれになっていた。いすに座って一息ついて、「どうしたの?」と聞くと、今、自分の心に二つの思いがあって、どうすればいいのか迷っていると言う。少し詳しく聞くと、明らかに、この世の利得の道と、愛と赦しの道と、二つの分かれ道に立って心が大揺れに揺れているのだ。でも、心揺れるとき、机の上には必ず聖書の置かれているこの場に来ること自体、彼女の心に答えは出ているのだとうれしかった。ちょうど開いていたペトロの手紙2章18~20節 

「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛容な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」

を読み、イエス様のご生涯と十字架を思って語り合った。彼女の素晴らしいところは、自分は神様に顔向けできない者だと、どうしようもない者だと、心底思っていること。だから、私が「赦されなければ生きられない」と言えば、「私だって、赦されなければ生きられない」と負けずに言う。「イエス様に出会えて良かった」と言えば、「いつだって、イエス様だけは信じている」と必死になって言う。そしていつしか、彼女の方から「素直な心で、何でも善いように考えていけばいいね」と答えを出し、さわやかな笑顔が輝いた。

 「この方(イエス・キリスト)は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」1ヘ°トロ2-2225

 うれしいねえ、感謝だねえ、とお互いにくり返した二人。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」という御言葉は、今日の私たちのためにあるような思いがして、「慈しみ深き、友なるイエスは、罪とが憂いを、取り去り給う」と声を合わせて歌い、「これからも、いつまでも、いつまでもイエス様につながっていられますように」と心を合わせて祈った。
 御言葉に導かれて生きる幸いをあなたにも。


福音 286 2012年3月

*      「祈り」

 

 キリストにおける信仰は私を罪から救うものである。けれども信仰もまた神の賜物である。(事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。エフェソ2:8)私は信じて救われるのみならず、また信じさせられて救われるものである。ここにいたって私は全く自身を救う力のないものであることを悟った。それでは私は何をなそうか。私は私の信仰をも神から求めるのみ。キリスト信徒は絶え間なく祈るべきである。まことに彼の命は祈祷である。彼はなお不完全ならば祈るべきである。彼はなお信仰が足りなければ祈るべきである。彼はよく祈ることができなければ祈るべきである。恵まれても祈るべし、呪われても祈るべし。天の高きに上げられても、陰府の低きに下げられても私は祈ろう。力なき私、私のできることは祈ることのみ。 内村鑑三「一日一生」228

 入院生活が長く、いつも本を読んでいたYさんに「一日一生」を貸してさし上げたら「私の信じる浄土真宗は他力本願で、私は何もしなくても阿弥陀様が救ってくださる。キリスト教もキリスト様が救ってくださるというので、よく似ていると思っていたけど、キリスト教には『祈る』という自分の業が必要なんですね。」と言った。それこそ何十年も前なのに、不思議なほどその言葉をはっきり覚えていて、その問いにうまく答えられなかった自分のとまどいも覚えている。
 先日、2月28日の箇所を読んで、Yさんが「キリスト教には、祈りという自分の業が必要なんですね」と言ったのは、ここを読んでの感想だったのだとやっと気がついた。Yさんは昨年暮れに亡くなったから、もう「祈り」について語り合うことはできないけれど、今なら「祈りとは救われるために必要な業ではなく、父なる神様に祈ることができるとは、キリスト様が与えてくださった最大の恵みなのです」と答えたい。

 本当に、もし祈ることを知らなかったら、私はどのようにして生きていったらよいのだろうか。何があっても祈れる、そう思うだけで心に平安が満ちてくる。傲慢な自分に気づいたときは「ゆるしてください」とひれ伏し、どうしていいかわからないときは「教えてください」とひたすら聴き、困ったときには「助けてください」と一心に願い、せん方尽きたときにも「主よ」とすがることができる。自分のことだけではない、あの人この人の救いを祈り、友が苦境にあると聞けば「守ってください」と祈り、何よりも「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように・・・」と、主の祈りをこそわが日々の務めとして祈ることができる。こんな幸いがどこにあるだろう。祈るとは信じること、信じるとは祈ること、信じることと祈ることは一つなのだと今心から、そう思う。

