福音 №401 202110

神を信じなさい

心を騒がせるな。

神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

わたしの父の家には住む所がたくさんある。ヨハネ福音書14:1-2

 

主イエスは私たちに、「心を騒がせるな」、心を騒がせなくてもいいと言われる。

ただ「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われる。

こんなありがたいお言葉を他に知らない。私たちは主イエスの父なる神を信じていいのだ、キリストを信じていいのだ、これが平安・シャロームなのだと天を仰ぐ。 

だが、目を転じてこの世の現実を見ると、地球の温暖化による異常気象、核兵器による世界絶滅の危機、ごく身近なところでは新型コロナウイルスでの重苦しい日々、やがて起こると予想される南海トラフ大地震・・・、不安や困惑は数え上げたらきりがない。自然災害だけなら世界の国々が力を合わせて助け合うこともできるだろうが、核戦争にでもなれば世界中が破壊と悲惨の渦に巻き込まれて、そのうちみな共に滅んでいくしかないのだろう。

そんな人間の罪の現実を誰よりもよく知っておられる主イエスが、「心を騒がせるな」と言われるのである。すごい言葉である。その根拠がもっとすごい。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」から、と言われる。たとえこの世が滅びても心を騒がせることはない。あなたがたには住む所がある。宇宙船をつくって地球脱出をはからなくても、神の国には「住む所がたくさんある」。たとえ地球を脱出したところで、あなたがたはみないずれ死ぬだろう。その日には、どこに逃れようというのか。

それでも、心を騒がせることはない。わたしの父の家、神の国には、「住む所がたくさんある」と、主イエスは言われる。

 

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。14:2-3

 

私たちは何という思い違いをしていることだろう。私たちの住まう、水をたたえた緑の地球も、夕べがあり朝がある今日という一日も、おぎゃ!と生まれる新しい命も、みんなみんな父なる神様が用意してくださったものではないか。その神様の愛を愛とも思わず、わがもの顔で何もかも使い尽くして破滅寸前の私たち。

そんな者のために「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

この世に生まれ、私たちに代わって罪を負い、十字架で死なれたイエス様が、復活させられ天に上げられたのは、何と、神の国に私たちの新しい住まいを用意してくださるためだったとは。

イエス様が安息日に病人を癒され、律法違反だとユダヤ人に責められたとき、

「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」ヨハネ5:17

と言われたお言葉を思い出す。天の父は、御子イエスを地上に送って、天で安らいでおられたのではなかった。父なる神様は今もなお働いて、イエス様と共に、私たちの住む所を用意してくださっているのだ。

 場所の用意ができたなら、私たちを迎えにきてくださり、

「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と約束してくださった。

 

見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

ヨハネ黙示録21:3-4

この神の言葉を信じて生きる。何もかも分かってではない。

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう」。ロマ書11:33

それでも、独り子さえ惜しまず与えてくださった神様の愛を信じて生きる。どんな人であっても、人という人はすべて、一人残らず、この神の愛を信じて生きることが許されているのです。

 

ヨブ記4章から

3章で「日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡って来る。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。」とうめき叫ぶヨブに、友人エリファズは語り始める。

 

神を畏れる生き方が あなたの頼みではなかったのか。

完全な道を歩むことが あなたの希望ではなかったのか。

考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、

正しい人が絶たれたことがあるかどうか。ヨブ記4:6-7

 

ヨブは苦しみの中で、今も「神を畏れる生き方」を、「完全な道を歩むこと」を願っている。だからこそこれほどまでに苦悩しているのだ。なのに、エルファズはヨブの姿を見て、それは神を畏れる正しい人の姿ではない、神を畏れ、正しく生きていたら、そのように悲惨な姿にはならない、死んでいればよかったなどと言わないはずだと決めつける。

 神は正しい人を祝福される。だから正しく生きるなら幸福になり、悪いことをすると不幸になる。その人の運命はその人次第だ。このような応報思想は広く一般的である。サタンのヨブを苦しめる提案も、同じ発想だ。

 

しかし、信仰の世界はそうではない。

もし神の国まで因果応報なら、私には何の希望もない。神様が報いてくださるような良いことをしたことがない。自分の蒔いたものを刈るだけの人生だったら絶望だけれど、

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」1ヨハネ4:10

この神の愛を信じて生きる。

「信じなさい」と、主イエスが言われるから。