福音 №395 20214

「あなたのみ手」

焦って口を開き、心せいて

神の前に言葉を出そうとするな。

神は天にいまし、あなたは地上にいる。

言葉数を少なくせよ。    コヘレトの言葉5:1

 

一人祈る時、言葉を出すまでに一時間は静まるという人の話を聞いたことがあるが、私の場合は目を閉じた途端に「天のお父さま」と呼びかけている。桐ヶ丘集会で「コヘレトの言葉」を学び始め5章になって、この御言葉に出合ったときドキッとした。私の祈りはあまりにも軽々しい。「信じるとは、神をして語らしめるということである」と口癖のように言いながら、現実には思いついた言葉を注ぎだしているに過ぎない。・・・でも、祈りまで人のまねをすることもないだろう、一時間静まろうが、静まる前に声を出していようが、「神は天におられ私たちは地上にいる」のだから・・・そう思おうとしたけれど、どう考えても焦って口を開くより、静まって祈るべきことを与えられる方が良い。素直に自分の浅はかさを認めて、さあ、これからはまず静まることからはじめよう!と思った。

 

このように、「コヘレトの言葉」からも多くを教えられているが、それでも、

「空の空 空の空 一切は空である」

「すべては空である」

と言われる度に、「はい、この世は確かにそうです。もしキリストがおられなければ、その通りです。でも、キリストは生きておられる!」と言いたくなる。

「『空』のヘブライ語『へベル』は蒸気、気息などの意で、転じて実体のないはかない現象を意味し、比喩的に虚栄の意味で使われることもある。すべてのものは、変化しない実体を備えてはいない。そのことを認識せよと言うのである。」(旧約聖書略解)とあるのを読むと、「はい、すべてのものは確かに無常です。イザヤも言っています。

『肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。

草は枯れ、花はしぼむ』イザヤ40:6-7

と。でも、枯れてもしぼんでも、十字架の上に釘づけられ死なれても、よみがえられた主がおられる!

『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。』ヘブ13:8このお方を信じ、このお方につながっているなら、すべてが移り行く世にあっても、無常であることを嘆かず、虚無に陥ることなく生きることができます!このお方は、

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」ヨハネ14:19

と言われましたから。

 

・・・・・さっき、何事も「静まることからはじめよう」と決心したばかりなのに、書き始めると心せいて、コヘレトの戒めも忘れて、思いつくことを次々と書き連ねている。これではいけない。

「神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」とあるではないか。

やっぱり聖書はすごい!神の言葉はすごい!何もかもお見通しだ!

 

手を置いて、目を閉じて、この無常の世に人となって来てくださったイエス様を思う。

神は天にいまし、すべてを知っておられ、すべてを全き愛によって導いておられる。

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」ロマ11:36それはよく分かっている。疑うつもりはない。それでも、人は人を求めるものだ。

そう気づいたとき、以前からどうしてもふに落ちなかったべドサダの池で横たわっていた病人の言葉が、真に迫ってきた。(ヨハネ福音書5:1-9) 病気で38年も苦しんでいる人のそばに立ち「良くなりたいか」と問われるイエス様に、その人は「わたしを池に入れてくれる人がいない」と答えた。「わたしには助けてくれる人がいない」「私が求めているのは人なのだ」と。

人が求めてやまない「真の人」として、イエス様は来てくださった。父なる神が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ように、世にあって悲哀にくれる一人一人の人の傍らに立ち、その人の善悪を問うことなく、「良くなりたいか」と声をかけるために、イエス様は来てくださった。

そうだ、私たちが本当に「良くなる」とは、心にしみついた罪汚れを洗われ、赦されるはずのない自分が赦され、赦せない人をも赦し、永遠の愛の中に生きること。人となられたイエス様は、私たちを良くするために、十字架について復活してくださった。そして、今も一人一人のそばに来て「良くなりたいか」と問うていてくださる。

「主よ、良くしてください」と、幼子のような一言を待っていてくださる。

 

この春、50年働き続けた夫が退職した。そのお祝いにと娘が、ほとんど誰とも会わない山の中の宿を予約してくれたので、二人で行ってきた。テレビもなければ、日常を感じさせるものは何もない。ただ床の間に活けられた百合の蕾が、朝日と共に「おはようございます」と言うように開き始めたのには驚いた。聞こえるのは川の流れと小鳥の声だけ。萌える若葉と水面に舞う桜の花びらを見ながら、

「わたしの時はあなたのみ手にあります」詩編31:16との御言葉を思っていた。

そして、この御言葉の説教の中にあった一文を、まるで美しい音楽を聴くように耳を澄まして聴き続けた。

 

「あなたのみ手」

それは、私たちの救い主イエス・キリストのことである。

それは、彼が広く広げて「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と叫ばれた時の、あのみ手である。

それは、彼が子供らを祝福されたあのみ手である。

それは、病人に触れて癒し給うたあのみ手である。

それは、荒野で5千人の者にパンをさき、分かち与えた、そしてもう一度死の直前に、弟子たちに分かち与えられたあのみ手である。

そして、最後にそれは、とりわけ、神と私たちとの和解のために、十字架に釘つけられたあのみ手である。

私の兄弟姉妹よ、これが、これこそが、神のみ手である。

力強い父のみ手、

善良でやわらかく、優しい母のみ手、

忠実で助けに満ちた友の手、

恵み深き神のみ手、

その手の中に、私たちの時がある。

その手の中に、私たち自身が立っている。