 だが、このように、祈りの恵みを味わい知っているのに、祈りなしに善きことは何も成らないとわかりすぎるほどわかっているのに、それなのに、日々の祈りをおろそかにしてはいないか。人となら、電話で話してもすぐに30分や1時間は過ぎてしまうのに、神様の前に静まって祈るために、どれほどの時間を割いているだろう。
 ある牧師婦人はいつも小さなノートを抱えて歩いていて、誰かから「祈ってください」と言われたら、こっそりと、即刻そのノートに書き込むのだと聞いた。祈ることに忠実なその婦人は、朝に夕に、一つ一つ、もれなく祈ってくれるに違いないから、書いてもらうだけでホッとするのだ、と。その話に感動した私は、さっそく祈りのノートを作って祈り始めたが、年月と共に、ノートを取りだして祈ることもまれになっているではないか。
 ああ、しかし、私たちに与えられている、またまた最大の恵みは、立ち帰ること。初めの愛に帰ること。祈りがおろそかになっていると気づけば、気づいた今から祈りのノートを再開すればよい。さあ祈ろうとノートを開き、お一人お一人を思い起こせば何と近しく感じられることだろう。祈りは人を近づける。ずっと会っていない友でさえ、すぐ側にいるような思いになり、私たちはみな、同じ神様の御手の中に生かされているのだと心は広がっていく。

 子供たちが出ていって、本棚に残されていたニコニコマークの厚手のノート。十数ページ英単語が書かれているだけで、捨てるには惜しいと、その続きに書き始めて、1ページ目には、祈りに関する聖句を書いてある。

  *天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。ルカ11:13
  *わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。ヨハネ14:14
  *(イエスの名によって)願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。ヨハネ16:24
  *信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。マタイ21:22
  *祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。マルコ11:24
  *イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。ルカ6:12
  *悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。ルカ6:28

今回、続きの新しいページには、まず主の祈りを書こう。イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださったのだから、こう祈ることこそ、またまた最高の恵みに違いない。それから、そしてもう一つ、
  *誘惑に陥らないように祈りなさい。 ルカ22:40
と書こう。そして最後に、
  *おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢を手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。 黙示録5:8
と書こう。そして、苦手な英単語一生懸命覚えたであろう子供たちの努力を思って、私も少しは祈ることに努力しよう。祈りたいときだけでなく、祈らずにおられないときだけでなく、祈ることが億劫なときにも祈ろう。その祈りを待っていてくださるお方がいるのだから。

  *主はすぐ近くにおられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 フィリピ4:5~7


福音 285 2012年2月

*      御言葉の力:憐れみ


 わたしの魂は塵に着いています。
 御言葉によって、命を得させてください。詩編119:25

 主イエス様を知ってから、多くの時は 
  キリストは生きておられる、わが内におられる・・・今日も励もう、主に守られ
と歌いながら、あれもこれもと一生懸命、失敗をしながらもめげないで前を向いて歩いている。でも、時として、ふとしたことで、その喜びはどこへやら、ああわからない、もう嫌になってしまうと、ぶつくさ言っていることがある。今思い返すと、そんな時は、イエス様を思わないで、誰かを裁いているときである。あの人はどうしてああなんだろう、訳がわからないわ・・・などと呟いている。
 手のひらにリンゴをのせて、その手を傾けるとリンゴは確実に下に落ちるように、私の心に、人を裁く思いというか、人の欠点や傲慢さが目につきはじめると、私の心は確実に下に落ちる。心にも万有引力の法則というのがあって、落ちよう落ちようとしているのだ。そんな心が上を向いて高く高く舞い上がるということは、奇跡なのだと今深く思う。奇跡とは人の力ではできなくて、大いなる神の力によってだけなされること。
 そして、この心を高く引き上げるという奇跡を、日々起こしてくれるのが聖書の言葉・御言葉なのだ。先ほども、人を裁いてどんどん落ちていく心を、サッとすくい上げ軽やかに自由にしてくれたのは、「ハレルヤ、主を賛美せよ」という詩編の御言葉だった。
 そうなのか、なるほどと思う。御言葉にはこんな力があるから、だからこそ、聖書の学びや、共に祈って御言葉を心に受ける「集会」がいつもいつも楽しいのだと、納得がいった。

