福音 №396 20215

飢えた人を満たされる主

〔主は〕飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のままで追い返されます。

ルカ福音書1:53

「飢えた人を良い物で満たす」、これこそキリストの福音であり、その深い意味が分かれば人はみな救いの喜びに包まれるだろう。だが、この言葉に込められたキリストの心を正確に分かりやすく伝えることは難しい。私自身、今まで数え切れないほど、「貧しい人」「飢えた人」の説明を聞き、読み、考え、納得し、良く分かったと思うことはあっても、それをうまく伝えることはできなかった。

ところが今回、「飢えた人を良い物で満たし・・」の、ある説教を読み進めるうちに全身が明るくなって、喜びが満ち、御言葉が光を放っているのを見て、この真理の御言葉をぜひ伝えたいと思った。でも、そのまますべてをB4一枚に書き写すことは到底できないので、非常に不十分ではありますが、なるべく原意を損ねないように引用して、書いてみます。

 

「飢えた人」―それは、明らかに、もっとも必要なものを欠いている人である。ところが彼には、それを手に入れる手段や方法がない。彼は次第に落ち目になり、死に向かって進むより他はない。

―ある人にとってもっとも必要なものは、一切れのパンとひと皿のスープかも知れない。・・・

―ある人に欠けているもっとも必要なものが、生きるに値すると思える生活である場合もあるだろう。しかし、彼の目に映るのは、失敗し破滅し駄目になった生活である。そこで、彼は飢える。

―また、ある人に欠けているもっとも必要なものが、単純に、いささかの喜びである場合もあるだろう。しかし、彼は自分を本当に喜ばせてくれるようなものを、まったく何一つ見出せない。そこで、彼は飢える。

―そのもっとも必要なものが、人から本当に愛されることである場合もあるだろう。ところが、自分を愛してくれる者は誰もいない。そこで、彼は飢える。

―その人に欠けているもっとも必要なものが、良心的にやましくないということである場合は、どうだろうか。やましくないことを願わない者があるだろうか。しかし、やましさしか持ちえない場合には、その人は飢えるよりほかはない。

―ある人にもっとも必要なものが、何かあることに十分な確信を持つことだ、という場合もあるだろう。しかし、彼の中には、疑い以外には何もない。絶望が彼をどこかで脅かす。そこで、彼は飢える。

―しかし、人にとって何よりももっとも必要なのは、神との関係が正常になるということだろう。しかし、これまで彼が神について聞いたことは、彼に何も告げてくれなかった。彼はそれで何も始めることができかなかった。今では、もう何も知りたいとも思わない。彼は、神との正しい関係という、もっとも重大な事柄において飢えるのである。

そのような飢えた人々について、私たちは今、主は「飢えた人を良い物で満たす」という言葉を聞く。主は単に何か「慰めるもの」を与えてくださるだけでなく、単にひと口の食物、安価なあるいは高価なプレゼントを与えてくださるだけでなく、主は彼らを飽き足りるまで喜ばせられる。主は、「天より愛を雨とそそぎ」もっとも貧しい彼らを、もっとも豊かな者とされた。

(この後、「主」を「彼」と書いてあり分かりにくいので「イエス」と書きます。)

 

イエスがそのようにされたのは、自ら彼らの兄弟になることによってであった。

彼らと共にまた彼らのために、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれる飢えた者に、自らなることによってであった。

イエスは、彼らの弱さとすべての倒錯とすべての罪とすべての悲惨を、彼らから取り去り、御自身の身に負うために、彼らの側に身を置き、彼らを御自身の側に置かれた。

イエスは、御自身の犠牲によって、悪魔に対して、死に対して、また彼らの生を悲しく邪悪で暗いものにするすべてのものに対して、彼らをかばい、守り、助けられた。

イエスは、すべてのものを彼らから取り去り、御自身の身に担われたが、それは、それに代えて御自身のものを、すなわち神の子らの栄光・誉れ・喜びを、彼らに与えるためである。

 

イエスは、神殿に上り遠くに立って「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と頭を垂れる罪人を、まったくの義人として、家に帰らされたように(ルカ18:14)、飢えた者をもそのようにされる。

イエスは、あの貧しいラザロを、真の聖者として、聖なる父アブラハムのすぐそばに置かれたように(ルカ16:22)飢えた者を高く上げられた。

またイエスは、ペテロが夜通し漁をして何も取れなかった後で、「人間をとる漁師」として召されたように(ルカ5:10)、飢えた者をもそのようにされた。

またイエスは、父の家で、飢えた者を、放蕩息子として歓迎される。すなわち、厳しい学校教師のような視線を向けてではなく、あの放蕩息子の物語りにはっきり述べられているように、音楽を鳴りひびかせ、肥えた子牛をそのために屠らせて、歓迎される。(ルカ15:22-)

 

  大きな愛を示すため

  彼はすべてをなしたまう

  彼を信じる群れはみな

  永遠に喜び感謝せよ (讃美歌)

 

「彼を信じる群れ」とは、どのような集団だろうか。それは、神が「良い物で満たし」てくださるということを喜び感謝する、飢えた人々の共同体以外のものではない

なぜ特に彼らが、そのような群れなのだろうか。

それはただ、彼らが飢えた者たち・失われた者たちであるからであり、

主が「失われたものを捜して救うために来」られたからである。(ルカ19:10

次号は、富める者について書きます。