福音 №404 202112

「心を一つにして」

 

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」マタイ福音書18:19

 

若き日に、「心を一つにして」という言葉に、胸打たれたことがある。月刊「聖書とキリスト」服部治著に

「真に『心を一つにして』祈れる人はそうそうあるものではありません。正直に申しまして、私はこれまで、そうした祈りの友を求めて参りましたが、殆ど見出すことができないでおります。」

とあり、こんなに偉い先生でも心を一つにして祈る友を捜し求めておられるのだと、驚いたのだった。その「二人、心を一つにせば」と言う文章を見つけたので改めて読んでみたが、教えられること多く、書き写します。

 

誠に汝らに告ぐ、もし汝らのうち二人、何にても求むる事につき地にて心を一つにせば、天にいます我が父は、これを成し給うべし。 マタイ伝1819

実にいちじるしい御言葉です。これが本当なら、何とすばらしい事でしょう。どんな願いでも叶えて頂けるとは、考えただけでも胸がおどるではありませんか。

私にはいろいろな願いがあります。その中でも一番大きな願いは「日本の救」と「世界の平和」とです。この二つの願いにくらべたら、他の願いは殆ど問題になりません。この二大祈願だけは、何としても達成させて頂かねばなりません。一所懸命に伝道するのも、全くそのためです。併し、考えてみますと、私の伝道などは高が知れたものです。まるで大海に向かってリゾールの瓶を傾けるようなもので、もちろん何程の効果も期待できません。それでも、せずにおれないから、させて頂くものの、大海原を前にして、幾たび私は溜め息をついたことでしょう。

ところが、右の御言葉はどうでしょう。私の二大念願をも立派に叶えて下さると、太鼓判がおしてあるではありませんか。それを思うと、嬉しくて涙がこぼれそうです。

では、どうすればよいのでしょう。答えは簡単です、お祈をすればよいのです。きかれる祈を神様に捧げること、ただそれだけです。

・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・

このように祈は貴く、また力あるものですが、ここに特に注意を要する一事があります。外でもありません。御言葉に「もし汝らのうち二人、何にても求むる事につきて地にて心を一つにせば」とある通り、二人して祈る祈がきかれるということです。なぜ一人だけでする祈がきかれないで、二人でする祈がきかれるのでしょうか。十分な説明はできません。ただこれがお約束であり、事実でもあるのです。

ここでお互いが、これまで祈った祈について、深く省みる必要があるように思われます。祈がきかれなかったわけは、自分一人だけで祈ったからではないでしょうか。或いはまた二人、もしくはそれ以上で祈った場合でも、真に心を一つにし得なかったからではないでしょうか。

思うに、この場合、肝心な条件は「心を一つにする」ということであるに相違ありません。そして心が一つになったことは、そこに既に天国が到来したことでありまして、父のお喜びは非常なものと察せられます。祈をおきき下さるのは当然ともいえましょう。「日本の救い」も「世界の平和」も、実は真に「心が一つになる」以外のことではありませんから、そうして祈るのでなければ、むしろ余計なおせっかいとなりましょう。きかれないのは怪しむに足りますまい。

ところで、真に「心を一つにして」祈れる人はそうそうあるものではありません。正直に申しまして、私はこれまで、そうした祈の友を求めて参りましたが、殆ど見出すことができないで居ります。私の当面の願いは、こうした祈の友が与えられて、彼と文字通り「心を一つにして」「日本の救い」と「世界の平和」を祈りぬきたいことです。私の伝道は、実にこうした一人の祈の友を捜し求めて、もと共に祈の座に着くことにあるともいえましょう。

    (聖書とキリスト・20号、19527)

 若き日に、こんな立派な伝道者でも、たった一人の祈の友を捜し求めておられるのだと妙に感動し、そのことを度々思い出しながら、そこで止まっていたのが、カール・バルトの「マタイ18:19による説教」を読んで、なぜ心を一つにすることがかくも大切であるか教えられたので、以下は、その説教からの抜き書きです。

 

イエスは、どんな願い事であれ、われわれが互いに心を一つにすべきである、そうすれば彼の天の父はそれをかなえてくださるとわれわれに語りたもうことによって、正しく祈る律法をわれわれに与えられたのである。一つになること!そこで突然、仲間の人間が正しい祈りをめぐる熟慮の中に入ってくる。・・・

 

 われわれはふつう祈ることを孤独の私的な事柄であると考えている。今、イエスは言いたもう。あなたたちの願いについて一つとなりなさい。そうすれば聞き届けられるであろう、と。・・・イエスにとって人間への愛なしには神への愛はなかった。天の父に結びつこうとする者は、自らもまた地上の兄弟姉妹とに結びつけねばならない。福音は徹頭徹尾社会的である。イエスの明白な教えによれば、神との私的な関係というのは存在しない。私の父よ!ではなく、われらの父よ!と、われわれは神に語りかけるべきである。われわれと同じ人間仲間に仕える以外の仕方で、われわれは神に仕えることができない。・・・・

 

 あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、とイエスは語った。神は集団に目をとめたもうのではない。神の前で多い少ないは、何の役割も果たさない。一つとなっているのが何百万人であっても、たった二人でも、そこに本当の一致があるならば、それは神の前ではどちらでもよいのである。たった二人でもそこに見いだされればよいのである。しかし彼らは本当に一つでなければならない!もし彼らが本当にそうなっている時、彼らの祈りの中にある悪も除去されるほかないであろう。悪がまだそこにある限り、彼らは完全に一つとなることはできないであろう。そしてただ二人の人間だけでも互いに本当に一つとなって祈ろうとつとめるかぎり、ただ善のみがそこには残るというのが、神の素晴らしい定めなのである。悪は相互に食い合う。彼らが一つとなっているならば、彼らが誠実にそこから始めさえすれば、神は彼らの求めを聞いてくださる。その時、神は彼らの祈りを喜んで聞いてくださる。・・・・

 

  正しい祈りの律法は、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)であり、正しい生活の律法は「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)であるから。