福音 №393 20212

「聖書にしか・聖書だけに」

 

聖書にしか書かれていないこと、

聖書だけに書かれていること。

 

明日の日曜日、6才・8才・10才の子供に「せいしょめいもくずくし」という歌を教えようと思っている。♪そう、しゅつ、れび、みん、しんめいき・・・♪創世記からヨハネ黙示録まで66書の名前を覚えるためだ。子供の暗記力はすごい。12弟子の名前も歌うとすぐに覚えてしまった。私がこの歌を暗記したのは大人になってからだが、聖書を開ける時にとても役に立つ。明日の大人の礼拝はゼカリヤ書13章だが、目次など見なくても、だいたい小預言書だと見当をつけると…ナホム・ハバクク・ぜパ・ハガイ・ゼカリヤ・マラキで39♪と歌うと、分厚い聖書のどのへんを開ければいいかが分かる。もちろん、ゼカリや書はもう1年以上やっているのだから歌わなくても開けられるが。

小さな子供にも、聖書という本の大切さ、そこには世界中の誰も思いつかない最高の秘密が書かれているのだから、どこでもすぐに開けられるのはうれしいことだ!と伝わればいいなと思っている。

 

世界中の誰も思いつかない最高の秘密(秘儀)。宇宙旅行を計画できる時代になっても、この神様の「秘められた計画」(エフェソ1:9)は人の知恵では分からない。そう思っていると、イエス様の話されたたとえ話が次々と浮かんでくる。

天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。(マタイ13:44)

この隠された宝は、見つけるより他にない。それを造り出すことは誰にもできないのだから。それを見つけると、喜びのあまり何もかも売り払って畑ごと買うとあるように、天の国こそ(その人が気づこうと気づくまいと)私たちにとって最高の喜び、最高の宝。

 

 次に思い出すのは、「仲間を赦さない家来」のたとえ

    天の国は次のようにたとえられる。・・・ある王が・・・一万タラント借金している家来の・・・借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。(マタイ18:21-35)

イエス様のたとえ話はどこまでも深く読み解くことができるだろうが、ここではごく単純

に。自分が借りた1万タラント(塚本訳では3百億円)を赦してもらっても、誰かに貸した100デナリオン(5万円)は赦せないという人間のさもしさを実感させられるが、もっと単純に、そうか、王(神様)は私たちの1万タラント(無限大)の借金(罪)を、憐れに思って赦してくださるお方、すべて赦して天の国に迎え入れてくださるのだと気づくと、思わず「主よ、ありがとうございます」とひれ伏したくなる。感謝の涙に添えて、「1万タラント赦された喜びを忘れずに、人を責めたりしないようにお守りください」と祈ろう。

 

 次に思い出すのは、私の大好きな「婚宴」のたとえ。

    天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。』」・・・(マタイ22:1-14

このたとえ話にはもちろん続きがあり、最後は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と締めくくられているが、ここも単純に、そうか、天の国とは、王(神様)が祝いの用意を整えて、待っていてくださる所なのだと素直に受け取るなら、たまらなく嬉しくなる。

聖書を読むのに、こんなに大雑把な読み方でいいとは思わないけれど、それでも、「畑に隠された宝」、「1万タラントの赦し」、「王子の婚宴」と、天の国にたとえられたこれらの「恵み」が、聖書の神の「救い」とは何であるかを教えてくれる。

 

罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座につかせてくださいました。(エフェソ2:5-6

普段の生活で自分が「罪のために死んでいる」と気づくことはほとんどないかも知れない。でも、ふと気づくと生活の無意味さに悩んでいるということはないだろうか。生きていたってつまらないと思うことはないだろうか。もうどうでもいい・・・と。

ある人が「年を取ると、特に『きょういくと、きょうよう』が必要です。『今日行く所、今日する用事』、それがなければ人は無気力になってしまいますから。」というようなことを言って、年寄の多い会合で大いに受けていたが、無気力にならないために、人は目先のことに励み続けるしかないとしたら、それも虚しいことにちがいない。

生きる喜びを失ってしまったこの虚しさ、虚無感が私たちの罪、すなわち神に背いているゆえの心の状態なのだと知ったとき、「罪のために死んでいたわたしたち」という言葉の意味がよく分かった。なるほど、このどうしようもない虚しさは、神様を知らずに、キリストの呼びかけを無視して生きている証拠だったのだと。

神なく望みなく、虚しさを生きていた私たちが、隠された宝(復活の命)を見つけた喜び、(キリストの十字架によって)与えられた1万タラント・無限大の赦し、すっかり用意ができていますと整えられた婚宴(キリストと共なる天の王座)につかせてくださるという最高の栄誉!これこそキリストによる救いであり、神の恵みだと聖書は告げる。

 

「信じるとは、生きようとするということである。」

生きよう、生きよう、永遠に生きよう。信じるとは生きることであり、それこそ神様が私たち人間に与えてくださる恵み、恩寵なのだから。

 この恵み、生けるキリストは聖書にしか書かれていない。

 この恩寵、この世のどこを探しても見つからない至福は、聖書だけに書かれている。

 

「一緒に聖書を読む友を与えてください」と祈って、さあ今夜もそろそろ眠ろう。明日の子供集会を楽しみに。もちろん大人の礼拝を、深く強く待ち望んで。そして今も病床にある友を思い、「主よ、今宵も共にいてください」とせつに祈って、おやすみなさい。