 集会とは不思議なもので、私にはおそらく一番の楽しみだ。静かな日曜集会も、若いお母さんと子供たちとの賑やかな集会も、内村の「ロマ書の研究」を参考に読み進めるちょっと堅い集会も、主の憐れみとしか言いようのない水曜集会も、ともかく二人三人、主の名によって集まって聖書を読むのは何よりも楽しい。今日は「晴れる家」にいる義母と二人で「静けき祈りの時はいと楽し」を声を合わせて歌い「ヨハネ福音書14章1~7節」を読んで集会をした。最後に「お母さん祈って」というと、3分前のことも忘れてしまう母が「天のお父様、あなた様がいつも見守っていてくださるので、私は安心しております。本当にありがとうございます。」と、二人の集会を感謝で結んでくれた。こんなこと、神様がいてくださらなければできるはずがない・・・と、いつも、どの集会でも、そう思う。ともかく、主イエス様は生きておられ、御言葉を求めて集まるとき、その人たちを空手で帰されることは決してないというのが、私の今日までの偽らざる実感である。

**************************************

  主は常にあなたを導き
  良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ
  あなたの骨を強くされる
  あなたは潤った園のように
  水の絶えない泉のようになる。 イザヤ書58:11・口語訳

 これは私が一番最初に覚えた聖句です。ある教会の週報に書かれていて、記憶力の弱い私なのに、それ以来この聖句を忘れたことはありません。でも、この聖句がどのような文脈の中で書かれているのかを知ったのはずっと後のことで、イザヤ書58章を読んでいて、水の絶えない泉のようになるには、こんな条件があったのだと驚きました。私は、そんなことは何も知らないで、ただ「主」とはそのようにしてくださるお方なのだと単純に信じて、この聖句を思い出す度にうれしかったのです。そして、この聖句を「信じた」から、ただそれだけの故に、この聖句が私の告白となりました。もし、信じなければ、どんな素晴らしい聖句も単なる言葉に過ぎません。聖書の言葉は信じたときに、力となり、天的な喜びとなるのがわかります。

 イザヤ書58章から、主が常に導いてくださり、水の絶えない泉のようになるためになくてならぬのは、聖書全編を貫いている「憐れみ」なのだと知りました。
 断食とは本来、神様との間の平和を求めることであるのに、断食日にも弱い人々を苦しめる者に、主なる神はこう言われます。

  わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
  悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて
  虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
  更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
  さまよう貧しい人を家に招き入れ
  裸の人に会えば衣を着せかけ
  同胞に助けを惜しまないこと。

また、マタイ福音書25章で、キリストが「すべての民族を裁く」ときに、祝福される人と呪われる人を分けるのもこの「憐れみ」という一点であり、祝福された人たちにイエス様は次のように言われます。

 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。・・・わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:34

 このように「憐れみ」こそ、私たちの日々の務めだと言われていますが、真に善きものはすべて神様からくるように、「憐れみ」もまた、神様ご自身のもの。神様から受くべきもの。
 神様は私たちに、ご自身の憐れみをお与えになりたいのです。だから、福音書を読めばわかるように「主よ憐れんでください」と叫んで、憐れみを受けなかった人は一人もなく、イエス様は虚しくさまよう人々を見て、内蔵がよじれるほどの憐れみを覚えられたとあります。
 私の罪のために十字架につかれたイエス様の深い深い憐れみ、その

  主の慈しみは決して絶えない。
  主の憐れみは決して尽きない。 哀歌3:22

という御言葉を信じるとき、一年に三万人もの人が、もう生きられないと自ら命を絶つというこの悲惨な日本にも、神様の慈しみと憐れみは決して絶えることなく、決して尽きることなく今も注がれているのがわかります。
 イエス様が今も「わたしに帰れ、そうすればあなた方は生きることができる」と呼び続けておられるのがわかるのです。


福音 284 2012年1月

*      「詩編102編」


 今日のメール集会は詩編102編。Tさんからは
  主を賛美するために民は創造された。
という19節の御言葉から、「私たちは主を賛美するために造られたのですね。」と、喜びのメールが届いた。
 私は102編を開いて、その表題に、心は引きつけられた。

  祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。

 夕暮れ時、冷たさの中で、雲の流れに見入っている人がいる。どこまでも灰色の濃淡が続く空をじっと見ている。なぜか、そんな姿が思われて、この表題を美しいと思った。

  主よ、わたしの祈りを聞いてください。
  この叫びがあなたに届きますように。
  苦難がわたしを襲う日に
    御顔を隠すことなく、御耳を向け
  あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

 神に向かって一心に叫ぶ姿、神よりほか何も見えず、神だけを求めている。
 それは、星の光に結ばれる心にも似ている。何億光年離れていようと、星の光に見入るとき、星と私は結ばれる。そのつながりを妨げるものは何もない。時おり雲が流れても、雲の切れ間にその星は輝きを増してあらわれ、天の星と、地から見上げる私は結ばれている。神様は無限に遠くにおられても、一心に見つめるとき、一直線で結ばれる。それを祈りというのだと、この詩を読みながら思う。

  わたしの生涯は煙となって消え去る。
骨は炉のように焼ける。
打ちひしがれた心は、草のように乾く。
わたしはパンを食べることすら忘れた。
  ・・・・・
あなたは怒り、憤り
わたしを持ち上げて投げ出された。
わたしの生涯は移ろう影
草のように枯れて行く。

 苦しみ、孤独、神が怒って私を投げ出したんだという絶望感。そんな貧しさの極みにあって、なおも神を仰ぎ見る詩人は、ついに告白する。

  主はすべてを喪失した者の祈りを顧み
  その祈りを侮られませんでした。

 私はこの聖句が好きだ。これ以上の慰めはないと思う。すべてを喪失したとき顧みてくださる神。貧しさの極みにあってささげる祈りを、拾い上げてくださる神。

 貧しさの中に生まれ、貧しさを生き、貧しさの中に死なれた主イエスを思う。生まれたときは飼い葉桶に寝かされ、公生涯はたった三年。「この人は大工の息子ではないか」言われ、旅に明け暮れ、罪人の友となり、「弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べた」とある。最後にはその弟子も失い、衣類もはぎ取られ、十字架の上に命さえ失ったイエス・キリスト。だが、しかし、文字どおりすべてを喪失したキリストを、神は復活させられた。
 豊かさを追い求める私たちのただ中に、今も貧しさを生きる主がおられる。貧しさを侮るまいと思う。貧しさこそ、神と出会う唯一の道。そのことを深く知らされたのが、この詩人の次の告白だった。

  わたしの力が道半ばで衰え
  生涯が短くされようとしたとき
  わたしは言った。「わたしの神よ、生涯の半ばで
  わたしを取り去らないでください。
  あなたの歳月は代々に続くのです。
  かつてあなたは大地の基を据え
  御手をもって天を造られました。
  それらが滅びることはあるでしょう。
  しかし、あなたは永らえられます。
  すべては衣のように朽ち果てます。
  着る物のようにあなたが取り替えられると
  すべては替えられてしまいます。
  しかし、あなたが変わることはありません。
  あなたの歳月は終ることがありません。」

 この詩人は、力衰え、死を目前にして、限りなく貧しい存在になったとき、神様に向かって「あなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。」 と言う。「着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません。」と知っているのだ。天地は滅びるが神の言葉は決して滅びないこと、最初の天と最初の地は去って行き、新しい天と地が来ることをこの詩人は知っているのだ。これはすごいことだと驚嘆する。私たちがイエス様から学んだこの真理を、この詩人はいったい誰に教えられたのだろう。
 かつて学んだ「ヨブ記」を思い起こす。ヨブも度重なる苦難の中で、誰からも教えられなくても、

  わたしは知っている。
  わたしを贖う方は生きておられ
  ついには塵の上に立たれるであろう。

と、イエスキリストを待ち望む心が与えられたのだ。

 「貧しい者は幸いである」と主イエスは言われた。この詩人もヨブも、神様の無限の大きさを知り得たのは、無きに等しい自分を、その貧しさを知ったときなのだ。自分が大きく見えている限り、神様の大きさはわからない。すべてを失ってこそ、人は永遠なる神に出会う。
 以前、「まことの礼拝とは、自分という存在が小さくなっていき、神様がだんだん大きくなることだ」と聞いたことがある。小さいこと、貧しいこと、低いこと、それらが美しいのは、その中でこそ、まことの神を知ることができるから。
 この新しい年、主の貧しさと、主の低さを慕い求めて歩むようにと、詩編102編が教えてくれた。